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報酬の代償

渋谷センター街のオープンカフェに、一組の男女がテーブルを挟んで向かい合って座っていた。

その一方の女は、金切り声をさらに高くした声で話し続け、もう一方の男はそれをどうでもいいような表情で、スマホのトークルームをスクロールさせながら相槌を打っていた。

「店長さー、チョームカツクんだよねー」

女はそこで一度言葉を切り、アイスカフェラテの入っていたグラスに目を落とすと先ほど飲み干してしまったことに気づく。

気づいていながらもストローに口をつけ、ずずず、と音を立ててそれをすすり、「てへへ、もうなかった」と言わんばかりに上目遣いで男の様子を窺った。

視線を向けられた男はその様子を一瞥していたが、その所作を無視し、

「なにかあったの?」

そう気の抜けたように返事をしながらスマホの画面へと視線を戻した。

その返答に気持ちがこもっていないことに気づいておらず、彼の耳がこちらに傾いていると認識した彼女は、饒舌に早口、かつアクセントのない言葉を紡いでいく。

「ウチが事務所でタバコ吸ってるっていうのに、客が待ってるー、とか言ってレジ行けっていきなり怒鳴るんだよー」

「そうなんだ」

彼はもはや自動的とも言えるような感覚で、先ほどと同じタイミングと抑揚のない声でそう答え、画面に表示されたリストから「大谷(おおや) 和馬(かずま)」を見つけ出して押した。

「火ぃーつけたばかりだったのにさー。チョーヒドいと思わない!?」

「ふーん」

返答のオートメーション化が加速し、彼女の言葉にかぶせるように見当違いの言葉を漏らしながら、スマホに『明日、』と入力を始める。

「……ねぇ、聞いてるー?」

彼女もさすがに今の態度は看過できなかったらしく、疑問の声を投げかけた。

「へぇ」

それでも彼は自動的な返答を続けた。が、その半秒後に期待されている反応とは違うと気づき、たまたま耳に入った言葉の端々を繋いでいき、適切な言葉を構築する。

「……あぁ、聞いてる聞いてる。それってオマエが悪くね?」

そう言いながら、『ヒマなら飲まん?』と入力を続ける。

「だって、休憩中じゃーん。行く義理なんてないしー」

彼女は、言葉が伝わっていたことに安心したのか、用意していたであろう言い訳をぶつける。

「でも、客が来てちゃあ仕方がないんじゃないか?」

彼女との実のない会話を、うんざりと感じていた晴輝は、呆れることすらせずに、ほぼ棒読みでそう言った。

「なんでー? いいじゃーん。休憩時間中は何やってもいいって、法律で決められてるんだよー!」

肯定の言葉しか受け取りたくないであろう彼女は、言葉のアクセントの強い場所のキーを甲高く張り上げて必死に訴えかけようとするが、その内容に彼はとうとう呆れかえってしまった。

「何やってもはよくねーよ。一応は客商売なんだからさ、その辺の優先順位は考えろよ」

彼はそう諭すように言った。言った直後、しまった、と思った。

「だって、チョーひさびさの休憩時間だったんだよ!? それくらいいいじゃーん!」

半ば予測した返答であったが、彼女のその考えに対してため息を吐きたい衝動が起きた。しかし、それを抑えて彼は先ほどの『明日』を『今日』に変更した。

そんな晴輝の様子が気になりもしないのか、彼女は馬鹿にしたような口調で続ける。

「ていうかー、晴輝って男のくせにそういうトコ細かいよねー」

彼女のその言葉に、彼はぴくりと目じりを動かした。口調もさることながら、男のくせに、という言葉がなぜか彼の癪に障った。

「……ふぅ」

その思いから、衝動的に息が漏れる。

「その溜息やめてくれる? 超ムカつくんだけど」

「ふぅー……」

彼がわざとらしく二度目の溜息をつくと、彼女は目の端を吊り上げた。

「マジでムカつくー。超キライになりそうなんだけどー」

「あぁ、そうか。ちょうどよかった」

その反応を期待していたかのように、即座に彼はそう言い、トーク送信ボタンを押すと同時に立ち上がった。

「……は?」

きょとんとした顔に向かい、彼はわざとフルネームで彼女の名前を言う。

「なぁ、能田(のうた)りん」

「なに? 改まって」

彼は、あぁ、やっぱりね。と思った。

彼女をフルネームで呼ぶと違う意味になる。そのことに気づいているのかどうか、好奇心から確認したかったとずっと思っていたので、少し溜飲の下がった彼は、すっと立ち上がって言い放つ。

「俺もお前のこと超キライになったからさ。俺たち、別れねぇ?」

「……はぁ!? なんでいきなり……!」

戸惑い歪んだその表情を見て、今までの恋愛感情の熱が一気に冷め、零下へ突入する。

「お前と喋ってて楽しかったことなんて一回もなかったわ。っていうかむしろ、すげえ疲れてた」

今まで呆れかえることを我慢していた分を吐き出すぐらいの強い口調でそう言い、返事も聞かずに駅の方向へと歩き出した。

「ちょっと、なにそれー? え? 待ってよ、晴輝ー!」

りんは彼のあとを追い、こちらへ歩み寄ってくる。その足音を聞いた晴樹は、そちらに向きもしようともせず、言い放つ。

「あー、マジでウゼぇ。頼むからこっち来んな」

そう言いながら、しっしっと後ろ手に手の甲を振った。それきり、彼女からの言葉はなかった。

後ろを振り返りもしなかったので、晴輝には彼女がどんな顔をしていたかもわからないし、気になりもしなかった。

彼は、雑踏をかき分けつつ駅へと向かった。




彼はそこまで話し、ジョッキに少し残っていたビールを飲み干した。

対面している、話の中でのトークの相手は、ジョッキに口をつけたまま固まっている。

「……っていうことがあってさ、あいつと別れたんだわ」

晴輝は、これで話は終了、と言わんばかりに締めくくった。

あまりにも身勝手な話に和馬はしばらく固まっていたが、徐々に人間の動作速度を取り戻しつつ、ビールを一口ぶん残すように飲み、ジョッキを置くと同時に近くを通りかかった晴樹越しの店員に声をかけ、生ビール二つを注文した。そのオーダーで飲み放題がラストなことを了承したのち、ようやく彼は晴輝のほうへゆっくりと顔を向けた。

「……それ、ヒドくね?」

搾り出すかのように彼はそう言い、肘をテーブルに突いた。

「……あー、確かにそうかもな」

うーん、と、反省するかのように唸って晴輝は続ける。

「飲んでたアイスコーヒーのグラス、片付けないで置いてきちまったし」

和馬の肘がテーブルからがくんと外れた。

「そうじゃねえよ。……っていうか、わざと言ってないか?」

「バレた? でもまぁ、ウザかったのは本気だったし。だいたい合わねーよ、あんなの」

肩をすくめて首を横に振りながら晴輝は言った。

「……あんなの?」

「あんな実のない会話を延々と続けるとか拷問に近いわ。それが男女の付き合いというもの……っていう常識だったら、できれば避けて通りたいかな」

「それにしても、それなりの言い方とかあるだろ。お前の辞書には『思いやり』という言葉はないのか?」

晴輝は「ん~」と唸りながら、1~2秒間考えたフリをした。

「ないね。その単語が載ってるページは破って鼻かむのに使っちまった」

和馬は何も言わず、ため息とともにうなだれた。

会話が中断したところで、晴輝がジョッキに手を伸ばして空だということに気づき、手持ち無沙汰の手の変わりに口を動かす。

「てか、お前と酒飲んでるほうが2割くらいは有意義だと思うな」

有意義と言われた和馬は、若干の嬉しさ反面、中途半端な数字であることに苦笑した。

「……2倍とかじゃないのかよ」

そう言われた晴輝は中途半端な数字の根拠を探すように財布を取り出しつつ言う。

「んー……。いや、家で飲むんだったらまだしも、毎回飲み屋に来てるからその分を差し引いてな」

「財政が厳しいのか?」

「ああ……。そこそこに底が見えてる感じで…………っ!」

彼は財布の中を見て驚愕し、おそるおそる、後ろの壁にかけてある伝票の最下部付近を見てみる。

「……はぁ!?」

不意な大音声に和馬は驚き、額に皺を寄せた。

「うぉっ!? そんなデカい声出すなよ……。どうした?」

「……わり、財布に金ねえわ。取り敢えずここの飲み代払っといてくれね?」

いつにもない低姿勢で頼み込む彼に、あっさりと、はいそうですか、と言うにはもったいないと思った和馬は意地悪そうに笑った。

「ん~? どうしようかなぁ~?」

「くっ……。あとでコーヒー奢ってやるから」

「うーん、そうだな……。俺が今回払う金額の4分の3を返してくれれば、それでいいよ」

伝票も見ず、したり顔で和馬はそう言い放った。

「4分の3……? っておい、オメーが半額かよ。いいとこ千円オゴりとかでよくないか?」

「いいや、譲れないね。汗水垂らして働いたカネを貸すんだ。それくらいは言わせてもらうぞ」

「うるせえ。てめえの汗水など下水ほどの価値もないわ」

和馬は笑顔を引きつらせた。

「そうか、そうか。だったらお前は食い逃げの犯人になってこの店には二度と足を踏み入れることはできなくなるな」

「ちょっと待て、なんでそうなるんだよ。だいたい、出てすぐのコンビニで下ろして返すっつーのに。ていうかお前も逃げるってことかよ」

和馬は斜め上に目線をずらし、腰を少し上げながら言う。

「あ、ちょっとトイレ行ってくる。貴重品が入ってるからかばんも持っていくぞ」

「…………わーったよ。しゃあねーなぁ……」

上げかけた腰をすとんと下ろし、和馬は口角を上げた。

「それでこそ、俺の親友」

晴輝は眉をひそめながら苦笑し、短いため息とも、失笑ともとれるような息を漏らした。

「はっ! 現金な奴だな」

「文字通りな。今月苦しいんだよ」

それを聞き、アルバイト先の同僚である和馬の、先月のシフト表を思い出して彼は言う。

「深夜あまり入ってなかったしな。なにしてたの?」

和馬はこめかみを掻き始め、そっぽを向いた。

「あー、いや。まぁ、な?」

「な? って言われても……」

「オトナにはいろいろとあるんだよ」

「ふたつしか違わないのに、そんな偉ぶった言い方すんな」

言い終えた半秒強後、後方から声がかかり、ジョッキが二つ差し出された。

彼はそれを受け取り、片方を和馬の前に置いた。

「ん。苦しゅうない」

ジョッキに残った一口を飲み干してそう言った和馬は、空いたそれを差し出した。

「2年っていうのは大きいぞ? お前がまだ大学4年生のころは、俺はもう社会人2年生だったんだ」

受け取りながら彼は、ふーん、という顔を作る。

「フリーターのくせに社会人、ねぇ?」

そう言って、ジョッキを店員に手渡す。

「……ぜんぶオゴらせても、俺はいいんだよ?」

和馬は片方の唇をひくひく言わせながら、言葉を紡いだ。

「ごめん、ごめん。軽いジョークだって」

「俺にとってはブラックホールより深く感じたけどな」

ふてくされたようにそう言い、和馬はビールをあおった。




――翌朝――

朝の日差しが晴輝の網膜を刺激する。

起きるべき時刻であることは認識できているが、眠いものは眠いので、惰眠をむさぼろうとする。

(あと、五分……)

そう思い、寝なおそうとした瞬間、重低音が響いた。

『ゴゴゴゴゴ……』

地震のようだ。

その音は、三秒ほど経っても止む気配はなかった。それどころか、その激しさは増す一方だった。

(ヤバい。起きて逃げなきゃ……。そういえば、今日は大谷が泊まってたんだっけ)

そう思い、彼は腰に力を入れ、起き上がろうとする。

「おい、大谷! 地し……んっ!?」

『ゴンッ!』

額に鈍い衝撃を感じた。その反動で起こしかけていた身が沈む。

『ガコン! ガシャン!』

目の前が一瞬明るくなったような感じがして、何かが倒れる音が聞こえてくる。どのような状況に陥ったのだろうかわからぬまま苦悶する。

「っ! ……痛ってー……」

思わず裏声になりながらそう呟き、じわっと痛む額を気にしつつ、片目を開ける。

目の前の重量物は、倒れてきた棚なのか、あるいは落ちてきた天井であろうと思った。が、目に入ったのは白生地のシールであった。

「ご使用上の注意」

こんなもの、何に貼ってあったっけか? と思いつつ、視線を左にやると、金属の脚が見えた。

「……テーブルの下か」

寝相の悪い自身に呆れかえるとともに、何かが落下してきているわけではなさそうなことに少し安堵しながら、腕と足の動きでそこから這い出し、身を起こした。テーブルの上に置いてあったグラスや空き缶などは軒並み倒れていた。

「ゴゴゴゴゴ……」

先ほど地震の音だと思ったそれが、彼の真横から聞こえてきた。

「ゴゴゴゴゴ……」

「お前のいびきかよっ!」

先ほど強打した額の痛みと、和馬のいびきによって二度寝はできそうにないだろうと思い、晴輝は仕方なく起きることにした。

重たい体を持ち上げて立ち上がり、両の足で体重を支えると、軽い目眩を覚えた。

(二日酔ってるな……)

おぼつかない足取りで台所へとたどり着いた彼は、冷蔵庫の中からペットボトルの緑茶を取り出し、少し残っていたそれをラッパ飲みですべて喉に流し込んだ。

ふぅ、と息をひとつ吐き、空のボトルを投げ捨てるように床に置き、頭を掻きながら玄関に向かった。

玄関ドアのポストに刺さっている新聞を引き抜き、台所の端に置いてある歯ブラシを手に取る。

それに歯磨き粉をつけて咥えると、重低音が響く部屋に舞い戻る。

和馬の腹部に蹴りを入れたい衝動を抑え、テーブルの前にあぐらをかいて座った。

彼が頭をぶつけたテーブルの上に新聞を広げ、歯を磨く。

気になる見出しがあればその記事に目を通していく。

これが、彼の毎日の日課だ。

彼の父親がそうしていた所為なのか、それが彼にも遺伝してしまっているようだ。

(オヤジ臭さばりばりだな、これ……)

彼は自嘲気味に心の中でそう呟くと、「人生相談」のコラムが目に入った。

それは彼にとってはまったく関係のない内容であることが多いが、何故だか毎日の楽しみになっている。

今回の相談内容は、寝起きに関する内容だった。

それについて、やはり彼のケースとは少し違っているので、流し読み程度で済ます。

新聞を一通り読み終わったころ、おもむろに彼は立ち上がって台所に向かう。口の中にたまった歯磨き粉の泡を吐きだしつつ、蛇口をひねる。

出てきた水で歯ブラシを洗って、それの居場所に戻す。そして、流水を手ですくって数回口をゆすいだ。

口を拭きながら居室に戻ると、物音で目が覚めたのであろう和馬は、ちょうど気怠そうに身を起こしているところだった。

「お目覚めですか。さぞかしよくお休みになれたことでしょうねぇ」

晴輝は嫌味をふんだんに散りばめた口調でそう言いながら床に胡座をかいて座った。

「なんだ……? お前寝れなかったの?」

その意図を察することができなかったのか、和馬は新聞の折り込み広告をたぐり寄せながらそう聞いた。

「寝れなかったねえ。誰かさんの所為でさ」

言いながら、和馬を睨みつける。が、彼はこちらを見ようともせずにあくびをする。

「ふぁ~……。お隣さんか誰かがうるさくしてたのか?」

晴輝は手許にあった枕を投擲した。それは鋭い軌跡を描いて和馬の顔面に直撃した。

彼は一瞬、何が起こったのかと慌てふたむいたが、胡坐をかいた両の太腿の間に落下した枕を見て状況を把握した。

「っ痛てえな! 何するんだよ!」

「てめえの所為だよ、アホ! いびきがでかすぎるんだよ、怪獣かお前は!?」

晴輝がそうまくし立てると、彼は枕を軽い下投げでこちらに返しながら言う。

「しかたねえだろ、いびきなんだから。解消法があるならむしろ教えてもらいたいくらいだ」

晴輝は、少し思考を巡らせた。

「次来るまでにガムテープを用意しとくわ」

「はぁ? なんでだよ?」

「口をふさぐために。ついでに鼻もふさいでやろうか?」

「死ぬだろ、そんなことしたら……」

和馬は、呆れ気味に苦笑し、チラシに目線を戻した。

「お前なら大丈夫だよ。たぶん」

「…………」

彼からの反応が途切れた。普段なら苦言を投げ返してくるはずなのに、と、晴輝は少し焦ったが、それを顔には出さなかった。

「あれ、怒った? わり、わり、冗談……」

「なあ」

彼の発した声は、怒っているにしては柔らかいものだった。むしろ、呆けた末に漏れ出た声、と表現すべきだった。晴輝はその様子に安堵した。

「あん?」

「お前、昨日金がないとか言ってたよな」

「言ったけど、それが何さ?」

和馬は、一枚の求人広告をこちらに向け、ひとつの欄に指を差した。

「これ、行ってみねえか?」

「……治験?」




――二週間後――

晴輝と和馬は電車に揺られている。夜の通勤ラッシュ時からは少し外れているものの、座席は埋まっており、二人は吊革に掴まって立っていた。

晴輝は、和馬の手を見て口を開いた。

「吊革に掴まらないで立っているとカロリーが消費されるらしいぞ?」

少し間を置いて、彼はこちらを向いた。

「……なんでそれを俺に言うの?」

晴輝は目線を少し落として呟く。

「ビール腹。出てきてないの?」

「出てきてないねぇ。つーか、消費ったって少しだろうし、その効果も眉唾ものだろ?」

「うん、ごめん。言ってみただけ」

『次は、新宿、新宿。お出口は、右側です』

電車の自動音声はそう告げた。

「お、着いたな」

和馬はそう言い、ドアの方に歩み寄ると、そこには軽い人だかりができていた。

「迷子になるんじゃありませんよ」

その様子を見て彼はそう言った。

「んだよ、黙れ。つーかあん時はしょうがねえじゃねえか」

晴輝は以前、別の駅ではあるが、ターミナル駅でラッシュの人混みに流されて、和馬と反対側の改札に出てしまったことがある。

「だから電車は嫌だって言ったのに」

その事件は自分でも間抜けなことだと感じており、それ以来電車での移動を避けてきた。

「仕方がないだろ。なんか泊まりみたいだし、バイク置く場所もなさそうだし」

さらに、治験に申し込んだ後に送られてきた書類にはこう書かれていた。

『駐車場はありません。また、今回の治験の性質上、治験を受ける方ご本人が運転してお帰りになられますと大変危険です。その点を含めまして、公共交通機関をご利用いただきたく強くお願いいたします』

大変危険、のくだりに二人は躊躇したが、報酬と天秤にかけた結果、今ここにいる。

「まあな。てか、改札逆方向事件のことはもう忘れてくれよ。せめてネタにすんな」

ドアが開いて、人だかりが解消してゆく。

「へいへい。覚えてたら忘れるわ」

「……日本語か? それ」

問答をしながら、彼らは人だかりに続いた。

「まあ、いいわ。東口だっけ?」

「ああ、そうだよ」

和馬はそう言い、上を見上げる。晴輝がそれに倣い目線を移すと、天井からぶら下がっている看板の大きな左矢印の隣に「東口」と書いてあるのが見えた。

「あっちみたいだな」

指をさし、そちらのほうに足を向ける。人の流れの約半分がそちらに向いているようで、彼らもそれに従い、流されてゆく。

するとほどなくして、改札機がいくつも並ぶ場所にたどり着いた。そこから駅の外へ出て、繁華街とは逆の方面へと歩く。

二人は、他愛のない話をはずませ、気付いたころには指定された総合病院の目の前に到着していた。

晴輝は、手にしていた書類を見ながら言う。

「地図で見ると遠そうだったけど、あっという間だったな」

「そうだな。仕事のときもこんなに早く時間が過ぎればいいのにな」

「ははっ、言えてるわ」

二人はそう言いあいながら、病院の入口の自動ドアをくぐった。




受付を済ませ、二人が問診票を提出すると、腕輪状の名札をそれぞれの手首に巻かれた。

「手錠みたいだな」

晴輝がそう言うと、和馬はそれを眺めながら答える。

「逃げないように、ってか? 確かにな」

受付の女性は、二人の問答に苦笑しながら歩きだし、付いて来るよう促した。ややしばらく病院内を歩くと、会議室、という看板が掲げられた部屋があった。その目の前で彼女は立ち止った。

「こちらでお待ちください」

そこは、机と椅子が横一列に並んでいて椅子の向く方向にホワイトボードのある、ごく普通の会議室だった。数人の人間が既に待機しているその部屋に二人は入っていき、空いている席に並んで座った。

「どんな内容なんだろうな?」

晴輝は、不安と期待を半分ずつ混ぜたような口調で、和馬に話しかけた。

「さぁ……。送られてきた書類にも何も書いてなかったしなぁ。ま、治験だし、なんかの薬でも飲まされるんだろ」

「何の薬だろう? まさか子供になったりなんてしないよな?」

和馬は、不意に言われたその言葉に、思わず噴き出した。

「出来損ないの名探偵、か?」

「いや、そこまで詳しくは知らねえけど」

無駄な知識をさらけ出してしまった和馬は少し恥ずかしくなり、小さく咳ばらいをした。

「そうか。最近読んだんだよ、あの漫画。まぁ、風邪薬かなんかだろ」

「ま、そんなところだろうな」

会話が途切れたところでちょうど、スーツを身につけている、関係者の男女が数人が入室してきた。

リーダー格と思われる男がホワイトボード前の机で資料を広げる中、その他の男女が資料を配って回る。

資料が行き届いたタイミングを見計らったように、前方からやや張り上げた声が聞こえた。

「えー。この度は、当社の治験にご協力をいただき、誠にありがとうございます」

社交辞令的な挨拶など、晴輝たちの興味をそそられるほどでもない話が進んでゆく。彼はあくびをしそうになるが、さすがに失礼だと思いそれを噛み殺す。前口上のオチがついたと思われるところで、一瞬の静寂があった。

「……さて。皆様には、血中アルコール濃度が規定値以上になるようにお酒を飲んでいただきます」

彼はそう語りだした。とたん、晴輝と和馬は、顔を見合わせた。

「そして、この薬を飲んで就寝していただき、翌朝、血中アセトアルデヒド濃度を測らせていただきます」

男は、カプセル状の薬が入った入れ物を掲げ、そう続けた。

「……楽勝じゃねーか」

和馬がそう小声で言うと、晴輝が苦笑して返す。

「ああ。要は二日酔い防止の薬だろ?」

そう言い、正面を向いて彼の話の続きを聞いた。




――その夜――

「規定の濃度って、どんだけキツいのよ……?」

ビール四杯、焼酎の水割り二杯、日本酒三合、ウイスキーのダブルをロックで二杯、締めにスクリュードライバーとモスコミュールを各一杯ずつ飲まされ、ろれつの回っていない晴輝は、ベッドに倒れこんだ。

「しかもチャンポンとか……。医療関係者のやることじゃねえな……」

同じものを同じ量だけ飲まされた和馬はすでに倒れこんでいて、腕で顔を隠しながらそう言った。

「明日も早いらしいし、もう寝るか……」

晴輝がそう言い終わる前に、和馬の地震のようないびきが聞こえ始めていた。




――翌朝――

ふと目が覚めた晴輝は身を起こし、あたりを眺めた。

「……そっか。病院か」

見慣れない景色に違和感を覚えたが、即座に現在の状況を認識した。

思考は、はっきりとしている。

スマホを見ると、時刻は朝の五時半を回ったところを指していた。

二十四時間計なので、夕方の五時ではないことは明らかであったが、前日の酒酔い状態がまるっきりなくなっていることに驚愕する。

念のため、日付を確認すると、一日経っているわけでもなかった。

「すげぇわ、あの薬……。売ってたら買うだろうな」

感心しつつ、歯を磨くために立ち上がろうとした。

すると、和馬がのそっと起き上った。

「おぅ、高橋。もう起きて……あぇ!?」

こちらを見たと思うと、彼はそう声を上げた。

「……なんだ? 俺の顔になにか付いているのか? それとも寝癖がひどいのか?」

晴輝がそう返しても、彼は何も言わない。

「は……? なにさ……?」

怪訝に思いそう呟き、しばらく様子を窺っていると、ようやくといったように彼はゆっくりと口を開いた。

「……あの。あなた、誰ですか?」

「……はぁ?」

晴輝は素っ頓狂な声を上げ、続ける。

「高橋ですよ。高橋 晴輝。あなたの友人ですよ。薬の影響で記憶喪失にでもなったんですか?」

「いや、そうでなく……」

煮え切らない彼の態度に、晴輝は苛立ちを感じた。

「それとも何だ? 昨日言ってたなんとかって漫画にこういう展開でもあるのか?」

捲し立てても、何を言うでもなく、ひたすら呆気に取られている和馬の様子に不信感を覚える。

「一体なんなんだよ。ふざけてるんなら大概にしろよな」

そう言うも、いまいちピンとこない様子の和馬に彼は呆れかえった。

「ちっ! ひとりでやってろ、アホ」

晴輝は憮然とした態度で、スリッパを履きながら立ち上がり、洗面台へと向かう。

そこに置いてあった使い捨ての歯ブラシの封を破り、中身を取り出した。さきほどの問答で少し苛立っている晴輝は、外袋を投げるように足元のゴミ箱に捨てた。

大きなあくびをしながら、チープな歯磨き粉を歯ブラシにつけ、それを口に咥えた。

歯ブラシを動かしながら、寝癖を直すように手櫛で髪の毛をいじりながら、鏡を見た。

その中には、彼と同じ年格好の女の子が立っていた。

挿絵(By みてみん)

「うぉ、とと……」

数十センチの距離で相対した他人をよけるため、彼は斜め後ろに一歩後退した。

鏡の中の女の子も、同様に斜め後ろに一歩後退した。

晴輝は、固まった。鏡の中の女の子も、同じように固まっている。

しばらくして、和馬の方へと向いて鏡を指差した。怒りをぶつけてしまった手前、少しの恥ずかしさを隠しながら、

ほぇー(えー)、っ()……」

歯ブラシを咥えたままなので間抜けな声で前置きをし、

ほのほ(この子)だえ()?」

そう問うた。

和馬は深いため息をつき、さらに一呼吸置いて返す。

「……俺が知りたいですよ」


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