第二章:融解点
時間は、粘り気のある飴のように引き伸ばされ、あるいは不意に圧縮されて跳ねる。部屋は、深い海の底になった。窓から差し込む光は、もう夕焼けの名残ではなく、水面に揺らめく光のカーテンだ。壁紙の青は、深海の色そのもの。そこかしこに散らばる光の粒子が、プランクトンのようにゆっくりと明滅している。私の身体は、水の流れに漂う海藻みたいに、ゆらり、ゆらりと揺れている。重力なんて、どこか遠い宇宙の法則。ここは、私だけの水槽。
(…きれい)
言葉は、音になる前に霧散する。思考の形を保てない。ただ、網膜に映る色彩と光の戯れが、直接、感情に流れ込んでくる。天井の木目が、古代文字のように明滅しながらパターンを変え続ける。それは解読不能なメッセージのようでもあり、ただの美しい模様のようでもある。どちらでもいい。理解なんて必要ない。この感覚に身を委ねているだけで、満たされる。
ふと、自分の指先を見た。淡い光の中で、それは半透明にかすんで見える。骨が、血管が、うっすらと透けているような気がする。指を動かすと、その動きに合わせて、きらきらと光の鱗粉が舞い散った。試しに、壁にそっと触れてみる。ひんやりとした感触。…のはずなのに、指先が壁の表面にじわりと沈み込んでいくような、奇妙な感覚があった。壁と私の境界線が、ゆっくりと溶け出している。このまま、壁の一部になってしまえたら。そしたら、もう何も考えなくて済むのに。
どこかで、囁き声が聞こえる。男の子の声? 女の子の声? 高くもなく、低くもない、中性的な響き。何を言っているのかは聞き取れない。外国語のようでもあり、ただのノイズのようでもある。でも、怖くはない。むしろ、心地よい子守唄のように聞こえた。その声に誘われるように、意識がさらに深く、深く沈んでいく。
(…ちがうのよ、あなたは)
母の声だ。いつかの食卓。私だけ、白いお粥のようなものを食べている。向かいに座る母の顔は、優しげだけど、どこか哀しそうだ。
(ほかの子とは、すこしだけ、からだのつくりが)
作り笑い。そう、あれは作り笑いだった。大丈夫よ、と言いながら、母の目は笑っていなかった。その視線が、当時の私にはよく分からなかったけれど、今は…この、融解した意識の中では、痛いほど分かる。それは、憐憫と、諦めと、そして、ほんの少しの…恐怖?
(だから、これを)
初めて「水槽のソーダ」を渡された日。小さな、薬瓶のような容器に入っていた。飲むのを躊躇う私に、母は言った。「だいじょうぶ。これは、あなたをたすけてくれるから」。助ける? 何から?
あの時の、最初の一口。
舌の上で弾けた、小さな衝撃。
そして、世界が、初めて、色を変えた瞬間。
(たすけて…)
囁き声が、また聞こえる。今度は、少しだけはっきりと。それは、助けを求める声のようにも、私を誘う声のようにも聞こえた。壁の染みが、人の顔のように歪んで見える。笑っている? 怒っている? 判別がつかない。ただ、じっと、私を見ている。
時間の感覚が、さらに狂いだす。時計の針は、カタツムリみたいにゆっくりと進んだかと思うと、次の瞬間には目にも留まらぬ速さで回転する。窓の外の景色が、コマ送りのように見える。車が瞬間移動し、歩行者が点滅するように現れては消える。私の部屋だけが、時間の流れから取り残された孤島のようだ。
(…そろそろ、かな)
ふと、そんな予感がした。永遠に続くかと思われた多幸感の波が、ゆっくりと引いていくのを感じる。鮮やかすぎた色彩が、徐々に落ち着きを取り戻し始める。深海の青だった壁は、見慣れた、少し色褪せた壁紙に戻っていく。光の粒子は消え、部屋には均一な薄明かりが満ちる。
身体が、重くなる。鉛を飲み込んだみたいに、ずしりとした重みが戻ってくる。椅子に押し付けられる感覚。手足の輪郭が、はっきりと感じられる。さっきまで溶け合っていた壁との境界線が、冷たく引かれていく。
あの子守唄のような囁き声も、もう聞こえない。
壁の染みは、ただの染みだ。
カーテンの向こうには、誰もいない。
代わりにやってくるのは、鈍い頭痛と、全身を覆う気怠さ。まるで、長い熱に浮かされた後のような、消耗した感覚。心地よい浮遊感は消え去り、ただ、現実の重さだけが残る。
(…ああ)
ため息が漏れる。喪失感。魔法が解けて、カボチャの馬車が元の姿に戻ってしまったような、そんな陳腐な感傷。でも、嘘じゃない。さっきまでいた、あの美しくて奇妙な世界は、もうどこにもない。ここにあるのは、いつもの、退屈で、少し埃っぽい、私の部屋だけだ。
ゆっくりと立ち上がり、窓に近づく。カーテンを開けると、外はもう完全に夜になっていた。街灯が、頼りなげなオレンジ色の光を投げかけている。遠くで電車の走る音が聞こえる。日常の音。日常の光。
部屋には、まだ「水槽のソーダ」の微かな甘い匂いが残っている。それが、さっきまでの出来事が夢ではなかったことの唯一の証拠だ。
首筋に残る、奇妙な違和感。まるで、そこにまだ見えない誰かの視線が触れているような。
また、ここから始めなければならない。
次の「逃避行」まで、この灰色の現実を、やり過ごさなければ。
カレンダーに目をやる。次の瓶が届くまで、あと、何日だろうか。