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第四章:硝子瓶の引力

灰色のフィルターは、数日経っても剥がれ落ちる気配がない。むしろ、日に日に厚みを増しているようにさえ感じられた。授業中、ノートを取る指先が、まるで自分のものとは思えないほど鈍重に動く。窓の外では、電線が五線譜みたいに空を区切り、そこに止まったカラスが、意味ありげな休符のように見えた。一瞬、電線そのものが細かく振動し、奇妙な模様を描き出したような気がして、目を擦る。疲れているのだろうか。それとも、まだあの夜の残響が、網膜に焼き付いているのか。


昼休みは、教室の喧騒から逃れるように図書室へ向かうのが習慣になっていた。古い本の匂いと、埃っぽい静寂。それが、今の私には唯一、心安らげる場所だった。適当な小説を手に取り、窓際の席に座る。けれど、ページをめくっても、文字はただの黒い染みにしか見えず、意味を結ばない。視線が、勝手に宙を彷徨う。


ふと、斜め向かいの席に、同じクラスの男子がいるのに気づいた。影山くん。確かそんな名前だったはずだ。彼はいつも一人で、あまり喋らず、教室でも特に目立たない存在。その彼が、分厚い、年代物の植物図鑑のようなものを、難しい顔で熱心に眺めている。どんな植物に興味があるのだろう。そもそも、なぜ植物図鑑? そのギャップが少しだけ気になり、無意識に見つめてしまっていたらしい。不意に彼が顔を上げ、私と視線がかち合った。彼は少し驚いたように目を見開き、そして、すぐに気まずそうに俯いて、再び図鑑に没頭した。私も慌てて視線を戻し、手元の小説に集中しようとしたが、もう遅かった。彼の、あの少し戸惑ったような目が、妙に頭に残った。


その日の夕方、家に帰ると、身体の奥からじわりと不快感が滲み上がってきた。軽い頭痛と、立ち眩みに似た感覚。世界が、ほんの少し、ぐらりと揺れる。些細な物音にも神経がささくれ立ち、母が立てる食器の音にさえ、無性にイライラした。


「ただいま」

「…おかえり」


母は、私の不機 Examinしていても、気づかないふりをする。それがいつものことだ。夕食の準備をする母の後ろ姿を眺めながら、私は何度も、理由もなく冷蔵庫を開けては閉めた。分かっている。まだ「その日」ではない。けれど、身体が、心が、無意識にそれを求めているのを感じる。あの、現実を溶かす、冷たい液体を。


その夜は、奇妙な夢を見た。

私は、大きなガラスの水槽の中にいる。手足は自由に動くけれど、どこにも行けない。水は生温く、少し濁っている。水槽の外から、誰かが私を覗き込んでいる。逆光で顔はよく見えないけれど、母のような気がした。その人物は、何も言わずに、ただじっと私を見ている。水が、どんどん濁っていく。粘度を増していく。息が、苦しい。助けて、と言おうとしても、声にならない。


はっとして目が覚めた。全身にじっとりと汗をかいている。心臓が、早鐘のように打っていた。窓の外はまだ暗い。あの、息苦しい感覚だけが、妙にリアルに残っていた。


翌日の帰り道は、いつも以上に感覚が過敏になっていた。街のあらゆる音が、増幅されて耳に突き刺さる。車のクラクション、商店街の呼び込みの声、子供の甲高い笑い声。それらが混ざり合い、不快なノイズとなって頭の中に響く。すれ違う人々の顔が、どれも無表情な仮面のように見えた。色褪せた看板の文字が、まるで古代の呪文のように、歪んで見える。昨日よりも強く、首筋にあの視線を感じる。冷たくて、粘りつくような感覚。何度も振り返ったが、もちろん、誰もいない。


(早く、帰りたい)


家に着くと、玄関の鍵が開いていた。珍しいことだ。リビングに入ると、シンと静まり返っている。母の姿が見えない。テーブルの上に、一枚のメモが置かれていた。


『少し野暮用で出かけます。夕食は冷蔵庫のものを温めて食べてください。』


母が昼間に長時間家を空けることは滅多にない。少しだけ胸がざわつくのを感じながら、冷蔵庫を開けた。そこには、いつもの白いペーストの隣に、見慣れた、しかし今はそこにあるはずのない、淡い水色の液体が入った硝子瓶が置かれていた。


「……え?」


予定より、三日も早い。

そっと瓶を手に取る。ひんやりとしたガラスの感触が、指先に伝わる。ずしりとした重み。中の液体が、静かに揺れる。

まだ、外は明るい。夕方の、柔らかい光が窓から差し込んでいる。今、これを飲むのは、違う。ルールを破ることになる。そう頭では分かっている。


けれど、身体の不調と、あの息苦しい夢の感触、そして今日一日中感じていた現実への耐え難い息苦しさが、私の中で急速に膨れ上がっていく。あの解放感が、今すぐ欲しい。この重たい身体と、ざらつく現実から、一刻も早く逃げ出したい。


(…昔も、こうだった)


ふと、記憶の断片が蘇る。小学校低学年の頃。友達の誕生日会に呼ばれた。テーブルには、色とりどりのケーキやお菓子が並んでいた。でも、私はどれも食べられない。食べたらどうなるか、分かっていたから。他の子たちが楽しそうにケーキを頬張る中、私は一人、ジュースのグラスを持ったまま、隅に座っていた。「どうして食べないの?」と聞かれるのが怖くて、帰り際に、こっそりティッシュに包んだクッキーをポケットに入れ、帰り道の公園のゴミ箱に捨てた。あの時の、胸を締め付けるような罪悪感と、どうしようもない孤独感。


瓶の蓋に、指がかかる。金属の、冷たい感触。

窓の外では、鳥が鳴いている。平和な、午後の時間。

これを飲めば、またあの美しい、歪んだ世界へ行ける。

でも、何か、とても良くないことが起こるような気もする。予感が、胸騒ぎが、指先を震わせる。


私の指は、ゆっくりと、しかし確実に、瓶の蓋を捻り始めていた。

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