夜の繁華街、高校生とチャイナ娘と…
「クラゲが世界を飛んでいる…」
「ああ?」
「こいつ俺らにビビりすぎて頭おかしくなったんじゃねぇの?」
繁華街の片隅で、細身の男子高校生が2人組に絡まれていた。人通りはまずまずなのだが、面倒事に巻き込まれたくない通行人たちは見て見ぬふりをして通りすぎていく。
「おいおい。ぶつかってきといて? ごめんの一言もなしにクラゲがなんだって? なんだてめぇ」
2人組のうちの1人が高校生の胸ぐらを掴んだ。ただ通りすぎるだけだった通行人たちも、今では野次馬へとジョブチェンジしている。
「クラゲには骨がない…」
そうつぶやく高校生。聞き返そうとする男より先に、その高校生は胸ぐらの手を優しく両手で包み込んだ。
「はぁ? どういうつもり…」
次の瞬間、騒がしい繁華街をも凌駕するほどの痛々しい音が鳴り響いた。
その音は、近くにいた仲間はもとより、周りの野次馬の耳にも届いたようだ。
「うぐっ…」
人間、本当に激しい痛みを感じたときには声が出ないものらしい。両手の中で歪になった左手を片手でさすりながら、男は地面に崩れ落ちた。
「大丈夫か!? おいてめぇ…慰謝料よこせよ!?」
「少しぶつかっただけじゃないか」
「肩の話なんかしてねぇだろうがよ! お前がボキボキに折った左手のことだよ!」
仲間は折られた男の背中をさすりながら高校生を睨んだ。慰謝料を請求するテンプレートの言いがかりが、現実のものとなってしまったようだ。
「はぁ…これで足りるだろう?」
高校生はポケットから黒い長財布を取り出すと、紙幣を5枚ほど抜き取って無傷の男に手渡した。
「では、僕は用事があるのでこれで…」
「ちょっと待てや! さっきからその態度はなんだよ? ガキがいっちょ前に金だけ出して、謝罪の一言も…」
無傷の男は高校生の右肩を強引に掴んだ。そして高校生は男の手を掴むと、そのまま小指をのけぞらせた。
「ぐあああ!!」
男の叫び声を聞いてざわめく人、ありえない方向に曲がる小指を見て顔をしかめる人、お互いに顔を見合わせる人々…野次馬の反応は様々だった。
「はい、2枚分」
高校生は溜め息をつき、仕方ないなとばかりに紙幣を2枚抜き取ると、涙目で小指を見つめる男の足元にヒラヒラと投げやった。
「あなた方が骨折したせいで、財布にはカードしかなくなった」
長財布を指で広げて披露する高校生に、2人の男は「てめぇ!」と叫んだ。
2人は近くにあったビニール傘と鉄パイプをそれぞれ手に取り、高校生めがけて勢いよく振り下ろした。2人のそれはほぼ同時に振り下ろされ、両手でたやすく受け止められたのもほぼ同時だった。
「これからできるケガの治療費、支払いはカードで構わないか?」
傘とパイプを持ったままにじり寄る高校生を見て、2人はゆっくりと武器を手放した。それを見た高校生もまた、2本の武器を手放し地面に落とした。
「それではお大事に」
並んだ2人の肩を持ち、無理やり押しのけ間を通る。遠のいていく高校生を、2人はもちろん、周りの人々もかすんだ瞳で見届ける。路地を突き進む高校生は、やがて対向車のヘッドライトで身をくらませた。そうかと思いきや、左折した車に隠れたのを最後に、完全にその姿を消した。
◆ ◆ ◆
「ちょっとそこのアンタぁ、アタシちゃんと見てたヨ」
2人分の手を駄目にした例の現場から数百メートル。甲高い声で片言の日本語を話す少女が、彼の背後にいた。
「誰だあなたは」
「アタシはリー・アイリー。イーアルヨガ教室のセンセのムスメなのヨ」
リー・アイリーと名乗る少女は、いかにもな服装とポージングで威嚇し始めた。
「それはヨガじゃなくて少林寺拳法じゃないか?」
「そんなコトこの際どうでもヨロシ! アタシ言いたいだよ、アンタの悪いコト! アンタ2人の男のユビ折っタ! ズワイガニみたいにバキバキと!」
そのチャイナ娘はカニを食べるジェスチャーをしたかと思えば、ふと高校生を睨みつけた。
「確かに折った。けど治療費は出した」
「ア? アンタ治療費ダシタ?」
「もちろん。ケガをさせたからね」
高校生が淡々とそう答えると、リー・アイリーはすっと振り返った。後ろ姿を見せたまま何も言わない彼女を、高校生は怪訝に思った。
「それならモーマンタイ! この世のすべてはカネ次第! ここらでサヨナラしちゃいタイ! グッバイ!」
明るい声でラップのように喋るリー・アイリーは、大股でズカズカと去っていった。
「はぁ…変な人だな」
高校生は再び目的地へと歩き始めた。
◆ ◆ ◆
「こんばんは」
高校生が向かった先は交番だった。
「ん? …おー、兵頭くんじゃないの」
窓口に座る中年の警官がにこやかに答えると、奥から顔を出した若い警官が軽く頭を下げた。
「駅前で、この財布を…」
高校生がポケットから取り出したのは、先ほど2人分の治療費を抜いた長財布だった。
「拾ってくれたんだね。ありがとう」
兵頭と呼ばれた高校生が書面にサインをしているさなか、若い警官は中年の警官に耳打ちした。
「…なんでこの人のこと知ってるんすか?」
「前も財布を届けに来てくれたことがあったんだよ。ただ…」
中年は受け取った長財布の中身をこっそりと確認し、やっぱりとつぶやいた。
「ねぇ兵頭くん、この財布…拾ったときからこんな感じだったの?」
中年の警官が財布の中身を高校生に見せた。高校生はうつむき、やがて口を開いた。
「お金はチンピラに使われたらしい」
時刻は21時を回ろうとしていた。