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第三章:灰色の残響

目覚まし時計の電子音が、頭蓋骨の中で直接鳴っているみたいに響く。重たい瞼をこじ開けると、見慣れた天井がそこにあった。昨夜の深海の色も、蠢く木目も、もうどこにもない。ただ、白々しい朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の輪郭を凡庸に照らし出しているだけだ。


身体が、泥のように重い。関節がきしみ、筋肉が強張っている。まるで、昨夜、眠っている間に誰かに全身を殴られたかのようだ。「水槽のソーダ」の代償。美しい幻影の後に必ず訪れる、この現実の重力。分かってはいるけれど、毎度うんざりする。部屋にはまだ、あの甘ったるい、人工的な残り香が微かに漂っている気がした。あるいは、それも幻覚の残滓なのかもしれない。


のろのろと身体を起こし、鏡の前に立つ。そこに映っているのは、寝癖のついた髪、少しむくんだ瞼、色のない唇をした、見慣れた自分の顔。けれど、どこか他人のように見える。ガラス一枚隔てた向こう側の存在。この顔も、この身体も、本当に私のものなのだろうか。そんな、答えの出ない問いが頭をもたげる。


リビングに降りると、母がもう朝食の準備をしていた。テーブルの上には、いつもの白い皿。オートミールのような、味気ないペースト状の「食事」。私が安全に食べられる、数少ないメニューの一つだ。


「おはよう」

「…おはよう」


母は私を一瞥したが、すぐに視線を戻した。昨夜のことには、一切触れない。私が部屋に籠って何をしていたのか、おそらく察してはいるのだろう。でも、決して問いただしたりはしない。それが、私たち親子の間の、暗黙のルールだった。その沈黙が、時に刃物のように冷たく感じられる。


味のない朝食を、ただ口に運ぶ。砂を噛むような食感。これを「美味しい」と感じる日は、永遠に来ないだろう。母は向かいの席で、トーストにジャムを塗っている。普通の、どこにでもある朝の風景。私だけが、その風景から浮き上がっている。


「…今日は、帰り遅くなるの?」

「別に。いつも通り」

「そう。…気をつけて」


短い会話。それ以上、言葉は続かなかった。



通学路。昨日歩いた道と同じはずなのに、朝の光の中では、すべてが色褪せて見えた。生徒たちの賑やかな声や、自転車のベルの音、車の走行音。それらが、まるで分厚いガラス越しに聞いているみたいに、くぐもって遠い。現実感が、薄い。世界全体に、一枚、灰色のフィルターがかかっているようだ。


教室のドアを開けると、わっと人の波と声が押し寄せてきた。蛍光灯の白い光が、やけに目に突き刺さる。昨夜の幻影の中の、柔らかく揺らめく光とは全く違う、無機質で暴力的な光だ。思わず目を細める。


自分の席に座り、鞄から教科書を取り出す。周囲の会話が耳に入ってくる。昨日のテレビドラマの感想。新しいアイドルの噂。週末の予定。そのどれもが、私にとっては異国の言葉のように響く。内容が理解できないわけではない。ただ、感情が全く動かないのだ。まるで、壊れたラジオを聞いているみたいに。


授業が始まる。教師の声が、単調なリズムで鼓膜を叩く。ノートを開くと、白い紙面が、一瞬、ぐにゃりと波打ったように見えた。慌てて瞬きをする。残像だ。昨夜の感覚が、まだ神経のどこかにこびりついている。集中しようとしても、意識はすぐに窓の外へ飛んでしまう。空に浮かぶ雲が、ゆっくりと形を変えていく。あの雲は、何に見えるだろう。昨夜なら、きっとクジラか、あるいは巨大な鳥に見えたはずだ。でも今は、ただの白い塊にしか見えない。


昼休み。教室の隅で、買ってきたパックの豆乳をストローで啜る。これも、私が口にできる数少ないものの一つだ。周囲では、他の生徒たちが楽しそうに弁当を広げたり、購買で買ってきたパンやお菓子を分け合ったりしている。色とりどりのパッケージ。湯気の立つおかず。甘い匂い。私には縁のない、「普通」の光景。それを見ていると、胃のあたりがむかむかとして、軽い吐き気を覚えた。慌てて視線を逸らす。


教室の中心グループの女子たちが、きゃらきゃらと笑いながら話しているのが聞こえる。誰かが誰かに告白したとか、しないとか。そんな話。彼女たちの頬は上気し、目はきらきらと輝いている。その熱量が、私には眩しすぎて、直視できない。まるで、違う種類の生き物みたいだ。


ふと、首筋に、あの奇妙な感覚が蘇った。冷たい指で、そっと撫でられているような。あるいは、じっと見つめられているような。ぞくりとして、思わず周囲を見回す。けれど、誰も私を見てなどいない。皆、自分の世界に夢中だ。気のせい。そう思うしかない。でも、あの感覚は、確かにそこに「在る」。



放課後。チャイムが鳴ると同時に、教室は解放感に満ちた喧騒に包まれた。私はその波に乗り遅れないように、さっさと鞄に荷物を詰め、誰にも声をかけられずに教室を出た。


空は、どんよりとした灰色に覆われている。昨日とは違う、希望も絶望もない、ただ平坦な空。早く家に帰りたい。自分の部屋に閉じこもりたい。外部からの刺激を、すべて遮断したい。


歩きながら、無意識に指を折っていた。次の瓶が届くのは、いつだっけ。カレンダーを確認しなければ。あの、水色の液体だけが、この灰色の現実から私を連れ出してくれる。あの、甘美で危険な逃避行だけが、今の私にとっての唯一の救いだ。


重い足取りで、家路を急ぐ。背後で、誰かの視線を感じたような気がしたけれど、もう振り返る気力もなかった。

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