乖離
二人は、しばらく黙っていたが、和馬が搾り出すようにゆっくりと口を開いた。
「……とにかく、部屋に戻ったほうがよくないですか?」
「だからさー! さっきも言ったけど俺が高橋なんだってば!」
強い口調でそう言った晴輝だが、さきほど鏡に映った姿が自分自身のそれとは大きくかけ離れていることを思い出し、語調を弱めた。
「……まぁ、こんな見た目じゃ信じられないかもしれないけど」
しゅんとした様子を見て、和馬はこのまま邪険にするのもどうかと思い始めた。
「……ちなみに聞きますけど、誕生日は?」
その問いに、彼の顔はぱっと明るくなった。
「お。信じてみる気になったのか? 七月十四日だよ」
「……なんか胡散臭いな」
そう言い怪訝顔を向ける和馬に、晴輝はまくしたてた。
「まあまあ。次、なんか質問ないのかよ?」
ふうっとため息をついた和馬は、思いついたことを質問していく。
「……なに乗ってるんだっけ?」
バイクのことだろう、と彼は即座に判断して、
「TW」
そう即答する。和馬は、当たりも外れも言わず矢継ぎ早に口を開く。
「治験の前ってどこで飲んだっけ?」
「串屋だろ?」
「そんときの会計、いくらだった?」
思いがけない質問に、晴輝は一瞬ひるんだ。
「はぁ? 覚えてねえよ。六千円くらいだっけ?」
「いや、あのとき実は割引券持ってて、三千円で済んだんだ」
その事実に驚嘆し、次の瞬間眉間にしわを寄せた。
「はぁ? ざけんな、てめえ。したら半分返せや」
「出身地は?」
「いや、今はその話じゃねえ。レシート見せろよ。持ってるんだろ?」
「わかった、わかった。返すからさっきの質問に答えろ」
「……北海道だよ。つーかお前に言ったことあったっけ?」
「いや、ねえよ。初めて聞いた」
晴輝は、かくん、と右肩を下げた。
「だったら、その質問の意味ねぇじゃん」
「いや、ちょっと聞いてみたかったからな」
和馬はそう言いながら、右のこめかみを掻いて続けた。
「うーん、なんか高橋っぽいけど、断定まではできないなぁ……」
「疑り深いな、お前も……」
そう言った彼は、決定的な証拠を探そうと思案しているとき、ふと手首に触覚があった。それがきっかけで、手首に巻かれた名札を手錠と形容したことを思い出した。
「……そうそう、これだ」
言いつつ、氏名の欄に「高橋 晴樹」の表記があることを確認したのち、
「ほら、ちゃんと俺の名前になっているだろ?」
そう言い、右手首を和馬に見せた。
「まぁ、確かに。外そうと思っても外れないもんな、これ」
和馬はそれを遠慮がちに引っ張るが、手首から抜けそうな気配は微塵もなかった。
「だろ?」
彼は、安堵としたり顔が混じった表情でそう言うが、和馬にはとても信じられるものではなかった。
それもそのはずである。昨日まで接していた顔、ましてや性別まで違っているのだから、彼としては困惑顔を解くには至らなかった。
「うーん……」
彼が言葉を探していると、彼らのいる部屋のドアがノックされる。どちらからともなく二人ともそれに、はい、と返答した。
「失礼します。お目覚めでしょうか……あら?」
ノックから間髪いれずに入ってきた看護師が、晴輝の顔を見て訝しんだ。
「申し訳ございませんが、お部屋の移動は禁止させていただいていたはずですが……」
「いいえ。移動なんてしてません。俺は高橋、本人です」
彼は、腕を組んで自信満々にそう言った。
「えーっと、そう言われましても……。男性と女性は同じ部屋にはしていないはずですが……」
「だから。俺、本人ですって。なんか姿が変わってますけど」
通常ありえないその言葉を聞いた看護師は、冗談にもできない作り話だと吹き出した。
「そんな訳ないでしょう。さぁ、お部屋に戻っていただけますか?」
そんな看護師に向かって、晴輝はむすっとした顔で歩き出した。
「じゃあ、これ見てくださいよ。俺はどこの部屋に戻ればいいんですか?」
和馬にもしたように、彼女にも右手首を差し出す。
「高橋……晴輝さん。って書いてありますね。確かに、この部屋の方のお名前です……。が、やはり男性と女性の部屋を一緒にはしていないはずなんですけど……」
看護師は、腕輪の破損がないことを確認し、名簿と名札とに目線を往復させながら同じ言葉を繰り返すほど困惑している。
その、煮え切らない様子に苛立った晴輝は、ん~、と唸り、言う。
「だぁ、もう! まだるっこいな! 指紋でもDNAでも、なんでもいいから昨日の俺のものと一致してるか調べてくれ!」
昨日採取した晴輝の血液と、今朝、突然現れた女の子の血液とで、緊急のDNA型鑑定が行われた。
他の治験患者の検査が終わってからかなり時間が経ったあと、晴輝は診察室へと呼び出された。
部屋に入ると、医師は難しそうな顔で書類の最終確認をしていた。彼は医師と向き合う形で椅子に座った。
「……あなたは、高橋 晴輝さん、で、間違いないことが証明されました」
彼は、神妙な面持ちで晴輝にそう伝えた。
「まあ、そうなるでしょうね」
当然、と言いたげな顔で彼はそう言った。言い放ちはした医師であったが、難しそうな顔を解く気配はなかった。絞り出すかのように、彼は続ける。
「ですが……、飲んでいただいた薬との因果関係はないと思います。マウスの実験でも性転換なんて症例は……」
「でも現にこうなっているじゃないですか。酒なんて毎週のように飲んでるし、ほかの要因なんて薬以外に考えられますか?」
昨日飲まされた薬が原因ではない。そう結論付けたがる医師に、その言葉の途中で彼は否定をする。
「うーん……」
医師は言葉に詰まったように、少し黙った。数秒間の沈黙ののち、晴輝は痺れを切らしたように問う。
「じゃあ仮にですよ? あの薬が原因ではないとして、俺の体がこうなったこと、どう説明できるんですか?」
彼からの返答は、やはりなかった。これだけ重大な身体の異常が発生しているにもかかわらず、この問題にかかわりたくない様子の彼に、晴輝は怒りを覚えた。
「俺が俺であることを証明できる人は、あなたたち以外いないんですよ? ここで見捨てられたら、俺は今後どうしたらいいんですか!?」
少し語気を荒らげて晴輝が言った言葉を聞いて、医師ははっとした。彼の言うとおり、目の前の女の子と昨日まで居た晴輝との同一性を自分が証明しなければ、彼は路頭に迷ってしまうかもしれない。そう思った医師は、できる限りことをしよう、という気持ちを固めた。
「……では、もう少し精密なデータを取らせていただけますでしょうか。結果が分かり次第ご報告いたしますので」
「それは構いませんが……。結果ってどれくらいで出るんですか?」
医師は少しの間黙り、続けた。
「……どれだけ短くても二週間はいただきたいです。長ければ……想像もつかないです」
「それまでの間、この体で過ごせと?」
「……入院、いや、病院に泊まる、……というのはいかがでしょうか」
「んー……。仕事を休めるのであれば、それでいいんですけど……。ちょっと確認したいので電話してきてもいいですか?」
中腰になりながらそう問うと、彼は手のひらを診察室出口へと向けた。
「ええ、ぜひ。お願いいたします」
「はい」
そう言いながら晴輝は立ち上がり、診察室を出た。そのまま待合室へ行くと、和馬が見えた。彼は、いすに座ってスマホを手にしていた。
「よ」
晴輝がそう声をかけると、和馬は一瞬「誰だ?」という顔をしたが、それを悟られないようにか一度手許に目線を移した上で彼の方へ向いた。
「……おぅ。どうだった?」
「遺伝子一致。やっぱり俺は俺だったわ」
心配させまいと、わざと明るくそう言い、彼は指でのブイサインを和馬に向けた。
「そうか。……で、バイトどうすんの?」
「これから野獣に電話かける」
野獣、とは、彼らのバイト先の店長の梶原のことである。怒ると激しいため、彼らバイト仲間のあいだで、そう呼称されている。
「……無駄だな」
「……俺もそう思う」
そう言い、通話可能な空間へと足を伸ばした。
外へ出た彼は、ふぅ、と一息つき、スマホの電話アプリを開き、目的の場所までスクロールする。
登録されている名前を見つけ、店に電話をかける。数回のコール音の後、女性の声が聞こえた。
『お電話ありがとうございます。焼肉焔 目黒店です』
その声は、同年代の同僚の声だった。晴輝は無意識に安堵し、素のトーンで話し始めてしまう。
「あー、相田か。高橋だけど」
『え……? 高橋、くん……?』
電話口の彼女は、少し困惑していた。それもそのはず、原キーが底上げされた声は、耳慣れた「高橋くん」の声ではないからである。
梶原の携帯に直接かけるべきだったかな、と彼は思ったが、かまわず続けた。
「あぁ。店長いる?」
『あ、うん。ちょっと待って』
保留音が流れた。十数秒ほどでそれは途切れた。
『はい、梶原です』
普段と変わらない、眠たいのか、けだるいのか、面倒くさいのかはわからないが、そういった口調での応答が返ってきた。
「お疲れ様です、高橋です」
『おう。お疲れ様。どうした?』
「あのー、ですね。しばらくバイトを休ませていただきたくて……」
『ん? しばらく……って、どれくらい?』
どれくらいなのかは、彼自身も知りたいところだった。
「……どんだけ短くても二週間で、長ければ想像もつかないそうです」
『なんだそりゃ?』
「医者の診断です」
一瞬、梶原は困惑するような息遣いをし、続ける。
『……どういった病気? 差し支えなかったら教えてもらえる?』
そう問われて、晴輝は少し思案した。しかし、あまり間が空いても不審がられるので、ふと思いついた病名が口をついて出た。
「えーと、なんか新型の感染症らしいです」
『そうなのか。それなら仕方がないな。お前も大変だろうけど、感染症ってことは俺たちも検査しなきゃいけないんだろ? 店、大丈夫かなぁ……』
しまった、感染症はなかった。と晴輝は思った。
「えーっと、それは大丈夫だと思いますが……」
言いながら、店に損害を与えないように、かつ矛盾しないような言い訳を考え始めた。だが、一秒も経たないうちに彼からの追求の声が聞こえる。
『はぁ? ちょっと待て。お前、適当なこと言ってないか?』
「すみません! 感染症じゃないです!」
そう言うと安堵とも怒りとも取れる深いため息が聞こえてきた。
『はぁー……。長期休暇の報告はしづらいだろうけど、正直に理由を言わないと、いくら正当なワケがあったとしたって、俺は首を縦には振れないぞ?』
「正直に言っても、信じてもらえるかどうか分からないんですが……」
晴輝がごにょっとそう言うと、少しの間が開いた。そののち、やや短めのため息が聞こえてきた。
『……俺がどういう目線で見られているか、よくわかったよ。相当嫌われているんだな』
「え?」
『病気は病気なんだろ? そこは間違いないな?』
「はい、そうですが……」
『いままで俺が休暇の申請を断ったことがあったか? 今回は確かに直前すぎだけど、それでもなんとか人員の工面はできるからよ』
晴輝は、うーん、と少しうなった。
「……それもそうですね。じゃあ、正直に言いますけど、笑ったりしないでくださいよ?」
『人の病気を笑ったりなんてするかよ』
「怒ったりもしないでくださいね」
『……早く言え』
なかなか続きを言わない彼に苛立ちを覚えたか、あるいは嘘っぽいと感じたのか、梶原は低い声でそう促した。
晴輝は覚悟を決めるため、ふぅっと一息つけてから、一気に続きを言う。
「朝起きたら女の子になっていますた」
早口になってしまったため、言葉の端を噛んでしまった。その様子に憤懣を覚えたであろう梶原は唸るような声で答える。
『テメェ……昼間っから酔っぱらってるのか? 切るぞ』
「あっ! ちょっ!」
『ツー、ツー、ツー、ツー……』
無常にも彼には弁明の暇は与えられず、電話は回線切断を知らせる断続音を発し始めた。
晴輝は、ふぅー、とため息をついてからスマホの画面を見て、完全に通話が終了していることを確認したうえでそれをポケットにしまった。
かけなおそうとも一瞬考えたが、門前払いされるのが目に見えているので、彼はあきらめて来た道を引き返すことにした。
入り口をくぐり、受付を素通りして、やや歩いた場所にいる和馬に近づく。彼は、「あ」という顔をしたのち、晴輝に話しかける。
「野獣、なんて言ってた?」
「却下だった」
そうだろうな、と思った和馬であったが、おそらく病気か、それに類するもので休む旨は伝えたはずであろうとも思った。野獣と呼称されている彼であろうと、病気まで否定するひどい人ではないはずである。そう考え、眉をひそめて晴輝に聞く。
「……ちなみに聞くけど、休む理由は何て言ったんだ?」
「朝起きたら女になっていました、って」
和馬は盛大にため息をついた。
「そんな理由を告げられたら、当然の反応だ。診察終わったら直接行って説明するしかないな」
「……そうだな」
晴輝は面倒くさそうに、本日何回目なのか数えるのも嫌になりそうなくらいであるため息を、少し長めにつきながらそう言い、診察室へと戻って行った。ドアを開けると、書類に書き込んでいた医師は手を止めて、彼のほうへと向いた。
「いかがでしたか? お仕事は休めそうですか?」
「いいえ。たぶん絶望的です」
晴輝は座りながらそう言った。医師は、おそらくそうなるであろうと予想していたのか、少し諦めたような顔をした。
「……そうですか。では、迷惑料、というわけではないのですが、直近でご入り用でしょうから、とのことで製薬会社の者から……」
そう言い、医者は1ミリほどの厚さの封筒を彼の方へ向けた。
「これですべて済まそうなんて思ってなんていないでしょうね?」
「もちろんです。まずは一週間程度、お困りにならないようにするためです。また、元のお体に戻せるようでしたら、全力を尽くしたいと思っております」
「……わかりました。では、ありがたく受け取っておきます」
「それでは、精密検査の方へ入らせていただきます」
検査が終わるころには、あたりは暗くなりかけていた。
「……なにしてるの?」
まだ待合室のいすに座ってスマホをいじっている和馬に対して、呆れ気味に晴輝がそう問う。
「いや、野獣への弁明につき合ってやろうかと思ってな」
「別にいいのに……」
晴輝が外へと向かうのについていく形で和馬は立ち上がり、二人、出口へと歩き出した。
外へ出て、昨日歩いた道を戻るようにたどる。
少しの間会話が途切れたので、晴輝が切り出した。
「そういやさ、昨日のつまみ、マズかったよな」
「ん。あぁ、そうだなぁ。つーか、普段飲むときだって、腹に何か入れてから飲むっていうのに、マズい乾き物オンリーだったもんな」
和馬は、真正面を向きながらそう答える。
「あんなもんだけ食わされて飲んでたら酔いも回るっつーの」
「確かにな。ただ、あの薬は凄かったな。一切、二日酔いがなかったんだから」
「おぅ。少しは具合悪いのが残ると思ったんだけどな。まぁ、その代わり……」
晴輝はそう言いかけて少し黙ったのち、ふたたびゆっくりと口を開く。
「……これって、俺だけなんだよな」
その呟きとも取れる問いかけは和馬にしっかりと届いた。が、彼はそれに返す言葉を持ち合わせていなかった。
「……そう、だろうな」
ようやく絞り出したように、彼は言った。晴輝は、しばらく黙っていたが、またぽつりと呟く。
「俺、なにか悪いことでもしたのかな……?」
しゅんとして、うつむき加減でそう言う彼を、和馬は思わずかわいい、と思ってしまった。
が、その不謹慎すぎる感情を抑え、彼の背中を平手で軽く叩いた。
「しっかりしろ、バカ。お前らしくないぞ」
晴輝ははっとして、顔を上げた。和馬は、彼を安心させるためだろうか、微笑をこちらに向けていた。
「……そうだな」
そう言いながら、彼もふっと微笑を作る。そして、和馬の背中を軽くグーで殴った。
「っていうか、バカはねえんじゃねえの?」
「ははっ、わりいな」
言いあううちに、二人は新宿駅の入口付近まで辿りついていた。和馬はあたりを見回して、ふと呟いた。
「つーか、人が多くなってきたな」
「あん? 駅なんだから当たり前じゃねえの?」
不思議そうに晴輝は、そう答えながら左のお尻のあたりをまさぐった。
「あー、いや、だからよ?」
和馬は、定期入れをポケットから取り出しながら言いづらそうにしている。
「だから、なによ?」
晴輝はまだ左のお尻に手をやっていたが、財布はカバンの中だとようやく気付く。
そのタイミングで和馬は、言おうか言うまいかを迷ったあと、周りを気にしつつ、小声で言う。
「ん~……。言葉づかい。気をつけたほうがいいんじゃねえか?」
「は? なんで?」
注意されたそのことは、彼にとっては全くの予想外、かつ意味不明なことだったので、やや素っ頓狂な声で小さく叫んだ。
そうしながらも、手に持っていたカバンから、さきほど左後ろポケットにあることを期待していた長財布を取り出した。
それを改札機に押し当てる。彼はその関門の通過を許された音を聞くと、財布をカバンにしまった。
そこでようやく、和馬の先ほどの注意の意味を理解した。要するに粗暴な言葉遣いをやめなさい、ということである。
「……あぁー、なるほどね」
晴輝は、自身が女性化していることを思い出した。彼らは、ホームへの階段を昇りはじめ、その中腹ほどで晴輝は言葉を続ける。
「でもさ、別にこれくらい、普通の女でもこんな話し方しねえか?」
階段を登りきったころ、電車はちょうどホームに入ってきているところだった。
「あ、いや……。お前のその見た目だとその話し方がまったく合わないんだよ」
「合わねーったってさ、しゃーないじゃん」
降りてくる人たちの流れで、二人は分断されてしまった。ややあって、電車に乗り込んだところで、その扉が閉まった。乗車する人の列の最後だったため、彼らの目の前にはドアがあった。その窓には彼らが鏡のように映り込んでいる。
「ちょうどいいや。それ見ながら話してみ?」
「んな言葉遣いぐらい、特にそんなに気にされるわけねえだろ……」
そう言いながら晴輝が窓に目を移すと、目がくりっとした女の子が一生懸命そうに眉毛を釣り上げてイキがっているような姿が見えた。
それを見て、彼は俯いた。
「……うわ、確かに、……ないわー」
そう言い、恥ずかしくなった彼は少し小声になって言った。
「だろ?」
そういって和馬は、ふぅ、と軽いため息を吐いた。俯いていた晴輝が、ややあって顔を上げ、困ったような顔をこちらに向けた。
「だからって、どうするのさ?」
彼にそう問われた和馬は、少し思案する。その結果、彼に浮かんだ最適解を端的に言葉にする。
「……女言葉を意識するとかは?」
言われた彼には女言葉というカテゴリーの語彙を持ち合わせてはいなかった。数瞬、頭の片隅にある言葉の端を紡いで、一瞬目を閉じ、和馬に向き直って言う。
「こうすればいいのかしら?」
「いや、そうじゃねーよ」
そのわざとらしい口調に一片たりとも自然さを感じ取れなかった和馬は、あきれ返ったように言った。
「うるせーな」
晴輝は、自身の語彙の少なさに若干の恥ずかしさを感じて少しうつむき、上目遣いで和馬をにらみつけた。確かに女言葉と言うとそうなるかな、と反省した和馬は、少し考えた上で提案をする。
「……んー、じゃあ、言葉端だけ気にするっていうのは? さっきの『うるせーな』を『うるさいな』にしてみたりとか、普段の話し言葉と敬語の中間みたいな話し方を心がけたらいいんじゃないか?」
「ヤダよ、めんどい」
先ほどの失敗から、まだむすっとしながらその返答をした晴輝に、なだめるように彼は言う。
「まぁまぁ。じゃあ、今この場限りでいいから」
「……わかったよ。しゃーね……、しょうがないなぁ」
「おっ。そんな感じかな」
期待通りの結果を得た和馬は、満足げな顔をした。その顔を見た晴輝の顔は、ゴミを見る目に変わっていた。
「うわキモ」
「……うるせえな」
和馬はそう言い、恥ずかしそうにした。その様子を見た彼はニヤついた顔で煽る。
「あれ? その言葉遣い。お前はいいんだ」
「あーもう。俺はいいんだよ。状況考えろ」
結局、和馬は電車を降りるまでぶすっとしたまま黙り込んでしまった。
彼らの家、そしてバイト先の最寄り駅に、二人は到着した。
改札を出て、しばらく無言で歩いていたが、和馬がおそるおそると言った口調で言い出す。
「そういや、その服どうしたんだ?」
彼が目線を向ける先には、ちょうどいいサイズのTシャツとスカートのいでたちの晴輝がいる。
「あぁ、あそこを出る前に、看護師にもらったんだよ。なんか出勤前に買ってきたのがあるとか言われて」
和馬は、なるほど、と言う顔をした。
「ふーん。親切な人もいるもんだ」
「そうだぬぇ」
語尾に気をつけすぎてしまって変になってしまったが、誤魔化すこともせずに続ける。
「……最初は洗って返すって言ったんだけど、別にいいってさ」
言い終えて、若干の間をおいて晴輝は続けた。
「……ま、返されても困るか。男が着た女の服だし」
「いや、それに関しては気にしてないと思うけど……」
そう言いあっているうちに、二人はバイト先に到着していた。
通用口は鍵が開いていて、彼らはそこから店舗内へと入っていった。
事務所の扉を、和馬がノックする。
「はい」
梶原の声が、その向こうから聞こえてきた。
和馬がドアを開けると、パソコンに向かって作業をしている梶原の姿が見えた。
「おぅ、大谷か。今日は休みだろ? どうした?」
ちらりとこちらを見ただけの梶原は、作業を再開する。
「いえ、高橋の弁明に付き合おうと思いまして」
その言葉を聞き、彼はぴたりと作業の手を止めた。
「あぁ、あのふざけた電話の?」
そう言いながら、くるりと体をこちらに向けた。すると、彼の目に、和馬の後ろにいる晴輝の姿が目に映った。
「いや、別にふざけていたわけではなく……」
和馬がそう言いかけると、梶原はそれをさえぎった。
「お前の後ろの子。高橋の妹さんか何かか?」
「え、いや。ですから、その人が高橋本人で……」
彼は立ち上がった。そして、和馬のほうへと歩み寄る。
「ふーん。お前も高橋のグルか。何でそんな嘘をつく?」
近寄りながら睨みつける梶原の迫力に押され、和馬は萎縮する。
「あ……の……。医師の診断書もありますし……」
梶原は、その顔を和馬の顔に近づけた。
「んなもん、パソコンを使えるお前ならいくらでも偽造できるんじゃねえの?」
「な、なんでそんなことをする必要があるんですか!? だいたい……」
和馬のその声を遮るようにして晴輝は言う。
「いや、もういいです。ありがとうございました、大谷さん。そしてすみません、こんなバカなことに付き合わせてしまって……」
「は!? いや、お前……」
和馬は、自分から弁明をしようとしない晴輝の様子に驚き、口をパクパクさせて言葉を絞りだそうとする。が、次の言葉が出る前に、彼が口を開いた。
「申し訳ありません、店長さん。『この作戦がダメだったら、二週間ほどお休みをもらえるよう、もう一度お願いしてほしい』と兄から言われてます」
ふうっと軽くため息をつきながら腕を組んだ梶原は、さきほどとは裏腹なやさしい口調で彼に問いかける。
「……本人はどうしたんですか? ホントは、本人が説明に来るのが筋だと思うんですけど」
「それはわかってます。ただ、兄はどうしても来られないので、身内の僕が説明に来ました。……確かに、最初は騙そうとしていたので、印象はよくないと思いますが」
梶原は、来客用のソファーに手のひらを向け、彼に着席を促した。
「どうしても、ですか。……なに? パクられた?」
それに従い腰を下ろしながら彼は言葉を紡いでいく。
「……いいえ、違います。が、プライバシーに関わることなので、あまり詳しくは言えません」
「……うーん、そうですか。何を聞いても答えてくれなさそうですね」
「はい。本当に申し訳ありません……。『このことを理由としてクビになるんだったら、仕方がない』ということも兄は言ってました」
梶原は、腕を組んだまま黙って思案を始めた。やがて、自席に向かい少し残っていたであろうコーヒーを飲み干した。
とん、と静かにカップを置くとその近傍にある新しい紙コップを二つ並べ、作り置きのコーヒーを三人分注いでいく。
その所作の間、晴樹にならって横に座っていた和馬は、彼に耳打ちをする。
「おい、いいのかよ、それで……」
「あんなに聞く耳を持ってくれなかったんだから、しゃあないだろ。それに、店長の言うとおりだ。あんなウソくさい診断書を見せたところで、何を信用してもらえるかって言うんだ」
晴輝は和馬のほうを向かず、うつむき加減で答えた。それに対してなにか答えようと和馬は思案しているところで、ゆっくりと梶原が近づき、紙コップを彼らの目の前に置き、話し始める。
「二週間、ですね?」
思いがけないその言葉に、晴輝は、はっと顔を上げた。
「え……? あ、はい」
「彼の勤務態度は悪いほうではなかったんでね。二週間くらいなら休暇は認めます」
「あ……、ありがとうございます!」
「ただし、本人が来ないで、さらに人を小馬鹿にするような嘘までついて、その嘘を本当であるかのように見せかける作戦を立てて、あまつさえ実行までしたので、有給休暇なんて認めません」
晴輝は、かくんとうなだれた。
「はい、そうですよね……」
月の半分の収入がなくなるので、生活費をどうしようかとうつむきながら考えていると、ふと声がかかった。
「ところで、君は」
彼が顔を上げると、梶原がこちらを向いていた。自身に指をさすと、彼はこくんと頷き、続ける。
「君は、飲食店での接客の経験はある?」
「あ、はい。一応、あります……」
晴輝は、数年ここで働いているので、一応どころではないのだが、口をついてそう答えてしまった。
「明後日から二週間って、何かバイトとか予定ある?」
「いいえ、特には、ない、です……」
答えながら、彼には嫌な予感がしていた。
「採用」
最悪の答えだった。
「……え?」
晴輝は、しらじらしく聞き返してみた。
「お兄さんが来られない間、代わりに入ってもらえる? 新規採用するほどウチも余裕ないんだよ。時間的にも、予算的にも。あ、もちろん働いた分の時給は出すよ。給与の振り込みはお兄さんの口座になるけどいいよね?」
「……は、い。わかりました……」
「じゃ、明後日の午後五時からお願いします。明後日はそこのアホも入ってるからいろいろ聞いておいてくださいね」
「そこのアホって俺のことスか?」
和馬がきょとんと自分自身を指すと、彼は微笑んで言う。
「うん」
「ヒデぇ……」
予想通りの答えではあったが、和馬はかくんとうなだれた。
ややあって店から出た二人は、繁華街の大通りを自宅へ向けて歩いている。
「あー! 最悪だー!」
晴輝は、天を仰ぎながら静かにそう叫んだ。
「俺がアホって言われたこと? いやー、友達思いだな」
和馬はとぼけたようにそう言い放つ。晴輝は彼をきっと睨みつけて小さく叫ぶ。
「ちげーよ! あいつらの前で二週間も猫かぶらないといけないのが最悪なんだよ!」
あいつら、というのは、彼らと気が合い、よく話をしている近しい年代のバイト仲間のことである。
「あー、そっちね。新人ですよって態度はツラそうだなー」
「おい、他人事みたいに言うんじゃねえよ」
「だって、他人事だもん」
和馬は、両の掌を天に向けて、首を振りながらそう言った。
「うわー、ムカつくぅ……。ていうかテメエ、弁明の足しにもなってなかったぞ」
「うるせえな。野獣があんな強情だとは思わなかったんだよ」
「こんなことになるんなら、妹なんて設定にしなきゃよかったよ……。野獣が妹さんとか言うから……」
そう言い合っているうちに、大通りから彼らの家がある住宅街への街路の交差点に差し掛かった。角には、コンビニがある。和馬はすっとその入口へと向かった。
「ま、というわけで。飲むべ」
「何がというわけで、だ。何一つ問題は解決してないんだぞ?」
必死な様子の晴輝を尻目に、彼は笑いながらコンビニへと入っていく。
「取り敢えずバイトの問題は解消じゃん」
「問題は膨らんだけどな」
「ま、それはそれ。今日はもう難しい問題は置いておこうぜ?」
そう言いながら、彼は買い物かごを手に取った。
「んー……。先延ばしもいかがなものとは思うけどな」
釈然としない晴輝であったが、確かに今日は考えることが多すぎた、と思い、彼に倣うことにした。
買い物を済ませた彼らは、晴樹の住むアパートへと向かう。
ややあってそこに到着した。外階段を上る途中、晴樹は鍵を探そうとポケットをまさぐるが、そこには何もないことに気づき、カバンの中から鍵を取り出す。
普段の習慣から数瞬遅れた形で開錠してドアを開けながら彼は言う。
「なんか、一日空けると久々な気がするな」
彼がそう言いながら靴を脱ぐ。
「あー、わかる気がするな」
晴樹に続く所作をしながら和馬もそう応答する。言い合いながら奥の部屋へと進み、たどり着いたそこの中央に位置するテーブルの上に、買い物袋をそのまま乗せる。
家飲み独特の、買い物袋からの仕分けを進めていき、晴樹は『後の物』を冷蔵庫にしまいに行く。
ややあって、テーブルを挟んで晴輝と和馬が相対して座り、各々テーブルの上に各一缶づつ残した缶ビールを手に取った。
二人は、ほぼ同時にプルタブを起こした。プシュッと、小気味のいい音が重なって聞こえた。
「じゃ、今日はいろいろとお疲れ様」
和馬がそう言い、晴輝のほうへとビール缶を近づけた。彼もそれにつられるように近づけ、こつん、と当てた。
「ん」
軽くそう答え、一口で4分の1ほどを喉に流し込んだ。
「っ、あー! やっぱビールはうめえな」
晴輝がそう言い終えたところで、彼と同じようなうなり声を上げた和馬が缶を置きながら言う。
「あぁ、そうだな。特に疲れたところで飲むと格別だ」
「不思議な飲み物だよな」
晴輝はそう答え、いかの燻製を口に放り込んだ。
二口目のビールを飲み込んだ和馬は、ふと思い出したかのように、晴輝のほうへと顔を向けた。
「なぁ、高橋。バイト先だけど明後日に自己紹介とかあるんだろ? きっと」
「あ? あぁ、たぶんな」
ふと問われた彼は、わりとどうでもよさそうにそう答えた。言われても気づかない彼に対して、和馬は持っていた疑問をぶつける。
「名前ってどうすんの?」
「いや、妹っていう設定なんだから普通に高橋だろ」
和馬は、かくんと力が抜けたように肩を下げた。
「あのな、だから名前だって。高橋なに子にすんのよ?」
「なに子ってお前……。つーか誰も聞かねえだろ?」
「いや、普通に聞かれるだろ。一応『お前のお兄さん』と区別するために呼び分けるのに必要な情報だし」
「あー……。確かにそうかもな……」
そう言い、晴輝は思案を始める。二人が考え始めた数十秒後、晴輝がおもむろに呟く。
「うーん……。ハルク?」
「はい?」
和馬はやや素っ頓狂な声を上げる。
「知らないの? プロレスラーのハルク・ホーガン」
「知ってるけどなんで?」
「はるき、の「き」をひとつ後ろにずらしてみた」
「お前バカじゃねえのか? そんなもん偽名だってすぐバレるし、ハルクは男だし……」
そう言いかけた和馬は、押し黙った。
「バカってなんだよ。冗談に決まってるだろ。誰もそんなネタみたいな名前になんてしたくねえよ」
晴輝のその言葉を無視するかのように沈黙を続けていた和馬は、やがてぼそっと呟く。
「……はるか」
「はぁ?」
その呟きの意図を理解しきれなかった晴輝は、呆けた声でそう返した。和馬は、はっとした様子で補足する。
「あ、いや。はるきの「き」をひとつ前にずらしたら、はるかになると思ってな」
「はるか、か……」
彼は、あごに手を置いてそう言った。
「ま、そんな安直な名前、すぐにバレるからやめといたほうがいいと思うけどな」
「うーん……」
「だいたい、『はるき』と『はるか』なんて紛らわしい名前を親が付けるか?」
「だなー……」
姿勢は一切崩さず、うなって思案を続ける彼に、和馬は問いかける。
「もしかして、はるかがお気に召して?」
晴樹はそう問われ、煮え切らない自身の態度に説明が付かないと諦め、観念したように呟く。
「……うん」
遠慮がちに、上目遣いで彼はそう答えた。和馬は、そのしぐさにドキッとした。そして、迷った挙句、口をあけた。
「……おまえ、かわいいな」
「っ!? はぁ!? 何言ってんの、お前キモいわ!」
恥ずかしそうな様子の晴輝、改め『はるか』にまくしたてられて、和馬は焦った。
「あ、いや、違う……。ていうか、違わないけど、えーと……」
そう言いながら、彼は床に放置されていた鏡を見つけて手に取る。
「そうだな。これを見ながら、上目遣いで『大好き♡』って言ってみ」
「…………」
はるかの卑下する視線が、和馬を突き刺した。
「いや。騙されたと思って……」
「そんなになのかよ」
そう言うと彼女は、和馬から鏡を奪うように手をとり、あちらを向いた。そして、数秒ののち、彼女は鏡を覗き込んだ。
「大好き♡」
そう言った後、彼女は震えだした。その背中を見ている和馬は、少し焦った。
「あ、おい……。大丈夫か?」
くるりとこちらを向いたはるかは、和馬に鏡を投げて返した。
「確かにかわいいな、この女」
「その女がお前なんだって」
はるかは、二本目のビールの空き缶を指で潰して、テーブルに置いた。
「昨日、マズい酒飲まされたからかなぁ。すげえ回るわ」
半分、ろれつの回っていない彼女に対し、四本目のビールのプルタブを起こしている和馬は、平気な顔をしていた。
「いや、俺は全然普通だけど」
彼がぐいっと酒をあおっている様子を見て、はるかは少し悔しそうな顔をした。
「お前、実は昨日あんまり飲んでなかったんじゃないのか?」
「バカ言うな。医者に血中アルコール濃度を測ってもらっただろうが」
彼女は、うーむ、とあごに手をやって唸った。
和馬はそれとは別の胸中で思案したのち、続ける。
「……どうでもいいけど、お前、って言うのやめねえ?」
はるかは、不思議そうな顔を彼に向けた。
「はぁ? なんでさ?」
「なんていうか、その顔での男言葉は慣れたけど、なんか『お前』呼ばわりされるのだけは慣れそうにないんだよ」
彼はこめかみを掻きながらそう言い、そっぽを向いた。
「そうなのか……。じゃあなんて呼べばいいのよ?」
「名字でいいんじゃね?」
その提案を受けたはるかは、うーんと唸って続ける。
「わかったよ、大谷」
そう呼ばれた彼であったが、違和感は拭えなかった。
「……いや、『さん』とか付けない? さっきみたいに」
そう言われたはるかは、言いづらそうに口ごもったのち、続けた。
「あー……。さっきも思ったけど、『大谷さん』だと賃貸借契約の貸主みたいに聞こえない?」
「……大家さんね。小学生の頃それでイジられたことあるわ」
和馬は、やれやれ、といった口調で、あしらうようにそう言った。
「俺は小学生と同じ思考レベルか」
「かもな」
「ためらいなく言うなや」
「悪りい、自分に正直になりすぎた」
何を言ってもひらりとかわされるこのやりとりに、はるかはガックリとうなだれた。
「その発言も正直過ぎるんだよ。つーか、呼び名かぁ……」
うなだれつつ、思考を巡らせた。やがて、和馬は対案はないと結論づけるように口を開いた。
「大谷さんでいいんじゃないか? 普通に」
はるかは、それに耳を貸さずに、しばらく考え込んでいたが、急にはっと顔を上げた。
「お兄ちゃん♡」
まるでアニメのヒロインかのような猫撫で声で、上目遣いで和馬の方へ向き、そう呼んでみた。
「は!? なんでだよ!?」
呼ばれた当の本人は、一瞬ドキッとして、慌てふためいた。
「カズ兄、大好き♡」
追い討ちをかけるかのように、台詞も回してみた。
「組み合わせるな!」
和馬は、頭頂部に溢れてきた冷や汗を蒸発させるかのように、髪の毛を掻きむしった。
「……やべえ、これ面白いわ」
対するはるかは、自身の発する声がまるでボイスチェンジャーを通しているかのような錯覚を感じ、新しいおもちゃを見つけた子供のように半笑いをしながらそう呟いた。
「面白かねえよ。こっちは恥ずかしいっての!」
和馬はそう抗議しつつ、改めて問う。
「ていうかなんで『大谷さん』じゃダメなんだよ?」
「あー……」
はるかは、少し考えてから整理して答える。
「いやさ、なんかよそよそしくねぇ?」
「だって、兄の友達だぞ? それくらいなんじゃないか?」
「設定上はな? けど実際違うじゃん」
和馬はビールをあおり、少し考えて答える。
「……あぁ、まぁ、確かに」
はるかも残っていたビールを飲み干し、コン、と空き缶をテーブルに置きながら思いついたように言う。
「じゃあさ、カズちゃんとかいいんじゃね?」
飲み干す所作を倣おうとしていた和馬は思わず吹き出しそうになった。
「はぁ!? 何でだよ!?」
「何となくさ。兄の友達とか名前で呼んだりしそうじゃん? どうする? カズ兄? カズちゃん?」
はるかにそう問われた和馬は数瞬考え、諦めたように答える。
「……カズちゃんの方がマシかも」
「そか。はいじゃあ決定ね、カズちゃん♡」
「なんか恥ずかしい選択を軽くさせられた気がする……」
和馬はゆっくりと空き缶をテーブルに置きながらうなだれた。
はるかは、日中に医師から受け取った幾枚かの書類にしげしげと目を通している。やがて、テーブルの上の缶を手に取って少し口をつけ、元の場所に戻しながら呟く。
「しっかし、よくわかんねー。こんなの何の意味があるんだよ」
言いながら、無造作に床に投げるように書類を置いた。和馬はそれを拾い上げ、ぱらぱらとめくった。
「あー。免責事項ね。要するに、完全に責任は負いたくないですよー、っていう意思の表れだと思うぞ」
「いや、それはわかってるのさ。ただあの医者、できる限りのことはするとか言っときながら、なんでこんなもん渡すのかねぇ、と思ってよ」
「できる限りのことは、だろ? ハイできませんでした、で済ます気なんじゃね?」
「うあー……。やっぱこれ受け取ったのは間違いか」
はるかは天を仰ぎ、封筒をテーブルの上に置いた。
「なんだこれ?」
和馬はそれを手に取り、口を広げて中を見て、仰天した。
「うぉっ!? 気前良すぎねえか?」
「だからさ。これで済まそうなんて思ってないよな? って確認はしたんだけど、やっぱ不安でさ……」
和馬は、腕を組んでうーん、と唸り、続けた。
「……精密検査はしたんだよな? なら、やる気だけはまぁあるんじゃねえか?」
「やる気だけじゃどうにもならないけどな……」
そう言って肩を落とすはるかを目の前に、彼はしばらく何も言えないでいた。だが、ややあって急にぱっと明るい声で言いだす。
「そうだな……。じゃあ明日、パーっと飲みに行くか!」
「ハァ? なんでそうなるんだよ?」
その様子にはるかは、こっちの気も知らないで、と言わんばかりに眉をひそめてそう疑問を呈した。
「お前が暗いからだ。飲みに行って一時的に嫌なことでも忘れようぜ」
「……オゴらせようって腹じゃないだろうな?」
彼女は、ひそめた眉はそのままに、目だけを細めて和馬を睨むようにそう言った。
「ちっ。バレたか」
「ふざけんな。だいたいよ、一週間程度困らないように、って渡されたカネだぞ? それを人にオゴれるかよ」
半ばあきれるかのように軽いため息をついたのち、ややふんぞり返って腕を組みながら彼女はそう言った。
「いや、一週間でそんなにだぞ。半分を他の用途に回しても余るくらいじゃねえの?」
「そうだけど……、ほら、アレだ」
言いかけたはるかは、自分の着ているダブついたTシャツが気になった。
「そう、服。バイト行くにしても、服を買いに行かないと」
「あぁ、そういえばそうだな。じゃあ明日、渋谷にでも行くか」
「だな。そしたら、そろそろ寝るか」
そう言い、はるかは残っているビールを飲み干した。とっくに飲み終えていた和馬は、部屋の端に置いてある予備の布団を引っ張りだし、既設の布団とテーブルを挟んで平行に並べた。
「じゃ、おやすみ」
「ああ」
はるかはリモコンで明りを消して、自分の布団に寝転んだ。
枕の位置を直したり、自分の居心地の良い態勢を探したりしているうちに、横から怪獣のようないびきが聞こえ始めた。
(のんきでいいよな、こいつは……)
心の中だけで苦笑しつつ、はるかはそう思った。
これから、どれくらいこの身体で生きていくんだろう。最低一週間とは言われたものの、それもよくわかっていないのであろうことは、医師たちの態度から重々汲み取れる。
(もしかしたら、一生このままなのかも?)
一生となると、付きまとう問題は多くなりすぎる。
戸籍、住民票、運転免許証、バイト先。少し考えただけでも、すぐにこれだけ出てくる。
これからの生活に計り知れないだけの苦悩が待ち受けているのだろう、とはるかは考えたが、その思いは胸の奥にしまっておくことにした。
いまはただ、問題の解決に向けて注力してくれているだろう医者たちに任せて、はるかは、休息をとることを最優先事項とした。
一日のうちにいろいろなことがあった彼女は、無意識に疲れ果てていたのか、特に労することもなく眠りに落ちていった。