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第一章:水槽のソーダ

アスファルトの白っぽい熱気が、足元からじわりと滲む。四月。新しいクラスの、まだインクの匂いがするような人間関係の薄膜。それを破る気力もなく、私はいつも通り、少しだけ遠回りをして家路についていた。陽光はすでに傾きかけ、電柱の影が長く、長く伸びている。その影の先端を、わざと踏まないように歩く。意味なんてない。ただ、そうしたかっただけ。


通りの両側には、シャッターを下ろしたままの店が歯抜けのように並んでいる。かつては賑わっていたのだろうか。色褪せた看板には、掠れた文字で「パーラー フジ」とか、「フレッシュミート スズキ」とか、もう誰も思い出さないかもしれない名前が残っている。ガラス戸の奥は暗く、埃をかぶった商品サンプルが、時が止まった化石みたいに鎮座していた。誰もいない。車の通りもまばらで、聞こえるのは自分の靴音と、どこかの家の室外機が唸る低い音だけ。世界から切り取られた、静止画のような風景。でも、嫌いじゃなかった。この寂れた感じが、今の私の心にはちょうどよかった。


喉が渇く。ポケットを探ると、小銭が数枚、指先に触れた。自販機が見える。けれど、私が買えるものはほとんどない。普通のジュースも、お茶も、牛乳さえも。私の身体は、まるで出来の悪い化学実験みたいに、ごく限られた物質しか受け付けない。それ以外のものを口にすれば、たちまち世界は反転し、激しい拒絶反応が全身を襲う。蕁麻疹。呼吸困難。意識の混濁。一度、小学校の給食で出たオレンジジュースを飲んで倒れて以来、私はずっと「普通」から弾かれた場所にいる。


原因不明、と医者は言った。アレルギー検査の数値はどれも正常。精神的なものかもしれない、なんて曖昧な言葉で濁されて、結局、私が自分で「安全」だと確認できたもの以外は口にしない、という生活に行き着いた。それは、驚くほど選択肢の少ない、彩りのない食卓を意味していた。


だから、渇きを感じても、簡単には潤せない。この身体は、私自身でありながら、私のものではないような、扱いにくい借り物のような感覚がずっと付きまとっている。


(…もうすぐ、だ)


家が近づくにつれて、胸の奥が小さくざわめく。期待、と呼ぶには少し後ろめたく、渇望、と言うにはささやかすぎる、奇妙な高揚感。冷蔵庫の中にある、私だけの「特別」。それだけが、この灰色で単調な現実から、ほんの少しの間、私を解放してくれる。



自分の部屋に戻り、カーテンを閉める。西日が差し込む窓の外では、まだ子供たちの声が聞こえるけれど、厚い布一枚を隔てただけで、そこは遠い世界の出来事のように感じられた。冷蔵庫を開けると、ひやりとした空気が頬を撫でる。奥の方に、それはあった。ラベルのない、透明な瓶。中に満たされているのは、わずかに気泡を含んだ、淡い、淡い、水色の液体。誰が名付けたのか、私はそれを「水槽のソーダ」と呼んでいた。市販されているものではない。月に一度、母がどこからか手に入れてくる、謎めいた飲み物。母も、詳しいことは何も教えてくれない。「あなたにはこれが必要だから」とだけ言って、静かにテーブルに置くのだ。


成分表示なんて、どこにもない。原材料も、製造元も不明。でも、これだけは、私の身体が拒絶しない。それどころか…。


瓶の蓋を開けると、微かな甘い香りがした。熟れすぎた果実のような、それでいてどこか人工的な、不思議な匂い。グラスに注ぐと、しゅわしゅわと小さな泡が立ち上り、すぐに消えた。まるで、水槽の中で熱帯魚が吐き出した泡みたいだ。


椅子に深く腰掛け、グラスをゆっくりと傾ける。液体が舌の上を滑り落ちていく。味は、ほとんどない。ほんのりとした甘さと、微かな金属のような後味。温度のない水が、ただ喉を通っていく感覚。


最初は、何も変わらない。部屋の空気も、窓の外の音も、壁にかけられた時計の秒針の音も、いつも通り。目を閉じて、じっと待つ。心臓の鼓動が、少しだけ速くなるのを感じる。


(……きた)


最初に変化するのは、いつも色だ。視界の縁が、じわりと滲むように明るくなる。壁紙の模様が、妙にはっきりと、立体的に見え始める。さっきまで気にも留めなかった天井の木目が、まるで生きているみたいに蠢いているように見える。いや、実際に蠢いているのかもしれない。


次に、音。遠くで鳴っていたはずのサイレンの音が、すぐ耳元で鳴っているように響く。時計の秒針の音が、一つ一つ、水滴が落ちるみたいに重たく、大きく聞こえる。自分の呼吸の音さえ、洞窟の中にいるみたいに反響する。


身体が、ふわりと軽くなる。椅子に座っているはずなのに、まるで水の中に浮かんでいるような感覚。手足の輪郭が曖昧になって、どこからが自分で、どこからが空気なのか、わからなくなる。


(ああ…)


思考が、ゆっくりと溶けだしていく。さっきまで考えていたこと、クラスのこと、将来のこと、そんなものはどうでもよくなる。言葉が、意味をなさなくなる。ただ、感覚だけが鋭敏になっていく。壁の色が、見たことのないような鮮やかな青に変わる。カーテンのドレープが、波のようにうねっている。床の木目が、複雑な迷路のように見える。


窓の外を見る。夕焼け空が、燃えるようなオレンジと紫のグラデーションを描いている。雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていく。鳥が、光の粒子を散りばめながら飛んでいく。…本当に?


ふと、視界の隅に、何かが映った気がした。小さな、黒い影。それはすぐに消えたけれど、確かにそこにいたような気がした。虫? 違う。もっと…意思のある何か。


(…いつだったか)


断片的な記憶が、泡のように浮かんでは消える。白い天井。消毒液の匂い。母の心配そうな顔。隣のベッドの子が、好奇と、少しの軽蔑が混じった目で私を見ていた。給食の、あの、オレンジ色の液体。甘くて、冷たくて、そして…。


(やめて)


記憶を振り払うように、首を振る。今は、こっちがいい。この、不確かで、奇妙で、美しい世界。現実なんて、灰色で、退屈で、私を拒絶するだけだ。でも、ここは違う。ここは、私を受け入れてくれる。この感覚だけが、私を生かしてくれる。


グラスに残っていた最後の一口を飲み干す。部屋全体が、ゆっくりと呼吸をしているように感じられる。壁が、床が、天井が、私と一緒に、深く、静かに、息をしている。もう、寂しくない。孤独じゃない。私は、この部屋と、この光と、この音と、一つになっている。


水槽のソーダ。

私だけの、秘密の逃避行。

この歪んだ多幸感の中でなら、明日もまた、あの灰色の現実を生きていける。


たぶん。

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