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#1


   クリスマス・メモリーズ


   12月24日

 

   ☆1☆


 本来、受験生がクリスマスだからといって、気を弛めるべきではない。

 と、俺は思うのだが、母の強い勧め(半強制的)により、仕方なくクリスマス・イベントを手伝うハメになった。

 毎年、近所の幼稚園で開かれるイベントで、卒園から8年経って、再びその門をくぐるとは思わなかった。

 JR赤羽駅から歩いて5分ほどでイベント会場のホーリーネウス幼稚園に着く。

 教会系の古い建物だ。

 立派な聖堂を備えている。

 イベント前半、日中はフリーマーケットが開催される。

 その収益金は慈善団体に寄付する。

 午後3時からイベント後半、始めは神父の講話で、次に園児のクリスマス劇。

 その後、オルガン伴奏による参加者全員の合唱。

 最後にプレゼント交換、という流れだ。

 久し振りに園内を見渡す。

 昔は大きく見えた門や広場、中庭の遊具などが今は小さく見える。

 年を取ったものだ。

 中庭にテントと雑多な商品が積んである。

 手製の品や愛用の一品、種々様々だ。

 屋台めいた店もあり、お祭りみたいだ。

 昨夜から降り続いた雪は朝にはやんで客足も順調。

 ただし、足下の積雪は30センチを軽く超え、除雪されていない箇所は一面、白一色に染まり…。

 ズベシャッ! 

 ベチャッ! 

 ベチッ!

 俺の顔面、胸、足下へかけて雪玉が投げ付けられる。

 顔面の雪をぬぐい、玉の飛んできた方向を見る。

 園児らしき子供が大量の雪玉を抱え、さらに雪玉を投げようとする。

「駄目だよマオ君! 知らないお兄ちゃんに玉を投げちゃ! お兄ちゃんにメンチャイしようね!」

 メンチャイ? 

 ゴメンナサイ? のことか? 

「ゴメチャ…」

 子供が謝った…のか? 

 子供を注意した少女も一緒に謝る。

「ずびば…ブエックショオォイッ!」

 少女のクシャミが炸裂。

 俺は飛沫まみれになる。

 少女がハンカチで鼻を拭い、赤い鼻と涙目で再び謝る。

「ず…ずびばぜん。子供と遊んでいたら、体が冷えでじばって…は…は…」

 再びクシャミ炸裂。

 二度目は避けた。

「大丈夫です。子供の投げた雪玉ぐらい、大した事はありません。でも、遊ぶなら、もっと端のほうで遊んでください」

 本当は凄いビックリした! 

 あんたのクシャミに!

「はい。わかりました。ハシッコで遊ばせます」

 素直に頷き、子供と一緒に遊具の並ぶ広場に向かう少女。

 俺は気を取り直し、知り合いの叔父さんの店に向かう。

 店の前で仕事を簡単に教わり、店番を交代する。

 食事や休憩の交代要員として俺は来たのだ。

 例の少女も、たまに店番をしていた。

 メインは子守りのようだが。

 ところで、彼女が店番をしているタコ焼き屋の商品を、俺は絶対買わないと心に決めた。

 積み上げられたタコ焼きの中に、高確率で彼女の飛沫が封入されているのは間違いないからだ。


   ☆☆☆


 客足が途絶え、手が空いたところで、俺は商品の並んだテーブルから少し身を引き、ちょっとした空間を作る。

 次にピアノをイメージする。

 想像の鍵盤に指を添え、滑らかに指先を走らせる。

 俺にだけ聴こえる音無きメロディー。

 低音、高音、白鍵、黒鍵、タッチの感覚まで正確に再現する。

 言い忘れたが、俺は来年〈聖常音楽学院・高等部ピアノ科〉を受験する。

 その高校は、音楽業界の様々なジャンルに毎年多くの卒業生を送り込む有名な学校だ。

 当然、実技試験もある。

 なので、俺はフリマの仕事の合間を縫って、短い時間にエア・ギターならぬ、エア・ピアノを弾き、課題曲、デュッコ・シュレーカー作、即興幻想曲〈黒い月〉の練習をしていた。

 天才は…99%の努力と…1%の才能なのだ。

 日頃の努力は欠かせない。

 俺は軽快にエア・ピアノを弾き続ける。

「あなたもピアノを弾くんですか」

「ぇうっ!?」

 エア・ピアノに集中していた俺は、思わず変な声を出す。

 指先が変な風に空気を掻く。

 話し掛けてきた相手は俺の様子など微塵も気にせず、

「あたしもピアノを弾くんですよ。今日はオルガンですけど」

 と言い、エプロンのポケットからクリスマス・イベントの案内チラシを取り出す。

 チラシの一番下に書かれている〈聖歌合唱〉の横に〈オルガン伴奏者〉の項目があり、記載された名前を指差す。

はるかれい…さん?」

れいと書いて、うららと読みます。春麗はるうらら、の、うららです」

「はあ、そうですか…」

 苗字も名前も、名前にしか聞こえない変な名前だ。

 うららが、

「今、弾いていた曲は、あたしが受験しようと思っていた〈聖常音楽学院〉の課題曲なんです。なので、あなたの…ええと…」「天野あまのです。天野 ひびき

「読み方変えると〈てんのひびき〉ですね。いい名前だなあ。〈うらら〉って、変な名前ですよね」

「いや、別に…変わった名前って、よくあるから。でも、よく曲名が分かりましたね」

「天野君の指使いを見ててピーンときました」

 とりあえず、エア・ピアノを弾く変な人…と思われなかったようだ。

 普通の人なら病気か? 

 と疑うところだ。

 しかし、指使いだけで曲名を当てるとは…この女、天才か?

「あ、これ、あたしが手伝っていたお店のタコ焼きです。よかったらどうぞ、食べてください?」

 明らかに普通のタコ焼きよりフヤけていた!

「結構です」

 即答した。

「美味しいのになあ、モグ…モグ…ちょっと…ショッパイかも…」

 ただの天然だった!


   ☆☆☆


 フリマを終えた人々が次のイベント会場となる聖堂へ向かう。

 広い聖堂が人で埋まり、ざわつく空気の中、神父が壇上にあがると、子供を除く出席者の多くがシーンとなる。

 俺も少し息を飲む。

 なぜなら、その神父の横顔には、左頬から左耳にかけて、かなり目立つ傷痕があるからだ。

 チラシに書かれていた神父の講話のタイトルを改めて見直す…〈仁義なき鉄砲玉!《たま》を取らずに《聖書》取る!〉…って、何じゃこりゃ!? 俺の驚愕をよそに、神父の講話が始まる。


   ☆☆☆


〈仁義なき鉄砲玉!《たま》を取らずに《聖書》取る!〉

「え~、皆さんの中には驚かれる方も多いと思いますが。何の事かというと、勿論、この頬の傷跡の事です。私も若い頃は色々とありまして、昔はいわゆる〈不良〉という奴でした…いや、むしろ、あてもなく街をさ迷う〈チンピラ〉…といった方でしょうか。そんなチンピラがなぜ、神父になったのか? 今日はそれを話そうと思います。まともに話すと長いので、ざっと、二千文字で語ろうかと思います」

 二千文字小説!?


   ☆☆☆


 母は私を産んですぐに亡くなり、父は酒浸りな毎日を送って、同じく早く亡くなりました。

 私は叔父に引き取られ、厳しく育てられました。

 厳しいのは実の子ではないからだ。

 と私は思い、悪い仲間と付き合い、最後は叔父と喧嘩して家を飛び出したのです。

 組の人間が私を拾い、チンケな仕事を回されては日銭を稼いでいました。

 ある日、私は組から銃を渡されました。

 上手くいったら杯を交わす。

 だから、対立する組の組長を撃て。

 彼らは曖昧にそう言いました。

 組員になれる。

 私はそう思い込み引き受けました。

 甘過ぎました。

 彼らにとって、私は捨駒の一つに過ぎません。

 詳細を話さないのが、その証拠です。

 対立する組や警察に万が一にも私が捕まった際、私との関係がバレて争いに発展するのを恐れたのです。

 共謀罪で捕まる危険もあります。

 そうとも知らず、私は意気揚々と出掛けました。

 対立する組長は関西から車で帰る途中、必ずインターチェンジ近くのレストランで休憩を取ります。

 護衛の若者が組長を囲むなか、通りからフラリと現れた私は、コートのポケットから銃を取り出し、組長の額に狙いを付けます。

 組長の口がダラリと開き、若者が凍りつきます。

 映画のような怒声も威嚇もありませんでした。

 時が止まったかのように、静寂がその場を支配します。

 私は怖くなり、引き金を絞らず、その場を逃げ出しました。

 途端に私の頬を熱風のような銃弾が掠め、車の窓ガラスが砕けます。

 頬の傷はその時出来た物です。

 私が後ろを振り返ると、反撃を試みた若者が銃の反動で地面に引っくり返っていました。

 さらに二三発の銃声を聞きましたが、私は無我夢中で市街地に逃げ込みました。

 土地勘があったため、抜け道は心得ていました。

 追っ手をまき、逃げおおせたた。

 と安心した途端、腹に激しい痛みを覚えました。

 若者の撃った弾が私の鳩尾に当たっていたのです。

 逃げている時は必死で、まったく気付きませんでした。

 徐々に意識が薄れ、私はその場に倒れました。


   ☆☆☆


 目覚めた私は病室の一角、窓際に立っていました。

 外を見ると大雪で、室内にはベッドで女性が寝ています。

 男性が一人付き添い、壁には患者の名前があります。

 苗字は私と同じ相馬です。

 男性は女性を冬子と呼び、女性は男性を東一と呼びました。

 亡くなった私の両親と同じ名前です。

 二人の会話から女性が妊娠していて、出産間近な事がわかりました。

 二人は生まれてくる子供の名前を東樹にすると言っています。

 私の名前も東樹です。

 私が混乱していると、ラジオのアナウンサーが日付を告げます。

 その日は、私が生まれた前の日、12月24日でした。

 あの二人は過去の私の両親に違いありません。

 それを確かめようと、二人に声を掛けますが、声が出ません。

 体も指一本動きません。

 まるで悪夢を見ているようです。

 当然、二人が私に気付く事もありませんでした。

 やがて、女性が備え付けの小棚から聖書を取りだし、何か書き込みを始めます。

 子供が生まれたら、読んで聞かせるから、そのための簡単な説明を書いている。

 と話しています。

 書きながら、ゴルゴダの丘で救世主イェーシューアと一緒に処刑された罪人が、何故イェーシューアに許されたのか? 

 などと説明していました。

 ラジオが午後4時を回った頃、女性が急に苦しみだします。

 明らかに陣痛です。

 男性がナースコールしても看護婦が来ません。

 女性が途切れ途切れに、大雪の影響で病院の電気が停電している。

 と告げます。

 男性が部屋を飛び出し、容態の急変を伝えに走ります。

 すぐに看護婦が現れ、こんな事を話します。

 夜勤の医師の到着が大雪で遅れ、代わりに外科の研修医が立ち会う。

 という事です。

 研修医の北尾という若者が青ざめながら停電でエレベーターが動かない。

 手術室への移動が困難なうえ、手術室に入っても電気機器が動かない。

 そのため、この場で分娩を開始する。

 と説明しました。

 女性が了承し、男性も従います。

 分娩は…12時間にも及ぶ難産でした。

 北尾は母子ともに危険、と判断し、帝王切開に踏み切りませんでした。

 結果、子供は助かりましたが、母親の命は尽きました。

 息を引き取る間際に、赤ん坊をかき抱き、か細い声で子守唄を唄います。

 笑顔を浮かべ幸福そうに、自分の命と引き換えに産まれた赤子を心から祝福します。

 そして、静かに目を閉じました。


   ☆☆☆


 今度こそ本当に目が覚めた私は、あれが全て夢だと悟りました。

 ただ、病室を見回すと、妙なデジャブに襲われます。

 病室が亡くなった女性の部屋と似ているのです。

 私がベッドの横に目を向けると、夢で見たのと同じ小棚があります。

 まさか…と、思い扉を開くと…中身は空っぽでした。

 聖書などありません。拍子抜けしている私に、

「もう動けんのかよ。急所を外れたとはいえ、かなりの出血だったんだがな」

 夢で見た北尾という医師にそっくりな医者が話しかけてきます。

 少し老けた感じがしますが、年をとったら、こんな感じだと思います。

 医者は聖書を持っています。

 私がそれを指差すと、

「こいつか? こいつはな、昔、この部屋で亡くなった女性の旦那が寄贈した物だ。小棚に入れたまま、すっかり忘れていたんだが…女性が亡くなった同じ日に、お前が半死半生で担ぎこまれたから、ふと、聖書の事を思い出して、暇潰しに読んでみたんだ。イブの夜に大手術をして、クリスマスの晩に聖書を読むっつーのもオツなもんだな」

 私は医者に、その本にメモ書きはないか? 

 と尋ねました。

 医者は有ると答えます。

 私はゴルゴダの丘で処刑された救世主と罪人のページのメモ書きを読んでくれ。

 と頼みました。

 医者が声を出して読みます。

 その内容は、私が夢の中で見た女性がメモに書き留めていた内容と…完全に一致していました。


   ☆☆☆


「二千文字を大幅にオーバーしてしまいましたが、勘弁してください。人の半生を語るには少々尺が足りないようです。その後、私は北尾医師から聖書を譲り受け、叔父の元へ帰りました。私は今まで避けていた、母が亡くなった時の状況を叔父から聞きました。内容は夢と同じで、さらに、聖書のメモ書きの筆跡は母の筆跡と一致していると、叔父から言われました。何故、神様は、このような奇跡を私にもたらしたのでしょうか? 私にはわかりません。ただ、神様が今までに起こされた奇跡に比べれば、私の身に起きた奇跡など取るに足らない些細な事に過ぎません。ちょっとした気まぐれ。あるいは、クリスマス・プレゼントのつもりかもしれません。一つだけわかった事は、私は一人で生きて、一人で死ぬ。と、ずっと思っていました。ですが、それは大きな間違いでした。私は、母と父、病院の医師や看護婦、それに、もっと多くの人々に祝福されて、この世に生を受けたのです。そして…死ぬ時もまた…誰かに惜しまれて死ぬはずです。さて、その後、私は神学を志し、頬に傷を持つ神父として、皆さんの目の前に立ち、今こうして半生を語るに至ったわけです。湿っぽい話に

なりましたが、最後はクリスマスらしく締めくくりたいと思います。メリークリスマス!」

〈仁義なき鉄砲玉! 《たまを取らずに《聖書》取る!・完〉


   ☆☆☆


 パチ…パチ……パチ。

 クリスマスにヘビー過ぎ&不思議過ぎる内容で、参加者の反応はイマイチだ。

 講話に続いて子供たちの劇が始まる。

 タイトルは、

〈世紀初・救世主伝記☆北東の聖者!〉

 救世主が悪者をバッタバッタと薙ぎ倒す爽快なアクション物で、園児の手で作られたとは思えないリアルな戦闘シーンが最大の売りだ…でも、何故か顔を引きつらせる親御さんが続出した。


   ☆☆☆


 劇が終わると舞台が片付けられ、麗が壇上に上がる。

 パイプオルガンに据えられた椅子に座り、景気付けの一曲、

〈聖者の行進〉を弾こうとする。

 が、なかなか弾かない。

 再度、弾こうとするが、手が止まる。

 チラチラと俺に目線を送り、仕舞いには、こちらを向いて両手を差し上げる。

「すみません。雪合戦をしていたら、霜焼けで手がこんなになっちゃって(腫れあがっとるー!)今日は弾けそうにありません。どなたか代わりに弾ける方はいないでしょうか?」

 涙ながらに訴え、俺をガン見する麗。

 手がグローブみてーだよ! 

 ピアニストが雪合戦すんなよ! 

 手ぇ大事にしろよ! 

 言いたい事は山ほどある…が…、

「あの、俺でよければ、代わりに弾きましょうか?」

「ありがとうございます! 是非、お願いします!」

 グローブみたいな手をポフンと合わせ、渡りに船といった感じで喜ぶ麗。

 俺は壇上に上がり、麗に代わってパイプオルガンの前に座る。

 その右側にパイプ椅子を並べて麗も座った。

「鍵盤が…三列あるな? それに…ペダルが、ピアノとは違う?」

「三列ある手鍵盤の真ん中が主鍵盤です。手前が低音、奥が高音。ペダルの下部は足鍵盤、上部はスウェルペダル。スウェルペダルはピアノと違って、音を切るための物です。あたしはペダルを操作するので、天野君は手鍵盤をお願いします」

 言いながら麗が左足をニュッと差し込みペダルを踏む。

 俺は三列に並んだ手鍵盤を試しに弾いてみる。

 多少、違和感はあるが、問題無い。

 早速、先ほど麗が弾こうとした〈聖者の行進〉を演奏する。

 楽譜は麗がめくった。

 子供の手拍子も入って、いい感じに盛り上がった。

〈聖者の行進〉は元々黒人霊歌でルイ・アームストロングが歌って知名度が一気に上がった。

 今はジャズのスタンダードナンバーだ。

 次に、

〈ジングルベル〉

〈赤鼻のトナカイ〉

〈サンタが街にやってくる〉

 定番中の定番を演奏。

 合わせて子供が合唱する。

 さらに、

〈恋人はサンタクロース〉

〈ウィンターガーデン〉

〈寒い夜だから〉

 一昔前の、懐かしの歌謡曲~的ポップスを弾く。

 大人も合唱に加わった。

 その後、再び定番に戻る。

 ラスト3曲。

〈White Land〉

〈アベ・マリア〉

〈聖しこの夜〉

 参加者全員の大合唱はかなり荘厳で、まるで全員の心が一つになったかのような見事な合唱だった。


   ☆☆☆


 一息ついてから、プレゼント交換を始める。参加者が持ち込んだプレゼントを一ヶ所に集め、ビンゴゲームで当たった順にプレゼントを渡す。という趣向だ。クジ運の悪い俺は嫌な予感しかしない。俺の隣で麗は三回もビンゴを当て、大はしゃぎしていた。無邪気な奴だ。何回当たってもプレゼントは一回しか貰えないのに。

 ゲームが進み、次々にビンゴの当たりが続出。にもかかわらず、いまだに俺はビンゴが来ない。焦っていると、

「ビンゴゲームに当たってない人はまだいますか~!」

 と、司会の神父が参加者に問いかける。俺が手を挙げ、周囲を見渡すと、他に挙手している者がいない。

「ゴメ~ン。プレゼントが無くなっちゃった~。誰かプレゼントを2回貰ってる人とかいますか~?」

 …シーン…。

 水を打ったように静かだ。

 俺は重苦しい沈黙を破って、

「いや、いいですよ。俺は…プレゼントが無くっても、全然…気にしてませんから…」

 本当はスゲー悔しいけどな!

 俺がそう言うと、司会の神父もホッとした様子で、

「ホントにゴメンね~。あとで何か用意するから、とりあえず今は我慢してね☆。では皆さん。少年の大人な対応に対して、全員で暖かい拍手を送りましょう!」

 そんな生暖かい拍手はいらねーよ!

 俺の心の叫びも虚しく、

 パチ…パチ……パチ。

 なんか…一気に盛り下がってしまった。兎に角、そんなこんなで、毎年恒例のクリスマス・イベントは幕を降ろした。


   ☆☆☆


 後片付けを手伝って幼稚園を出る頃には外は真っ暗だった。

 また、雪が降り出している。

「ホワイト・クリスマス…か」

 呟きながら門を出ると、赤羽駅に向かって俺は歩き出す。

 大通り沿いに歩道を行くと街灯に照らされた麗が一人でつっ立っているのに出くわした。

 赤みは残るが、すっかり腫れの引いた手をこすり、口元に寄せると、ハァ~。

 と、息を吹きかける。

 鼻は赤鼻のトナカイみたいに赤い。

 誰かを待っているのか? 

 俺が首を傾げながら、麗の横を通り過ぎると、

「やっと出てきましたね! 待ちくたびれましたよ! 雪まで降ってくるし、もう帰ろうかな~、なんてヘコたれそうになりましたが、気合いを入れてガンバって待ってました! フフフ」

 フフフって! 

 ストーカーみたいだな!

「あの…誰かを、待ってるんですか?」

「エ~~~(ウザッ!)あなたの事を待ってたんですよ。天野君」

「え? 俺に? 何か用事でもあるんですか?」

「ハルカウララ・サンタが…天野君にプレゼントを届けに来ました!」

「…」

 赤鼻のトナカイの間違いじゃないのか?

「すみません。冗談です。本当は先ほどのビンゴゲームの件について、お話したい事があるんです」

「あれなら、あの後、神父さんから金一封を貰ったよ。ワンコインだけど…」

 俺は茶封筒から五百円玉を取り出し、

「意外とセコい神父だ」

 親指でコインを弾き、空中で掴み取る。

「実は…あのあと、マオ君から告白がありまして…ビンゴに2回当たったので、うっかり、プレゼントを2回貰ってしまった。と、そう言うんです。その場で本当の事を話す事が出来なくて、でも、帰る間際になって、あたしに正直に話してくれました」

「しょうがないガキだ」

「本人も反省しているので、あたしがフォローする事にします。というわけで、これをどうぞ、天野君」

 麗がプレゼントを俺に渡す。

「つまらないものですが、クリスマス・プレゼントです」

「ちゃんとしたプレゼントを貰えるとは思わなかった。ありがとう…遥さん」

 どういたしまして。

 と、麗が言いながらキラキラした瞳で俺と包みを見つめる。

 何だ? 

 その奇妙な視線は?

「じゃあ俺、帰るから」

 すると麗がダッシュで俺の行く手をふさぐ。

「プレゼントは早めに開けたほうがいいですよ、天野君☆」

 えっと? 

 どういう事?

「いや、あとで…」

 ウチに帰ってから開ける、と言おうとして、

「冷めてしまうと、味が半減しますよ☆」

「え? プレゼントって…食べ物…なの?」

 そういえば…ほんのり、温かいような。

「ええ、熱々のうちに食べてください☆」 

 何で…一々語尾に☆が付くんだ? 

 凄い…嫌な予感しかしない…けど、とにかく、俺は恐る恐る包みを開けた。

 すると、中から鼻腔をくすぐる香ばしい…って、

「タコ焼きだーーー!」

 エーーー!

「お店に残っていたタコ焼きをレンジで温め直しました。待ってる間に少し冷めちゃいましたが、まだ、全然、大丈夫です」

 大丈夫じゃねー! 

 と俺は心の中で叫ぶ。

 にもかかわらず、麗は益々、キラキラした瞳で俺と包みの両方を見つめる…クッ、仕方ない。

 俺は麗の飛沫入り特製タコ焼きを食べる事にした。

「どうですか? 美味しいですか?」

 麗の問いに、

「なんか、しょっぱいかも」

 と、返事を返す俺だった。


   ☆☆☆


 麗も埼京線で帰るというので、一緒に赤羽駅へ向かう。

 駅は大混雑だった。

 線路内の人の立入、危険信号感知、機器異常点検、後続車両の時間調整、不発弾処理に伴う運行停止、などなど、様々な理由により、2時間止まっていた。

 ようやく、運転再開のメドが立ったのが、つい先程。

 俺と麗が駅へ着いた頃だ。

 愕然としながら駅構内に二人で入ると、あれよあれよという間に人の波に押し流され、スシ詰め状態の電車内に押し込まれた。

 しまった、と思った時には遅い。

 車両を抜け出そうにも人の壁に阻まれ身動き一つ取れない。

 車内のあちこちから、押すな、苦しい、と不満の声があがる。

 そんな中、乗客の混乱をよそに、電車がノロノロと動きだす。

 鈍足とはいえ車内は凄まじいラッシュで騒然となる。

 車両が揺れるたびに、痛い、触るな、気分が悪い、と悲鳴に怒号が飛び交う。

 俺と麗も完全に密着状態で大変な事になっていた。

 お互いの息が掛かりそうなぐらい間近に顔を近付けて、麗の胸は俺にギュウギュウ押し付けられている…一言、弁明させてもらうと、圧迫感以外の感触は無かった! 

 と言いたい。

 麗の名誉の為にも! 

 でも下半身は名誉どころじゃなかった! 

 太ももと太ももが蛇のように絡みあい、大変というより危険な状態だった。

 生暖かい、スベスベした感触が、電車の振動とともに伝わるたびに、麗の顔がリンゴみたいに真っ赤に染まる。

 瞳が潤み、苦しげに眉根を寄せる。

 桜ん坊みたいな唇がワナワナと震える。

 まるで…痴漢に対して抗議の声をあげるかのようだ…って、ちっがーう! 

 これは満員電車による不可抗力であって、俺の意思じゃなーい! 

 俺の望んだシチュエーションじゃなーい! 

 何だ? 

 シチュエーションって? 

 何のシチュエーションだ!? 

 とんでもない状況に俺の正常な思考力も鈍化してきた。

 その時っ!

 麗の顔が赤から紫色。

 次に青から緑色に変わって、そのまま人混みの波に沈んでいった。

「すいません! 女の子が倒れました! ちょっと! 隙間を開けてください!」

 俺は必死に叫び麗を助け出す。

 ちょうど次の駅に到着したので、その駅に降りることにした。


   ☆☆☆


 駅に待合室があるので、麗を横にして休ませた。

「どうした? 気分でも悪いのか?」

 中年のオッサンが尋ねる。

「電車の中で急に倒れたんです。駅員さんに頼んで救急車を呼ぶから、それまで見ててください」

「俺は高校の保険医で北尾ってんだ。ちょっと見るから、慌てないで待ってな」

 北尾が麗のひたいに手を当て、熱がないか調べる。

 次に手首をつかみ脈をはかる。

 最後に二、三、質問をしてから、

「問題無さそうだな。本人も休めば治るって言ってるし、救急車を呼ぶほどの事じゃない。それじゃ、彼女を大事にな、彼氏くん」

「はあぁっ!?」

 俺は否定しようとするが、北尾は上り電車に乗って去って行った。

 彼氏って…勘違いもはなはだしい。

 麗が呟く。

「すみません。こんな事になってしまって…あたしは大丈夫ですから、天野君は先に帰ってください」

 俺は嘆息し、

「いいよ…別に。急いで帰る必要もないから」

 乗り掛かった船だ。

 最後まで付き合うさ。

「もっと早く、気分が悪いって言えばよかったんですけど」

「いや、俺も…様子がおかしい事に気付くべきだった…つい、他の事に気を取られて…」

 ヤバイ気持ちだった! 

 とは言えない。

「あたしはいつも、後手に回ってしまうんです。いつも、そうなんです。気付いた時には、取り返しのつかない事になっている…情けない話です」

「いや、別に。そんなことは…」

 あるのか? 

 具体性に欠けているので返事のしようがない。

「そんなこと…あるんです」

 麗が腕を上げ、空中に漂わせる。

 ほっそりとした指先は、少し赤見を帯びているが、腫れはとっくにひいている。

「本当は、今日のクリスマス会でも演奏がしたかった」

 麗の指先が滑らかに空間を舞う。

 エア・ピアノだ。

 今日の演目を、エア・ピアノで再現している。

 繊細で柔らかいタッチ、俺とは真逆だ。

「それに…高校も、本当は…」

 指先が力無く止まる。

「遥さんは〈聖常音楽学院〉を受験しようと思った…って話していたね。余計なお節介かもしれないけど、今はどうなの? 別の高校を受けるの? それとも、本心では〈聖常音楽学院〉を受験したい…とか?」

「〈聖常音楽学院〉の受験は母から反対されていて…もう諦めました」

「そう」

 ライバルが一人減った。

 ただ…俺は先程の麗の演奏が気になった。

「家庭の事情は人それぞれだから、俺がどうこう言えないけど、迷っているなら、とりあえず行動を起こしてみるのが一番じゃないかな。考えてるだけじゃ答えは出ない。今一番、自分がやりたい事をやってみる。それをやってみてから、もう一度、考えたほうがいいんじゃないか?」

 麗が不思議そうに俺を見る。

「コレの事だよ」

 俺はエア・ピアノのジェスチャーをした。

 麗の諦めきった瞳に光が灯る。

 椅子に座り直して背筋を伸ばす。

 何も無い空間に鍵盤を見立て、指を添える。

「あ、ちょっと待って」

 俺は麗の隣に座った。

「どうぞ」

 麗の演奏が始まる。

 先程の演奏とは違い、迷いを振り切るかのように力強い演奏だ。

 駅の休憩室に、麗と俺にしか聞こえない音無きメロディーがこだまする。


   ☆☆☆


   2月22日


 翌年の2月22日。

 寒風吹き荒れる中、埼京線十条駅の改札口を抜けた俺は〈聖常音楽学院〉の試験会場へと向かう。

 駅付近には俺と同じ受験生らしい生徒がたくさんいる。

 東口の大通りを右に曲がって、自衛隊の補給基地に沿って歩けば学院に着く。

 途中、女生徒が一人、地図を片手に周囲を見回していた。

 同じ受験生らしいが、地図をカバンに仕舞う際、何かがこぼれ落ちた。

 その時は気にせず進んたが、基地正門付近で再び先程の女生徒と出会う。

 住宅街に入ると近道になる。

 先回りされたらしい。

 少し様子が変だ。

 途方に暮れた顔つきで周囲を見回し、何かを探している。

 俺を見るなり、

「す、すみません! ちょっと、道を教えてもらっていいですか? 迷ってしまって…試験会場にどう行ったらいいのか、もう全然わからなくて…大事なお守りもなくしちゃうし…わたし、もう、一体どうしたらいいのか…」

 偶然ショートカットしただけの方向音痴だ!

「どこを受験するんですか?」

「〈聖常音楽学院〉です。あの、場所がわかりますか?」

「俺も同じ学校を受験する受験生だから場所は分かります。一緒に行きましょう」

「た、助かります。あ! あと、お守りが…」

 さっきすれ違った時に何か落としていたな。

「ちょっと、逆戻りになるけど、探してみようか? 見つかるかもしれない」

 彼女が頷く。

 一旦、道を逆戻りして、お守りを探した。

 それは意外と早く見つかった。

 緋色の袋に合格祈願と金地で刺繍されている。

 彼女に渡すとカバンの取っ手にお守りを取り付け始めた。

「両親からもらった大事なお守りなんです。本当にありがとうございます」

 俺は適当に相槌を打って歩き出す。

「本当に見つかって良かった」

 彼女が胸を撫で下ろす。

 その後、五分ほどで〈聖常音楽学院〉の試験会場に着いた。


   ☆☆☆


「わたし、伊地図火奈いちずかなって言います。あの、あなたは?」

「俺は天野響。お互い、もう会うこともないだろうけど、試験、頑張ろう」

 伊地図が頷く。

 自身の受験票を確認し、俺とは別の教室に入る。

 一般科目は別だが、実技試験で一緒になる可能性がある。

 伊地図がピアノを選択していれば、の話だが。

 午前中の一般科目を終えたあと、昼休みを挟んで実技が始まる。

 俺は飲まず食わずで午後の試験に挑む。

 満腹だと腕も勘も鈍るからだ。

 驚いたことに、伊地図と同じグループで実技を受けることになった。

 伊地図が呟く。

「運命…かも…」

「え? ベートーベンのこと?」

 伊地図が酷く落胆している。

 試験の課題曲はベートーベン〈月光〉の影響を強く受けた作曲家、デュッコ・シュレーカーの即興幻想曲〈黒い月〉だ。

 試験は音楽室で行われるが、出番がくるまで隣の教室で待つことになる。

 伊地図でなくとも気が重い。

 二十分おきに妙齢の女性が受験生を五人ずつ呼び出す。

 実技の持ち時間は、一人あたり三分…といったところか。

 そのたった三分で…生まれてから十六年ぶんのピアノの成果が問われる。

 一生を左右するには、あまりにも短い時間だ。

 受験というシステムに不満がないと言えば嘘になる。

 正直、苦しい。

 悲しい。

 憎い。

 けど、偉大な芸術家は、そういった負の感情ですら創造のエネルギーに変えてきた。

 今は迷わず突き進むのみ。

 新たに女性が五人の受験生を呼び出す。

 名前を読み上げるそのたびに、教室の空気が張り詰めたような緊張感に包まれる。

 酷いプレッシャーだ。

 俺は気持ちを逸らすように、机の並びから実技を受けるメンバーを確認する。

 先頭は気の弱そうな男子。

 二番目はこれといって特徴のない女子。

 しいて言えば、女性の呼び出しがあっても、全然気にしない…空気を読まないタイプ。

 三番目は俺。四番目は後ろの席に座る伊地図。

 最後はスカした感じのチャラい男子。

 この五人で腕を競うわけだ。

 徐々に受験生の数が減る、次に呼ばれるのは俺の番だ。

 緊張感が極度に高まるなか、二番目の空気読まない女子が、指先を机に這わせ、ピアノを弾く仕草をする…滑らかで優しいタッチ。

 この演奏に俺は見覚えがある。

 間違いない、去年のクリスマスの晩に見た…いや、聞いた…遥麗の音だ。

「受験番号、98、102、108、110、121、音楽室に移動しなさい」

 女性の呼び声が響く。

 立ち上がった俺の目の前を通り過ぎる女子…それは紛れもない…あの日会った遥麗だった。


   ☆☆☆


「窓際から順番に座りなさい。荷物は後ろの机に置いて、最後の人は扉を閉めること」

 女性が指示し、チャラい男子がそれに従う。

 机は教室の後ろに寄せられている。

 その前に、椅子が五つ置いてあった。

 前方の教卓、左側の窓際にグランドピアノが一台置かれている。

 その隣の椅子に女性が腰掛けた。

「試験は最後に入った男子から始めます」

 ということは、チャラい男子からだ。

「なので、調度、入ってきた逆の順番になります。私は試験官の岡月律子おかづきりつこ。この高校で音楽を教えています。担当はピアノ。君たちも手短じかに自己紹介してください。扉側の男子からどうぞ」

「田舎町の井備戸中から来ました。相馬東威です。よろしくお願いします」

「それだけか?」

「手短じかに、ということなので」

「いいだろう。次」

「伊地図火奈です。日光に近い二光市、二光中学から来ました。合格した場合、寮生活になるので、両親には大反対されました。でも、どうしても東京のレベルが知りたくて、受験を決めました。早速、今朝、道に迷ってしまったのですが、親切な人が道を教えてくれました。その人のためにも今日は頑張りたいと思います」

「東京はゴチャゴチャしてるからな。次」

「東京、三須加中学出身、天野響です」

 復讐の為に受験します。

 とは言えない、

「聖常音楽学院は護国聖常学園の姉妹校という事もあり、古い歴史と権威、音楽業界との深い繋がりがあります」

 虎の威を借りた権力者がうようよいる。

「にもかかわらず、最先端の教育指導と最新の設備、機材が整っています」

 ショボい音楽も見栄え…いや、聞き栄えのする作品に化ける。

「そのため、音楽を志す者。または、設備を借りにくる業界関係者にとっては、最高の環境といえます」

 聴衆を愚弄する似非音楽家にとっては最高だ。

「以上の理由から、この高校を受ける事にしました」

「お前の言っている事は本心じゃないな。本音は別にある」

 え!?

「次」

「遥麗です。埼玉、紫穂宮中学出身です。琴とピアノを習っていましたが、琴よりピアノをやりたいと思い、この高校を受験する事にしました。ここまで来れたのも、色々な人のおかげです。この試験が受けられるだけで、あたしは幸せです」

 相変わらず変な女だ。

 試験が受けられるだけで幸せ? 

 この調子じゃ俺の事など何一つ覚えていないだろう。

「最後に…去年のクリスマスの夜、あたしの背中を押してくれた人の為に、今日はピアノを弾きたいと思います」

 覚えてたっ!

「その人に届くといいな。次」

 俺がつい、

「くくく」

 と笑うと、岡月律子が見とがめ、

「笑っていいと思うか?」

「スミマセン」

 でも、内心は、いいとも! 

 岡月律子が、

「もう、終わったっけ?」

「い、いえっ!(汗)く、九里宮拓人くりみやたくと、護国聖常学園からの編入試験になります。両親の強い勧めで、この高校を受けることにしました。皆さん本日は、よろしくお願いします!」

「君のお父さんは世界的な指揮者だったな。おっと! これは個人情報だった。秘密保護法違反になるな」ちょっと…違う気がする。「自己紹介も終わって、すぐ試験…と、いきたいところだが、その前に話しておくことがある。今年の我が学院の倍率は5.2倍。つまり、五人に一人しか受からない。この音楽室で試験を受ける、相馬、伊地図、天野、遥、九里宮、この中の誰か一人だけが合格する。それを頭に入れた上で、全力を出しきってもらいたい。以上だ。健闘を祈る」

 聖常音楽学院は倍率を公開しない。

 受験生を考慮しての措置と聞いたが…まさか、このタイミングで言われるとは思わなかった。

 悪い冗談だな。

 本当に、人が悪いにも程がある………だが、合格するのは俺だけだ。


   ☆☆☆


 俺はこんな所でつまずくわけにはいかない。

 かつて、天才的な音楽の才能に恵まれながら、権威主義に固執する評論家どもの激しいバッシングにあい、ついに失われた天上のメロディー。

 それを復活させる事、〈幻想神詩曲〉を復活させ、世界の隅々まで、この曲を鳴り響かせる事、それこそが、俺の真の目的だ。

 あの人から受け継いだ魂の記憶。

 それを、ここで終わらせるわけにはいかない。

 他の、誰が犠牲になろうともだ。


   ☆☆☆


「全員…いい顔つきになってきたな。それでは試験を始めます。一番、相馬東威君、始めなさい」

 相馬の演奏はまあまあだ。

 可も不可も無し。

 平均よりちょっと上。

 演奏中、麗の様子を探ろうとして止めた。

 変に動揺したら試験に響きそうだからだ。

 そうなると、自然と視線は伊地図に向く。

 伊地図の膝の上で組んだ手が青白くなっている。

 チラッと覗いた顔も青ざめ、緊張でカチコチになっている。

 敵に塩を送るわけじゃないが、俺は伊地図の目の前に人差し指を突きだした。

 背後の机の上のカバンと御守りを指差す。

 俺の意図に気付いて伊地図がカバンから御守りを取る。

 きゅっ、とそれを握り締める。

 少しは落ち着いたようだ。

「次、伊地図火奈さん」

 リッツの声が掛かる。

 岡月試験官だと堅苦しいので、適当にリッツと渾名を付けた。

 伊地図が立ち上がる。

 先程より遥かにリラックスしている。

 伊地図の演奏はまあまあだ。

 相馬よりは上か。

「次、天野響君」

 俺は返事を返しピアノの前に座る。

 これから先、何度も弾くことになるであろう、鍵盤を軽く撫でる。

 いい手触りだ。

 最高の機材に偽り無し、というところか。

 といっても、奏者がヘボでは話にならない。

 リッツが採点表に目を通し、

「始めなさい」

 と告げる。

 俺の指先がメロディーを奏でる寸前、

 キキッキィイー! 

 ガシャンッ!

 表で車両事故が起きたみたいだ。

 外が騒がしくなる。

 いや、今は試験中だ。

 気を取り直して、もう一度、

「何してんの、みんな! 事故だよ、事故! トラックとダンプカーとコンクリミキサー車のトリプル事故だよ! 最近、穴掘って埋める公共工事多いもんね! みんなも! 早く早く! 見に来なよ! パトカーもきてるよ!」

 リッツが真っ先に窓に飛び付いて事故現場を眺める。

 野次馬根性丸出しだな! 

 しかも受験生を煽っている。

 おいおい。

 大丈夫かこの試験官は? 

 しかし、窓際の九里宮や麗が、その言葉に従って事故を覗いていた。

 俺と伊地図も仕方なくあとに続く。

 人の不幸を笑うとバチが当たるぞ。

 車体は横倒しで真ん中に穴が空いている。

 かなり大きな事故だ。

 けど、幸い怪我人は見当たらない。

 事故を起こした三人の運転手が責任の擦り付け合いをする。

 免許停止で仕事が無くなると困るからだろう。

 必死になって罵り合う。

「まあ、大丈夫そうだな。それでは、試験を再開します」

 もう飽きた。

 といった顔つきでリッツが言う。


   ☆☆☆


 はっきり言って俺のテンションはかなり下がった。

 お預けを喰らった犬か当て馬の気分だ。

 しかし、気が乗らないからといって、試験を放棄するわけにはいかない。

 一度谷底に落ちた気力を充填し直す…よし…いける。

 演奏再開。

 デュッコ・シュレーカー作〈黒い月〉を華麗に弾きこなす。

 ベートーベンの〈月光〉より暗い感じの地味な曲だが、当て馬の悲しい気持ちを思い出して弾くとピタリとハマる。

 重い旋律は重厚感に変わり、暗い夜の新月を彷彿させる。

 後半、すこしづつ高音域の展開が始まり、サビへ入ろうとした瞬間、

「!?」

 ルート音(和音の根音)の欠落に気づく。

 音が鳴らないのだ。

 俺はすかさず和音の左から二番目の音をルート音に変更。

 新たな和音、代理和音で演奏を続行する。

 俺がトラブルに気づき、代理和音に変えるまでに、およそコンマ5秒…ぐらい。

 余程、耳の良い奴でないと聞き取れないレベルだ。

 俺は〈あの人〉から、演奏上のあらゆるトラブルに対処する方法を身に付けるために嫌というほど教え込まれている。

 そのおかげで、今ではあらゆる事態に自然に対処出来るようになった。

 一体どうして、こんな事が起きた? 

 最新鋭の機材でメンテも怠っていない筈だ。

 経年劣化でピアノ線が切れるという事も有り得ない。

 となると、人為的原因以外に考えられない。

 問題は誰がやったか? だ。


   ☆☆☆


 演奏を終えて周囲を見回すと、相馬の姿がない。

 リッツに尋ねると、

「相馬君なら天野君が演奏する前に用事があるとか言って先に帰りましたよ」

 犯人決定!

「僕も、ちょっと、用事があるので、先に帰って良いですか?」

 リッツがOKを出す。

「あと、ピアノの修理をしたほうが良いと思いますよ」

 俺が忠告すると麗が、

「あたしは大丈夫です。天野君と同じ弾き方をしますから」

 えっ!? 

 マジ? 

 気づいてた!?

「代理和音か…遥さんはいいかもしれないけど」

 リッツも!?

「あとが控えてるからな。やっぱりメンテ会社を呼ぶとしよう。それと天野君、相馬君を追っても無駄じゃないかな。仮に、ピアノ線を切ったのが彼だとしても、証拠はとっくに処分してるだろうし、そうなると、この部屋の全員を疑わなきゃならない」

 それでも釈然としない俺は、

「兎も角、行ってきます」

 と言い残し部屋を出る。


   ☆☆☆


 俺は埼京線・十条駅へ走る。

 相馬を捕まえて吐かせるつもりだ。

 東口の改札を抜けて新宿行きのホームを見渡す。

 それらしい生徒はいない。

 俺は反対側のホームに走る。

 階段を上がり通路を通過する途中、大宮行きの電車が入ってきた。

 西口、改札前に出ると、赤羽方面のホームに相馬が居た。

 俺が詰め寄ると、相馬は電車に乗り込み、同時にドアが閉まる。

 相馬がドア越しに俺に気づいて、指先を持ち上げると、エア・ピアノを引き始めた。

 問題の箇所で音が鳴らないジェスチャーをする。

「この野郎っ! やっぱり犯人はお前かっ!」

 が、無情にも電車は走り去る。

「くそっ! あいつめ、今度会ったらブン殴ってやるっ!」

 いや、蹴るにしておこう。

 将来有望な天才ピアニストは拳で人は殴らない。

 とはいえ、もう会う事も無いだろう。

 五人に一人しか受からないのだから。


   ☆☆☆


 リッツに謀られたと知ったのは、聖常音楽学院の入学式の日だ。

 式が終わり、教室に入ると、俺は見覚えのある面々と再会した。

 つまり、あの日、実技試験を受けた四人である。

 さすがに入学が決まったあとでは、相馬に対する怒りも冷めている。

 時効という拳にしておこう。

 リッツが教室に入る。

 このクラスの担任だそうだ。

 リッツがおもむろに口を開く。

「まずは、相馬君。こないだの実技試験の時には、色々とやらかしてくれたわね。あのあと大変だったのよ」

「何の事か分かりませんね。ですが、もうとっくに時効ですよね。全員、受かっているわけですし」

 自分で時効って言うな!

「まあ、いいでしょう。他の生徒には関係の無いことですし、晴れの入学式ですから、恩赦という事にしておきます」

 やっぱ俺が殴っとくか? 

 相馬の奴め、反省の色がまったく見えない。


   ☆☆☆


 リッツが気を取り直し、

「皆さんは、この高校の倍率の高さに比べて、入学率の高さに驚いていると思います。

 その理由は、要するに戦時・少子化対策の一環です。

 数年前から我が校は切り捨て型の、従来型の受験制度を廃し、より多くの生徒を受け入れる方針に転換しました。

 あなた方はその是非を問われる生徒たちです。

 一部の生徒は、その事実を知って、試験で手を抜く可能性があるため、あえて試験の際には少し厳しく対応しました。

 ですが、その件については、全員合格という事でドローです。

 我が校を取り巻く環境。

 いえ、この日ノ本を取り巻く環境は、日々、悪化の一途を辿っています。

 皇紀2699年、

 西暦2039年。

 十五年前から始まった地球寒冷化は、現在も治まる気配を見せず、その影響で世界的な食料不足が続く中、さらに、追い討ちをかけるように、五年前から石油の産出量が激減しました。

 以来、世界中の国家と民族が、僅かな食料と石油をめぐり激しい争いを繰り広げています。

 日ノ本も例外ではありません。

 南部方面、十州は、華軍の猛攻にさらされ、壊滅的打撃を受けました。

 また、北部方面、道州は、露軍の侵攻によって、戦略的撤退を余儀なくされています。

 最近では、光皇族を狙ったテロが発生し、東皇軍に甚大な被害が生じています。

 それと、これは直接関係無い話かもしれませんが、妙な噂が世界中に広まっています。

 過酷な戦場において、兵士が悪魔を見た。

 という噂です。

 このような噂は、ある意味、世界の混乱を象徴しているのかもしれません。

 南部、北部で大敗を喫した光皇軍は数年前、立ち直るまでの少しの間だけでも、大人の兵士に代わる別の兵士を補充する決定をくだしました。

 その制度が来年、

 皇紀2700年の祝賀記念開催と同時に発令されます。その制度とは、

 皇紀2688年、

 西暦2028年、

 時の政権、自公党によって強引に可決された、憲法九条改正と、

 皇紀2692年、

 西暦2032年の、

 徴兵制度の復活につぐ悪制と呼ばれています。

 それは…つまり…、

 学徒動員制度の復活です。

 大人の戦争に子供を巻き込む。

 戦前の悪夢が再び蘇えるわけです。

 ですが、今回はさらに二つの法案が加わります。

 それは、成人年齢の引き下げ。

 中、高生への選挙権の付与です。

 大人の世界が崩壊しつつある今、子供たちに大人の真似事をしてもらわなければならない時代になった、という事です。

 ですが反面、これは好機ともいえます。

 あなた方の未来が、あなた方自身の手に委ねられたわけですから。

 勿論、未来を左右する、というのは簡単な事ではありません。

 なにしろ、悪名高い、戦前の旧・光軍派の生き残りよって結成された秘密結社を母体とする、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの超・巨大組織、自公党が立ち塞がりますから。

 それに、権利を行使するには義務を負わなければなりません。

 その重圧に耐えられる子供が果たして何人いるでしょう? 

 兎も角、

 皇紀2700年、

 西暦2040年、

 その年になれば、否応なく全ての事柄があなた方の身の上に降りかかってきます。

 逃げるのか? 

 立ち向かうのか?

 平和を望むのか? 

 戦争を欲するのか? 

 全てあなた方の判断に委ねられます。

 あなた方は決断しなければいけません。

 例えそれがどんなに苦しい選択であっても。

 私はあなた方が、この聖常音楽学院で学んだ事を充分に活かして、より良い未来を選ぶ事を望みます」


   ☆☆☆


 リッツの挨拶に教室が静まりかえる。

 取り成すようにリッツが、

「ゴメンね入学早々、暗い話ばかりで、でも、これで湿っぽい話はおしまい。先の事は先の事。皆さんは、音楽、勉強、運動、倶楽部活動、それに友達付き合いや、恋愛なども含めて、大いに学院生活をエンジョイしてください! 先生からは以上です! それじゃ、一人一人、改めて自己紹介をお願いします」

 リッツに促され、右端から順番に自己紹介を始める。

 皆、初々しい挨拶だ。

 というか、話は少し戻るけど、俺はリッツの挨拶の半分以上が理解出来なかった。

 何しろ、ここ数年、ずっとピアノ漬けだったのだ。

 いわゆるあれだ。

 SFで有名なウラシマ効果という奴だ。

 気がついたら数百年経っていた。

 というそんな感じだ。

 そこまで酷くはないけど。

 兎に角、

 テレビ、ラジオ、新聞、携帯、インターネット、現代人に欠かせない情報源の全てを遮断して俺はピアノに明け暮れていた。

 日ノ本が劣勢にある。

 という噂は耳にする事があっても、ここまで酷いとは思わなかった。

 寝耳に水だ。

 驚いた。

 けど、言わせてもらえば、俺は受験で一杯一杯だったのだ。

 戦争がどうのこうのという話は空の上の雲か幻、といった印象しか無い。

 それは、俺だけじゃないはずだ。

 誰だって自分の事で日々精一杯だ。

 軍で働く気でもない限りは、興味を持つ事など無いと思う。

 きっと、俺は間違ってないと思う。

 俺は自分にそう言い聞かせた。

 でも、ちょっとぐらいは、携帯のヤッホー・ニュースの政治欄とかをチェックして、少しは読んで勉強しようかな…とも思った。


   ☆☆☆


   ピアノのピ


   ☆☆☆


 秋のピアノ・コンクールが間近に迫り、俺の焦りが頂点に達する、

「おのれ(うらら)! 貴様にコンクール出場の座は渡さん! 天才! (ひびき)の名にかけて!」 

 思わず叫び、クラスの同級生が唖然とする。

「と、いう設定!」

 とか、何とか誤魔化し、俺は教室を脱け出す。

 ちょうど昼休みで、クラスメイトが少ないのが幸いだ。

 凡人に天才を理解してもらおうとは思わない。

 いずれは世界が認めるはず。

 天才を、認めてくれるのは未来だけ・・・なんて、誰かが言ってた気がする。

 それはともかく、

 俺は校舎の屋上から焦りの元凶である麗を睨む。

 麗は呑気に友達とバレーで遊んでいる。

 ピアニストにあるまじき行為だ。

 突き指でもしたら、ピアノが弾けないではないか。

 内心、大いに腹をたてながら、どうやってライバルを蹴落とすか必死に考える俺だった。

 聖常音楽学院では午後の授業を選択した科目ごとに行い、教室め授業ごとに別れる。

 俺と麗は同じピアノ科で、同じ音楽教室だ。

 当然、俺は猛烈に不満だ。

 まあ、これは仕方ない事だから諦める。

 授業が始まるやいなや、ピアノ科の教師、律子先生(俺的愛称リッツ)が、

「今日の授業は自分の好みの曲を自由に弾いてみてください。アレンジしても構いません」

 などと、思いがけない発言をする。

「コンクールの課題曲はどうするんですか!?」

 俺は、うっかり抗議。 

 目敏く、否、耳敏く俺の失言に食い付くリッツ。

「だって課題曲聴くの飽きちゃったんだも~ん」

 貴様それでも教師か! 

 危うく突っ込みそうになる俺。

 他の生徒も不満を隠せない様子。

 多かれ少なかれ、腹をたてている。

 チクチクと針で突き刺すような視線がリッツに集まる。

「と、とと、いうか~、同じ曲ばかりじゃ、みんな疲れるよね、あはは」

 あはは、とか朗らかに笑われ、教室の空気が氷点下まで一気に落ち込む。

「疲れてはいますが」

 毎日嫌というほど練習しているのだ。

 疲れてないほうがおかしい。

 口には出さないが。

「そ、そう…あれだ、あれです。何だっけ? えーと、自主性、です。生徒の自主性が見たいんです」

「……………」

 生徒の痛い沈黙が続く。

 その場の空気を察したリッツが、伝家の宝刀を抜く。

「先生の心に響くような曲を弾く子は、きっとコンクールの選抜にも残ると思うな~」

 〈選抜〉…それはコンクールを目指す者にとって、避けては通れない、最強のキーワード。

 生徒を操る最終兵器。

 某・御隠居の印籠並みに破壊力がある。

 こいつをリッツが持ち出した以上、もう後戻りは出来ない。

 生徒全員が修羅と化す。

 選抜に生き残る為、全員本気モードへ突入。

 いいだろう、リッツ。

 貴様が印籠を振りかざすなら、俺も全力で応えよう。

 先陣を切り、挙手する俺。

 何事も、最初と最後は印象に残るものだ。

 ウチの親など、TVドラマは一話と最終回しか見ない。

「というわけで~、最初は先生が歌います」

「お前が最初かい! しかも、歌うんかい!」

 思わず突っ込む俺。

 しかも、ポーズまで取ってしまった。

「…という、突っ込みの非常に多い、お笑い番組を見すぎまして…つい、突っ込んでしまいました。勿論、初めは先生からどうぞ。生徒全員期待いたしております」

 かなり、苦しいフォローを入れる俺。

 気にも留めずにリッツが、

「それじゃ、歌います。曲は…」

 屈託なく前奏を弾き始める。

 まさか…この女…ナニモカンガエテイナイノデハ? 

 疑念が俺の頭を掠めつつも、リッツの歌声が教室に響き始める。

「聞いてください…

〈Good Luck!〉」

 普段は少女のように甲高い、ソプラノ気味の声が、今は、しっとりと、落ち着きのある、ウィスパー・ボイスだった。

 リッツの歌は、ポップスをピアノ・アレンジした曲みたいで、どこまでも透明感のある、暖かい、優しい歌声に、思わず泣けてきた俺。

 不覚にも涙が零れてしまった。

 やるなリッツ! 

 伊達に音楽教師をしてないな! 

 まさか、16の秋に、リッツの歌声に感動して涙を流すとは思わなかったよ!

 曲が終わると、生徒全員、拍手喝采、雨霰、予期せぬ感動の嵐が教室を渦巻いた。

 みんなが涙を流す中、俺は冷静に、かつ客観的に、今の流れを分析。

 つまり、リッツの感動的な演奏のすぐあとに、二番手として弾くか? 

 それとも、否か? 

 である。

「素晴らしい、最高の曲でしたね、先生。率直に言って、久しぶりに、素直に感動しました」

 半分本心、半分演技。

 大袈裟な拍手に爽やかな営業スマイルを浮かべ、リッツを称賛する俺。

「先生の見事な歌のあとに、すぐ演奏するのは、気が引けますが、僭越ながら、興醒めしない程度に、自分が弾いてみたいと思います」

 さりげなくピアノに近づき、さりげなく交代を即す俺。

「えっと、じゃあ、次は天野君にお願いします」

 感動醒めやらぬ、生徒の視線が突き刺さる中、俺は滑らかに鍵盤を弾く。

 二番手という、若干、印象の薄い恐があるものの、やむを得ない。

 メリットがないわけでもない。例えば、

 二番煎じ…とか、

 二匹目のドジョウ…とか、

 雨後の竹の子…とか、

 なんか、イメージの悪い、これらの言葉も、俺に言わせれば、生き残る為の立派な選択肢の一つである。

 と、思う。

 志、半ばで息絶え、この世から消え去るよりは、遥かにマシだ。

「…ベートーベン。ピアノ協奏曲 第5番…〈皇帝〉…」

 俺が弾こうとすると、

「あっ! それ長いから、第1楽章のどっかで適当に切り上げてね!」

 リッツが茶々を入れる。

 俺は思いっきり眉をひそめ、コメカミの血管をピクピクさせながら、(前髪で隠れて見えないが)。

「心配しなくても…初めから、そのつもりですよ…先生」

 ニッコリ。

 口元だけで器用に笑う、氷の微笑。

 〈皇帝〉は、まともに弾くと、30分を超える大作になる。

 が、天才に不可能は無い。

 不可能を可能にするのが天才。

 というわけで、俺は大作を5分程度にアレンジすることにした。

 シューベルトの〈魔王〉という選択肢もあるが、類は友を呼ぶ、天才は天才を呼ぶ、ベートーベンこそ、同じ天才の俺に一番相応しい…はず。

〈皇帝〉のやっかいな所は、単純に曲が長い、というだけではなく、曲調がゆっくりと、徐々に盛りあがる展開で、つまり、メインメロディーに達するまでが長いのだ。

 悠長に弾いていると、時間切れになる。

 それを回避する為に、俺は出来る限りのテンポアップをはかる。

 ペースは音的に壊れる寸前、一秒の半分、の半分、さらに半分、ギリギリまでテンポアップする。

 脳内メトロノームが悲鳴をあげかねないほどの、繊細かつ大胆な、超絶・微調整。

 やっかいな点、二つ目。

〈皇帝〉は協奏曲でありながら、ピアノと管弦楽の立ち位置が対等である。

 通常の協奏曲なら、管弦楽は単なるBGM扱いだが、〈皇帝〉においてはそうはいかない。

 俺は即興で管弦楽をピアノアレンジしながら、メインのピアノと、かぶらないよう注意を払いつつ、両者の比重を保ちながら、バランスよく弾いていく。

 俺の額に珠のような汗が浮かぶ。

 が、不快な印象はない。

 むしろ心地よい。

 命を削り取る寸刻みの演奏。

 正確無比、かつ完璧に、紡ぎ出す音階、究極の集中力を要する運指。

 意識は、最もピアノの近くにありながら、心は遥か遠くをさ迷っている。

 さらなる高みを目指して、俺は挑戦を続ける。

 目眩を覚えそうなほど、どこまでも続く飛翔感と、気ままな浮遊感。

 それら、ありとあらゆる感情、感覚の赴くまま、弾き続ける刹那、

 カーーーーーン!

 誰が為に鐘は鳴る。

 ペチ

 音楽教室には、何の目的かは知らないが、某のど自慢で使われる鐘と同じ物が置いてある。

 条件反射のように演奏を中断。

 鐘を鳴らしたのは…リッツだ。

 ペチ

「…先生、これは何かの冗談か、あるいは俺の聞き間違いか、それとも本当に不満でもあるんでしょうか?」

 ペチ

 鐘一つってことは、気にいらねぇってことだろうがな!

 ペチ

 リッツが微苦笑しながら、

「天野君顔こわ~い」

 とか言う。

 ペチ

「顔の話なんか、してませんよ!」

 ペチ

「ていうか、さっきから誰だ! ペチペチ、ペチペチ! ウルサイな! 嫌がらせか!」

「ご、ごめんなさい!」

 麗…おまえかっ!!

「あぅ、あの、あ、天野君の演奏が、す、素晴らしかったので、し、自然と拍手が…その…ごめんなさぃ」

 そんなショボい拍手はいらねーよ!

「はい、じゃあ次の演奏は遥さんで決まりね!」

 リッツが渡りに舟、とばかりに、俺の怒りの矛先をかわすべく、麗を指名する。

 はるかが名字でうららが名前、どっちも名前みたいな珍妙な名前だ。

 麗が動揺したような裏返った声をあげる、

「ぇえっ、あ、あの、その、まだ、どんな曲にするのか、決めてなくて、あ、あたしより先に、ほかの人を先にしたほうが、いいのではないかと…」

 リッツが麗に質問、

「えー、なんか好きな曲とかないの?」

「ク、クラシック全般でしょうか」

「好きなアーティストとかは?」

「ク、クラシック全般のアーティスト…です」

「好きな映画は?」

「北野監督〈座頭市〉」

「しぶ…でも、音楽的にはピンとこないわね。好きな漫画とかは?」

「漫画はあまり…読みません…」

「好きなゲーム」

「しょ、将棋を少々…」

「これは…かなり…手強いかも」

 リッツが頭を抱える。

 リッツ自身が適当に選曲すればいいと思うのだが。

 リッツがしぶとく質問する。

 諦めの悪い教師だ。

「それじゃ、スリーサイズ?」

 もはや音楽とは全然関係ねぇっ! 

 セクハラだよ!

「…ひ、秘密です…」

 麗の当然の回答に俺も一言付け加える。

「先生、はっきり言って、プライバシーの侵害ですよ」

 セクハラ親父か!?

 諦めどこを知らないリッツがまたまた質問、

「好きな動物とかは?」

 動物と音楽って! 

 どんな関係が!?

「ね、猫が…好きです」

「猫?」

 思わず呟く俺。

 いや、猫じゃ、音楽とあまり繋がらないんじゃ、

「はい、じゃあ〈猫踏んじゃった〉に決定~」

 ちょっと待ってー! 

 猫好きなのに〈猫踏んじゃった〉は、ないだろう! 

 〈猫踏んじゃった〉! 

 は! 

 教室内に苦笑、失笑、あるいは嘲笑の、忍び笑いが漏れる。

 呆然と立ち尽くしているかに見えた麗が、

「あ、あの…それじゃあ、その曲を…弾きます」

「え? 冗談で言ったんだけど、本当に弾くの?」

「は、はい。弾かせてください」

 空気読め! 

 空気! 

 リッツは冗談だって言ってるだろうが! 

 俺の心の叫びも虚しく、空気読めない女が臆面もなくトコトコ、ピアノに近づく。

 俺は麗のために椅子を引く。

「どうぞ」

「ぁ、ありがとぅ…」

 消え入りそうな声と真っ赤な顔。

 どうやら屈辱的かつ絶望的な状況を、ようやく理解したらしい。

 今さらどうすることも出来ないが、自ら地雷を踏み自爆したのだ、〈猫踏んじゃった〉ならぬ〈地雷踏んじゃった!〉だな麗! 

 せいぜい、醜態をさらし、恥の上塗りをするがいい、ライバルが一人減るなら、俺的にはラッキーだ。

 秋のピアノコンクールの選考にも外れてしまえ! 

 まったく、空気読めないおろか、な…や…つ…?

 ピアノを前にした途端、麗の顔つきが変わる。

 羞恥心に赤く染まった頬から赤みが引き、ぎこちない仕草が嘘のように消え去る。

 今では、余裕すら感じられる表情に、柔和な微笑さえ浮かんでいる。

 まったく別人に豹変したかのようだ。

 考えてみれば、麗がピアノを弾くのを間近に見るのは初めてだ。

 俺が麗の変貌ぶりに驚いていると、リッツが手を振り、邪魔だからどけ、という仕草をする。

 仕方がない邪魔者は退散するとしよう。

 俺は自分の席に戻る。


   ☆☆☆


〈猫踏んじゃった〉は作者不詳にもかかわらず、世界中に愛好者が多い有名な曲だ。

 麗の演奏が始まり、軽やかな前奏が続く。

 恐らく即興だ。

 けど、こんな前奏は聞いたことがない。

 チャカポコした、奇妙な癒し系? 

 徐々にメイン・メロディが差し挟まれる、ものの…何だ? 

 これは? 

 何か…変だぞ? 

 麗が、あまりに軽快に弾いて、誰も気付かないが、それとも、気付いているのに…聞き流している? 

 でも、あきらかに…この曲って変じゃねぇ? 

〈猫踏んじゃった〉の〈じゃった〉の部分が大幅に変わってねぇ? 

 これ!?

 ノリのいい心癒される怪音に、うっかり誤魔化されそうになる、けど…これでは…、

 キンコン! カンコン! キンコン! カンコン! キンコン! カーーーン!!!

 って! 

 やかましいわ!

 俺の思考回路を破壊する、とびきりウルサイ! 

 鐘の音。

 リッツいい加減にしろ!

「本日初の鐘満点ちゃんに…本当のタイトルを聞いてみましょう!」

 えー! 

 〈猫踏んじゃった〉じゃないの? 

「遥さんズバリ! 曲名は?」

 麗が呆けたような顔付きをしている。

 だ・か・ら! 

 曲名は何だっつーの!?

「え、えっと…」

 ようやく口を開く麗、

「ズバリ曲名は?」

 リッツが詰め寄る。

 麗が慌てて、

「あの…猫ちゃんが踏まれるのは…なんか、可哀想なので……」

「なので!」

「その…〈猫踏んじゃいそうで上手くよけられた〉…ということで…」

 キンコン! カンコン! キンコン! カンコン! キンコン! カーーーン!!!

 だから、うるさいっつの! 

 てゆーか、何で俺の〈皇帝〉が鐘一つで? 

 麗の〈猫踏んじゃった〉モドキが満点なんだよ? 

 リッツ! 

 貴様耳が腐ったか!? 

 それとも腐女って奴か!? 

 もはやアレンジとは言いがたい、原曲を完全に逸脱した〈猫踏んじゃった〉モドキに、がなにゆえ満点!? 

 俺は今! 

 猛烈に納得いかねぇえええ!

 チ! 

 チチ! 

 チチチ!

「チョオオオ! ムカツク!」

『!!!………』

 一瞬の動揺と静寂。

 っぐっ、また、やっちまった。

 思わず口が滑って本音を叫んでしまった。

 音楽教室にひそひそ話と微かなざわめきが生じる。

 焦るな響、冷静になれ、突き刺さる痛い視線を無視しろ、まだ遅くはない、早鐘を打つ心臓、沸騰寸前の血液、ショート寸前の思考回路、全てをリセット、再起動しろ。お前なら出来る響! 

 とにかく今は全力でこの場を誤魔化せ! 

 俺は眉間に思いっきり皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべる。

 両手を腹に添え、腰を折った姿勢で弱々しく立ち上がり、いかにも腹痛といった様子でリッツに訴えかける。

「せ、先生、お昼に食べたカツ丼とメンチカツとトンカツとカツサンドの食べ過ぎで、胃が…チョオオオ! ムカツク! ので…ほ、保健室へ行きたいのです…が…」

 我ながら迫真の演技だ、これで上手く誤魔化せたはず。

 リッツが妙に棘を含んだ不機嫌な声で、

「あぁっ!? 今なんて言った!?」

 どうやらご機嫌斜めのようだ。

 麗が不安げに、

「先生、あ、天野君は、お腹が痛いそうで、は、早く保健室に連れていってあげないと…」

「うわ、遥ぁ~。気付いてないの、たぶん、お前だけだぞ」

「えっ? それは…どういう意味で…?」

「しょうがねぇなぁ…」

 何故かリッツが深く嘆息。

 気を取り直し、

「それじゃ遥さん。天野君に付き添って、一緒に保健室まで行ってきなさい」

 ぬぐ、リッツめ余計なことを、子供じゃあるまいし、

「先生、俺は一人で大丈夫です。一人で行けますよ」

「いーから二人で行ってこい。遥は曲弾き終わってんだから、ここにいても、やることねぇだろ」

 妙な威圧感。

 これ以上の問答しても無駄か、俺はリッツの言葉に従うことにした。

「では…授業中ですが、失礼します」


     ☆☆☆


 ようやく音楽室を脱け出した俺は、我ながら完璧な演技だと、自画自賛。

 恐らく、俺の失言を失言と疑う生徒は一人もいまい。

 しかし、この絡み付くような視線はいったい…っつ! 

 遥が疑いの眼で俺を見ていやがった! 

 俺は息つく間もなく芝居を続行。

 まさか…こいつ…俺の仮病に気付いたのか!? 

 俺は遥の視線を避けつつ、足早に歩き出す。

 俺の背後から遥が問いかけてきた。

「本当に…大丈夫でしょうか…心配です」

 きたあぁああっー!

 『本当に大丈夫 ?』

 だとぉ…くっ、やはり疑っているのか? 

 とにかく、麗の疑いを上手く誤魔化さねば!

「大丈夫だよ遥さん。教室を出て、外の空気を吸ったら少し楽になったから…その、気分的に…」

 駄目だ! 

 麗がまだ疑いの眼で俺を見ている。

 疑り深い奴め! 

 何とかして疑いの眼を逸らさねば、俺は麗に話しを振ってみた。

「遥さんは何でピアノを始めたの? 何か、きっかけとかがあったの?」

「あ、あたしですか!? き、きき、きっかけというほど、の、大それた話しではないのですが」

 よしっ! 

 麗の視線が宙をさ迷っている。

 さっきまで、人様の顔すら見ないで、うつ向いて俺の腹ばかり見ていたからな。

 ハラハラしたけど、これでちょっと安心。

「あたしのお母さんは、お、お琴の先生でして、当然のように、あたしも子供の頃から厳しくお琴の稽古を受けていました…それに、礼儀作法には滅法厳しく、お琴の他にもたくさんの習い事を掛け持ちしていたんです」

 急に暗くて重い家庭の事情を打ち明けられ混乱する俺…と、いうか、そのまま琴の道に進めよ! 

 琴の道に! 

 琴とピアノじゃ畑違いもいいとこだろーが! 

 他人の畑荒らしてんじゃねーよ!

「子供心にもストレスを感じたのか、次第にふさぎ込みがちになりました」

「親が厳しいと子供は苦労するよね」

「い、いえ! …は、はい!」

 否定か肯定かどっちだ!?

「あ、で、でも、ですね…あたしの場合は、お婆ちゃんがピアノを教えてくれたので…すぐ立ち直りました」

 立ち直りはええぇ! 

 しかも、話、はしょってねぇか!? 

 習い事があるうえ、ピアノが加わったら余計大変だろうが!?

「そ、そうなんだ。いいお婆ちゃんで良かったね。それに、遥さんはピアノとの相性が、よほど良かったんだね」

 我ながら棒読み、ブラス微苦笑。

「そ、それはもう、み、水を得た魚のように!」

 スーダラぶしが聞こえてきそうだな。

「とてもいいお婆ちゃんでした…けど、先月亡くなってしまって…」

 お経が聞こえてきそう…って、冗談だが、なんか、ますます話しが重くなってきたぞ!

「お婆ちゃんのおかげで聖常音楽学院にも入れたし、ピアノも弾けるようになった、けど…お婆ちゃんがいなくなると、すぐ、お母さんが秋のピアノ・コンクールで…優勝…しないと…」

「コンクールで優勝…して…何だって?」

「いえ! 何でもありません!」

(「いえ! 何でもありませーん!)って…何でも…あるだろう! 

 麗!

 貴様、やはり秋のピアノコンクールで優勝を狙っていやがったか! 

 油断も隙もない奴!

「あ、天野君のき、きっかけは何ですか? ピアノを始めた理由は?」

「え? 俺?」

「は、はい」

「天命だ!!!」

「えっ…!?」

「いや、ハ、ハ、えーと」

 どうする? 

 保健室までちょっとあるな。

 いいだろう、麗。

 幼児のストレス解消程度の理由とは…志しの高さも、格も、レベルも、そもそも、次元が違うということを教えてやろう…身の程を知れ!

「あるところに…若いが豊かな才能に満ち溢れ、将来を嘱望され、天賦の才を、いかんなく発揮する天才的作曲家がいた。だが、若者の生み出すメロディーは、あまりに先鋭的で革新的過ぎた。旧来の伝統的音楽家達には理解することすら叶わず。あまつさえ、彼らは旧態依然としたアカデミズムにしがみつき、若者を拒絶。高名な音楽家、著名な評論家の弾劾活動にも似た激しい酷評は、若者を音楽業界から去らざるを得ない状況にまで追い込んだ。音楽的には平均点を良し…とする、一般大衆にも受け入れられず、若者は静かにこの世を去ったという」

「…」

「だが…俺の魂の奥深くに、若者の残した奇跡の楽譜…天上のメロディーが、永遠に刻まれている。あの時の感動、衝撃、戦慄…そして、幸福。言葉では伝えきれない思い、それらは生涯色褪せることなく、俺の心を満たし、今もピアノに向かわせ続ける原動力となっている!」

 む、いかん。

 喋り過ぎた。

 熱くなり過ぎると、また失言しかねない。

 麗が尋ねる、

「その作曲家は…誰なのでしょうか?」

「モーツァルトですよ。アマデウス・モーツァルト」

「あ、モーツァルトですか! あたしもモーツァルトは大好きです! 天才的な才能があるのに、若くして亡くなってしまった悲運の人で…」

 …と…いうことに、しておこう…今は。

 俺の野望はな、麗…この腐りきった音楽業界を根底から叩き潰すことにある。

 完膚なきまでに叩き潰し、破壊したのち…失われた奇跡の楽譜、この世から消された天上のメロディーを…再び世界に取り戻すことだ! 

 その邪魔をする奴は…例え誰であろうと、容赦なく排除する!

「じゃあ、天野君も将来作曲とかをするんですか?」

「え?」

 いつの間にそんな話しに? 

 全然聞いてなかったし!

「そ、そうだね…ちょっと、勉強してみようかな…」

 …調子の狂う女だ。


   ☆☆☆


 保健室は目前だ、無駄口もここまで。

 俺は保健室の扉を開く。

 中には医療品の入った棚やらベッドがあって、部屋の奥には机と椅子と…だらしなく、いびきをかく、居眠り中の保健医、北尾きたお 武智たけちの姿が見える。

 北尾が眠気まなこでこちらを振り向き、室内に独特なしゃがれ声を響かせる、

「おっ! お客さん! 泊まりですか? 休憩ですか? うちは休憩二時間が! な、なんと! たったの二千円だよ! しかも学割サービスまでついちゃって、今ならタダ! やりたい放題だよ!」

「いつから保健室はラブホになったんですか? 北尾先生、居眠りを誤魔化そうとしたって駄目ですよ」

「バカ野郎、テメ、ガキが知ったような口を聞くんじゃない! 先生は少子高齢化を心配してだな、若者には大いに子作りに励んで貰おうと、って、余計なことを言わせるんじゃない!」

「…腹が痛いので、薬を飲んで少し休みたいのですが」

「あっさり流すんじゃない! 人の言うことを全く聞かない、そんな無鉄砲な若造にはこれ! バイアグラ!」

 白衣のポケットから薬を取り出す。

「あぅ、ぁの、あ、天野君、あわ、あたしは、こ、これで失礼します!」

 麗が顔を真っ赤にして、脱兎のごとく走り去った。

「可愛い子じゃねぇか色男、泣かすんじゃねぇぞ」

「いつ俺が泣かせたんですか? 泣かせてませんよ、泣かせるわけがない」

「逃げてんじゃねぇぞ、このヒヨッ子が、あの娘の顔を見りゃ一目瞭然だろうが?」

「一体何のことかまるでわかりませんね」

「食えねぇガキだな、ったく。けど、これだけは言っとくぜ、老婆心て奴だ、オヤジのタワゴトと思って聞き流してもかまわねぇ」

「…」

「男が〈夢〉に命をかけるようによ…女は〈恋〉に命をかけてるってことだよ」

「意味不明ですが…覚えておきますよ、北尾先生」

 北尾 武智、得体の知れない危険な男…要注意人事として、しっかり覚えておこう。


   ☆☆☆


 昼休みの合図に、ベルリオーズの〈幻想交響曲〉みたいな鐘の音が鳴る。

 なんでも十九世紀のヨーロッパの教会で実際に使われた鐘をわざわざ取り寄せたらしい。

 高価な鐘だが、金はあるとこにはあるものだ。

 鐘だけに…。

 俺はモサモサとメガ・イチゴあんかけ・コロッケパンを口にする…途端に〈失敗〉の二文字が目に浮かぶ。

 ゲロマズだった。

 こんな遊星からの物体x、店に置くなようぅ(涙)期間限定の広告に騙され、見事に衝動買い、思いっきり失敗した。

 教室の窓から中庭を見下ろすと、麗がいつものように友達とバレーを…あれ…いない? おかしいな? 

 麗の姿が見えないぞ。

 俺はウララ・アイを発動、校舎を隈無く捜してみるが…麗の姿が見あたらない。

 メガ・イチゴあんかけ・コロッケパンを頬一杯に詰め込み立ち上がる。

 麗の行き先などたかが知れている。

 おのれ麗…貴様の思い通りにはさせん! 

 にしても…メガ・イチゴあんかけ・コロッケパン恐るべし! 

 ゲロマズにも程があるよ! 

 飲み込めねぇよ! 

 不味くて飲み込めねぇよ! 

 吐いちまうか? 

 いや、それもちょっと大人げないな。

 男なら黙って飲み干せ俺!


   ☆☆☆


 音楽室の扉は案の定、鍵が掛かっていなかった。

 俺はそっと扉を開けて中に入る。

 ピアノの向こうに麗の姿が見える。

 何故か麗はピアノを弾こうとしない…まさか…イメージトレーニングか!? 

 そうはさせんぞ麗! 

 俺は麗に近づき、

「…さん。遥さん?」

「…ぇ、ぁ、天野、君? ぇっと、なんで?」

 貴様のイメトレの妨害だよ!

「たまたま通りがかったら、音楽室の扉が開いていてね、コンクールも近いし、ちょっと練習(!!!)でも、しようかな、なんて」

 声を荒げず、カッコ、ビックリマーク×3で〈練習〉を強調。

「そ、そうだよ、ね。ご、ごめんなさい。天野君、ど、どうぞ、練習してくださぅぅ…」

 くださぅぅ? 

 フラフラと立ち上がり、ヨロヨロと部屋を出ていこうとする麗。

 ちょっと待て、これじゃーまるで、俺が麗の練習を邪魔して追い出したみたいじゃないか…その通りなんだけど。

 けど、それならそれで、もうちょっとこう、何か口実を作らないと、駄目だよね。

「あ、ちょっと、いいかな? 遥さん」

「はい?」

 麗が立ち止まって振り返る。

 「な、なんで、しょう?」

 麗がこの場を立ち去るにあたり、正当、かつ、明確な理由を脳内検索、

「この時間って、遥さんはいつも友達とバレーをしてるよね。でも、今日は珍しく一人で練習してるんだ。コンクールが近いからかな?」

 麗の顔から血の気がサアッと引き青くなる。

「ぇ、え、と…そ、の…」

 明らかに動揺している。

 何かを恐れているような、恐怖に見開かれた瞳…って、まさか!

「ご、誤解しないでね、遥さん。別に、変な意味で聞いた訳じゃないから…その…」

「は、はい、わかってます」

 その顔は絶対わかってないな! 

 絶対! 

 俺のことをストーカーと勘違いしてるな! 

 そんな恐怖に満ち満ちた目だよ!

「あ、あのね…あ、天野君は…じょ、女子に、結構人気があってね…」

「…そう?」

 そう! 

 俺は別に麗につきまとってるわけじゃないんだ! 

 敵を知り己れを知れば百戦危うからずって昔から…あれ、今、人気がどうとか、言ってなかった? 

 よく聞かずに空返事しちゃったよ。

「ごめん、遥さん。少し余計な事を考えていて、よく聞いてなかった。人気がどうとか? 言ってたけど。その、何だっけ?」

「い、いえ。な、なんでも…い、今のは、あ、あたしの勝手な思い込みで…ま、まったくの妄想です」

 妄想かよ!

 人様の妄想をどうこう言う気はないが…俺だってイケナイ妄想に浸る時ってあるし…妄想は想像に、想像は創造に、繋がるんだよ! 

 たぶん。

「なんだ、ただの思い込みか、それなら気にすることもないかな」

 どうやらストーカー疑惑は晴れたらしい。

「本当は…」

「え?」

 ストーカー疑惑ケイゾク!?

「ほ、本当にみんなから言われた事は…き、昨日の、授業の事で、『遥、スゴーイ。満点だったじゃん』とか『秋のピアノコンクール出場決定だね』とか…」

 …俺に対する当て付けか? 

 俺は鐘一つだよ! 

 鐘一つで悪かったな!

「は、『遥は優等生だもんね。とか、病人をすぐ保健室に連れていったり』とか『そうそう、真面目な子はヤッパ違うよね』とか…」

「ああ、そうだ。昨日はありがとう、遥さん。おかげで助かったよ。ずいぶん迷惑をかけたね」

 うっすらと頬を赤く染める麗。

「ぃい、いぇ。めめ、滅相もございません。こここちらこそどういたしまして」

 …自慢か? 

 昨日の〈仮病〉救急搬送の件を、誉められて、自慢してるのか? 

 自慢じゃないが、俺は人様に誉められた事など…生まれてこのかた一度もない! 

 世の中、誉められて伸びる子と…ケナされて、それでも歯ぁ食いしばって努力して伸びる子の、二通りあるんだよ! 

 俺は後者だけどな!

「だ、だから、その、あ、あたしはもっと、れ、練習したほうが良いんじゃないか? と、という事で…あの、だから、一人…で、その、れ、練習を…」

 …上手い奴が、もっと練習したら、益々上手くなるだろうが! 

 そうはいかんぞ、麗。

 昼休みの練習を永久に潰す方法を考える。

 一番手っ取り早い方法は、元の鞘に納める事。

 つまり、友達と遊ばせる事だが、その為には、一芝居打つ必要がある。

「でも、一人で練習してたんじゃ飽きるよね。音楽室にはピアノが一台しかないから、一人で練習するしかないけど。一人で練習するのは、ちょっと寂しいよね。といっても、二人で練習したら、不協和音になって練習どころじゃないだろうけど」

 俺とお前じゃスゲェ不協和音を奏でそうだな!

 麗の顔が恐怖に歪む。

 ストーカー疑惑再浮上か? 

 俺はさりげなく話題を変える。

「たまには息抜きというか、気分転換というか、気晴らしも必要なんじゃないかな」

「そ、そうです、よね…」

 麗が必死に恐怖を押し隠し答える。

「俺もちょっと外の空気を吸いたいし、なんか、遥さんを追い出すような形になっちゃったから、購買で何か奢ってあげるよ」

「えっ? と、とんでもありません! です…」

「遠慮しなくて良いよ」

 爽やかな笑顔を浮かべる、音楽室をさっさと出て行く俺。

 その後を麗がトコトコついて来る。

 奢ってやるぞ、麗…メガ・イチゴあんかけ・コロッケパンをな!

 購買で俺は早速、メガ・イチゴあんかけ・コロッケパンを指差す、

「あれ、チョー美味しいって噂だよ」

 とか言って、手を伸ばすが、麗の手が先に伸び、パンを掴む。

「あの、じ、自分で買ってきます、から!」

 そう言い残し、レジへ向かう麗。

 購買を出て早速、

「一口食べてみたら?」

 俺は悪魔のような笑みを浮かべる。

「は、はい」

 素直に一口かじる。

 途端に…麗の顔色が紫色に変色。

 脂汗が珠のように浮かぶ。

 意識が朦朧としてるようだ。

「なんか、気分が悪そうだね、ちょっと外に出ようか?」

 麗を中庭まで誘導。

 すると、バレーで遊んでいた麗の友達が、こちらに気付き、なにあれ、なにあれ? 

 天野と遥じゃん? 

 何で二人が一緒なわけ? 

 どうする、どうする? 

 とか囁きだす。

「ちょっといいかな。音楽室の前を通ったら、遥さんが一人でピアノを練習しててさ、コンクールが近いし、練習したい気持ちもわかるけど、たまには息抜きも必要だと思うんだよね。遥さんを応援するのもいいけど、昼休みぐらい一緒に遊んでもいいんじゃないかな?」

 でもでも? 

 だってだって? 

 どうしようどうしよう? 

 …結論が出ない。

 俺は次の一手を指す。

「別に無理にってわけじゃないんだ。そんなに悩むことでもないし」

 でもでも? 

 だってだって? 

 どうしようどうしよう? 

 無限ループに突入、俺は朗らかに笑い、

「結論が出ないなら、それでもいいよ。遥さん、仕方がないから音楽室に戻って、二人で一緒にピアノの練習をしよう。一台しかないから、交代で使う事になるけど」

 元の鞘に収まらない場合、俺が練習に付き合い邪魔をする。

 ちょっとマッターーー! 

 遥、あたし達、友達だよね! 

 たまには息抜きも必要だよね! 

 だから、昼休みぐらい一緒に遊ぼう! 

 ト・モ・ダ・チ! 

 なんだから!

 鬼気迫る表情で麗に詰め寄るトモダチの皆さん。

 麗は元の鞘に丸く収まった。

「遥さん。もう、それは必要ないよね」

 麗の握ったパンを指差し、俺は手を差し出す。

「は、はい」

 パンを渡す絶妙のタイミングで麗の手に小銭を渡す。

「え?」

「奢るって言ったよね。それと、音楽室の鍵を」

「は、はい」

 鍵を受け取る。

「先生には俺から返しておくから、それじゃ」

 速やかに立ち去る。

 まんまと麗を出し抜いた。

 当分昼休みの練習は出来まい。


   ☆☆☆


 俺は音楽室へ向かう。

 鍵を閉める為ではなく、練習する為だ。

 部屋に入ると人の気配がする。

 窓際にリッツがいた。

 俺に気がつき、

「美しい翼を持つ小鳥は、翼を持たない仲間から、翼を取られ、飛べなくなる。その時、暖かい南風が吹き、再び大空へと舞い上がる小鳥…けれど、その風には…放射性廃棄物セシウム一万シーベルトが含まれていた!」

 俺のことを指差す。

「先生、俺には詩の才能はないんで、遠回しな言い方ではわかりませんよ」

「てへ」

 ペロリと舌先で上唇を舐める。

 某製菓会社の人形か? 

 そういう仕草が許されるのは十代の少女までだ! 

 四十四歳の女のする事ではない!

「可愛い仕草をしてもわかりませんから」

「遥が深刻な顔をしながら音楽室の鍵を借りにきたんだよ。心配だから様子を見に来たけど、肝心の遥の姿が見えねぇ、窓の外を見たら、お前と遥が、遥のダチと何かやってるじゃん。面白いからずっと見てたんだよ」

「先生が何だか、やさぐれてきた気がするのは、俺の気のせいでしょうか?」

「お前にどんな魂胆があるのか知らねぇし、遥にとってはプラスっぽい感じだから、何も言わないけどよ」

「別に、魂胆なんて何もありませんよ、先生。あまり深読みしないで下さい」

「天野、お前は偽善は悪と考えるか、それとも善と考えるか、どっちだ」

「急に話が変わりますね。でも、普通に考えたら、偽善という言葉に良いイメージはありませんよね」

「つまり偽善は悪か」

「はっきりとは答えかねますが、大概の人はそう思ってるんじゃないでしょうか」

「例えば、どこかで巨大地震が起きたとして、電話会社の金持ちが大金を寄付したら、金があるから出来る事、イメージアップの一環、単なる偽善。あるいは、どこかの指導者が同じ理由で寄付したら、国民を顧みないで偽善だ。と、思うか」

「…はっきり、そうは言いませんが、そう思う人は多いんじゃないですか」

「話がまた飛んで悪いが、お前は職業に貴賤はあると思うか」

 本当に飛ぶな!

「それは…無いと思います」

「建前はそうだな。天野は単に視野が狭いか、世間知らずのどっちかだが」

「先生の仰ることの意味がわかりません」

 話が変な方向に行くは、ケナされるは、何が言いたいのかサッパリわからん。

「職業に貴賤はある。それが現実だ」

「教師のお言葉とは思えませんね」

「親の遺産を受け継いだ、二代目、三代目の放蕩、豪遊三昧のドラ息子がいたとする。

 かたや、工事現場で汗まみれ、泥まみれ、古い建築ならアスベストまみれ、そんな中で働く労働者がいる。

 警備員なんかは、木枯らしが吹き荒ぶ中、一晩中鼻水垂らして赤色灯を振っている。

 そこに貴賤はないか? 

 国家公務員は小綺麗なオフィスで時間を潰し、夏のボーナス、冬のボーナス、加えて春と秋に一時金という名目で特別ボーナスまで出る。

 かたや、酒臭い酔っ払い相手に接客に追われ、ガラの悪い客に文句の一つも言えず、我慢する飲み屋の店員。

 清掃作業などは、ゴミの山を抱え、ゲロや糞尿で汚れたトイレを洗い流し懸命に掃除する。

 そこに貴賤はないか?

 歌も踊りもトークもろくに出来ない、ルックスだけが取り柄のタレントもどきが、大物プロデューサーや大物芸能人に取り入って人気を取る。

 かたや、場末の劇場で肌を晒し金を稼ぐ女、身を持ち崩して体を売る女がいる。

 そこに貴賤はないか?

 外国に良い顔をしたいが為に、兵隊を危険な紛争地帯へ飛ばす政治家がいる。

 無論、自分は安全な場所で命令をするだけだ。

 兵士は無数の手足や内臓がバラバラに飛び散る血溜まりの中、平和の為に敵を殺す。

 武器を握れば女子供でも民兵として殺す。

 自分自身がいつ殺されてもおかしくない状況で、国のために働き、給料は雀の涙だ。

 そこに貴賤はないか?

 いや、天地神明に誓って貴賤はある。

 貴賤がないと言い張るのは、世界を見ない。

 見ようとしない。

 あるいは、故意に隠蔽しようとする連中のたわ言だ。

 努力が足りない。

 とか言う奴もいる。

 お得意の根性論だ。

 が、世の中、努力や根性だけでは覆せない壁がある。

 知識と経験は努力で補える。

 けど、肝心の才能は? 

 人は誰しも得手不得手がある。

 誰しも自分の才能を発揮出来る場所にいるわけではない。

 生まれた国。

 受けた教育。

 育った環境。

 国の風俗、文化、様々な要因によって、壁は大きく変わってくる。

 人の力ではどうにもならない天の配剤。

 運命の下で足掻き苦しむ人々。

 そんな人々が、世の中には星の数ほど無数に存在する。

 見果てぬ夢を追い続け、見果てぬ幻を追い駆ける。

 そんな夢追い人達が。

 人は様々な方法で、生きる為に金を稼ぐ。

 例えどんな方法で金を稼ごうと、僅かな金であろうと、その金を、もしも例の巨大地震で苦しんでいる人々のために差し出すなら、それはもう、金持ちの余った金でも、国民を苦しめて得た金でも、大物に取り入って手に入れた金でも、快楽で得た金でも、特別ボーナスで得た金でも、血に汚れている金でも、何でもない。

 純粋に、困っている人々を救う為の、ただそれだけの、純粋で綺麗な金だ。

 その金は困っている人々の笑顔と幸福を取り戻す、かけがいのない金になる。

 ならば、例え偽善であろうと、あたしにとって偽善は善だ。

 それに、偽善すらない世界じゃ、なんか寂しいしな。

 一番困るのは、他人の批判ばかりして、自分は何一つしない、もっともらしい事ばかり言う、善人面した悪党だ」

「先生が何を仰りたいのか、俺にはサッパリ分かりません」

「ごめんねぇ~天野君。天野君はぁ~腹黒で下心も見え見えで~偽善者臭いけどぉ~やってる事は善って事だよ。てへ」

 ペロリと舌先で上唇を舐める。

 そういう仕草が許されるのは! 

 以下略。

「先生。自分では良い事を言ってるつもりなんでしょうけど」

「つもりだけど?」

「カップメン啜りながらじゃ、全然! 説得力無いですからね!」

「ズルッ! ズルルルッ! 実はね、天野君。先生、給料日前で、懐がとっても寂しいのよねぇ~」

 とか言いつつ、手の平を俺に差し出す…って! 

 まさか! 

 今までの話し…偽善やら貴賤やら賽銭やら寄付やら…やけに長々と説教してきたのは…すべて、この俺にタカる為の…前振り!?

「先生…俺も学生の身なんで、そんなに小遣いが多いってわけじゃないんです。それこそ、昼飯代を節約するぐらいで、はっきり言って全然余裕ないんです…けど、よろしければ、この…メガ・イチゴあんかけ・コロッケパン! をどうぞ!」

 俺がメガ・イチゴあんかけ・コロッケパンを渡そうとすると、

「いらねぇよ! そんなクソ不味そうなパン!」

 全力で拒否された。

「先生。好き嫌いはいけませんよ。そんなことを言わないで、ちゃんと食べないと…遥の食いかけですが」

「食うかっ!」

 ちっ…残念。


   ☆☆☆


   もったいないルージュ


   ☆☆☆


「ブハッ! クショーイッ! ズズズ…」

 大魔王を呼び出しかねない威勢のいいクシャミとともに、俺は鼻をすすった。

「天野君、風邪でもひいたんですか?」

 不思議ちゃん系天才ピアニスト、俺の天敵ライバル遥麗はるかうららが尋ねる。

「いや、ちょっと、体調を崩しただけで…ブハッ! クショーイッ! ズズズ…たいしたこと、ない…」

 秋のピアノ・コンクールも間近に迫るこの時期に、体調を崩すとは…考えられる理由はただ一つ。

 謎の病原菌にやられ、10日間も寝込んだ、とある教師の見舞いに行ったあの時に、風邪がうつったに違いない。

「天野、授業に差し障りがあるようなら、我慢しないで保健室に行きなさい」ちょうど次の授業を行うため、教室に入ってきたピアノ教師、岡月律子おかづきりつこマイ愛称リッツ、が告げる。今は猫をかぶっているが、真の姿は…超わがまま女教師だ。

「問題無いです…ズズ。授業を始めてください」

「そうだ、天野君。あたしのマスクを使いますか?」

 麗がマスクを差し出す。

 可愛い赤鶏グレートチキンのイラスト入りだ。

「朝、ちょっと使って、カバンに入れたままなので、比較的綺麗ですよ」

 麗もリッツほどではないが、同時期に体調を崩して、今でも朝晩の登下校時にマスクを付けている。

「悪い。助かるよ、遥さん…」

 俺がマスクを受け取ろうとすると、

「ちょっと待ちなさいよ!」

 伊地図火奈いちずかなクラスメイト。

 の手が伸びてマスクを奪う。

「このまま付けたら、かかか、間接、間接…」

 関節炎か? 

 若いのに大変だな。

「ききき、キス、キスに…」

 きすは関節炎に効くのか? 

 俺は一つ利口になった。

 「なるで…しょうーがっ!」

 生姜も効くのか! 

 伊地図は物知りだな~。

 ポンッ。

 俺の後ろの席に座る、相馬東威そうまとういクラスメイト。

 が俺の肩を叩く。

「モテモテだな~、天野。俺もあやかりたいもんだ」

「何のことか…さっぱりわからない、な…ズズ」

 相馬は時折、意味不明な言動と行動をする。

 リッツが仕切り直し、

「痴話喧嘩はそれぐらいにして、授業に入ります…と、言いたいところですが、その前に、皆さん! 今日、何か変わった事がある事に気付きませんか? すぐ、目の前に、変化がある! というのに…何で、誰も気付かないんでしょうか? 先生は悲しいです! なので…皆さんが、その変化に気付くまで…授業は行いません!」

 生徒全員が、また始まった。

 リッツの我儘が、と内心誰もが思うのだが、とにかく視線は『変化』とやらを捜し、右往左往する。

「岡月先生…今日は、口紅が流行のピンク色ですね」

「鋭い! 相馬! よくぞ気付いてくれた! ほめてつかわす!」

 普段、意味不明な相馬も、時折、鋭いことがある。

 成る程、口紅か。

「先生、流行のピンク色、スッゴイ似合ってます! あとでメーカーを教えてください!」

 すかさず伊地図が追従。

 クラスに一人はいるよな。

 こういう空気を読むのが上手い子が。

 このまま誉めればスムーズに授業に入れるぞ。

 ところが麗が、

「本当に全然、気付きませんでした。確かに…とても44歳には見えません!」

 ビシリッ!

 入ったよ! 

 今、ビシリッ! 

 って空気に亀裂が入る音が! 

 女性の年齢を人前で言っちゃ駄目だろ、麗! 

 気にする人だっているんだから!

「いや、でも、あれですよね。2、3歳は若く見えますよね」

 俺はフォローを入れる。

 が、逆にリッツににらまれる。

「火に油を注いだな」

 相馬が小声で言う。

「せめて、10歳は、と言うべきだろうな。同じ40代じゃフォローになってない」

 俺は小声で、

「ごもっとも」

 と答えた。 

 その日の授業はかなりの修羅場と化した。


   ☆☆☆


「でも素敵よね~、最新の流行色。誰か私にプレゼントしてくれないかしら?」

 言いながら伊地図が俺の方を見る。

 俺は伊地図に風邪がうつらないよう気をつけながら、少し席の離れた麗のほうを向き、

「40過ぎて若作りしても無駄だと思うけどな」

 俺の忌憚ない意見に麗が、

「それは…いくら天野君でも言い過ぎです。女子はいくつになっても女子なんです。40過ぎてもお洒落はしたいです。あたしもしたいです。誰かプレゼントしてくれないでしょうか?」

「ピアノの演奏で舞台にあがる時ならともかく…その時だって、高校生らしい薄化粧だから、それ以外で口紅とか化粧とかは、やっぱり駄目だろう。校則でも禁止されているし…ゲホ」

「だ、そうだ。天野先生的には」

 相馬が茶化す。

「どっちにしろ、遥さんに口紅は早すぎる…と思うな、ケホ」

 俺が率直に言うと、麗がダーと涙を流し、

「グス…それって、あたしが子供っぽいとか…お子ちゃまって、意味ですよね。グスン…違うんです! これは、涙じゃありません! 水です。目から塩水! なんでっ! すぅーーーっ!」

 とか言いながら、ダッシュで教室を去る。

 何だ? 

 目から塩水って?

「そうだ、俺…これから用事があるから、今日はもう帰るよ…ズズ」

 俺が教室を出ようとすると、

「子供っぽい、お子ちゃまを追うのか?」

 相馬が問う。

「お前が…一番酷い奴に見えるのは…これで何度目だろう? 違うよ。保健室に寄って、風邪薬を失敬するんだよ…ズズ」

「遥可哀想」

 伊地図が呟く。

 その言葉を無視して俺は教室を出た。


   ☆☆☆


 保健室には鍵がかかっていた。

 リッツが通りがかりに、

「北尾なら用事があるとか言って、放課後になった途端、全速力で帰ったぞ」

「くそ。風邪薬バブリョンを無料でもらえると思ったのに、フイになった…ゴホ」

「遥に介抱の名目でイチャつく機会も失われたな」

「遥さんは、さっきワケのわかんない事を言って、とっくに帰りましたよ」

「そうか、それじゃイチャつけないな」

「別に…イチャつく気はありませんよ…ズズ」

「遥可哀想」

 リッツの呟きを無視。

 俺は校外に出た。


   ☆☆☆


 JR埼京線、十条駅の踏切を東から西へと渡り、西口ロータリーに出る。

 商店街入口付近にドラッグストアがある。

 その店内を覗くと、麗が化粧品コーナーの前を行ったり来たりしている。

 口紅らしきものを手に取っては、しげしげと眺め、ため息をついて棚に戻す。

 そんな動作を5、6回繰返したところで、やがて、意を決したように、ガバッと試供品に手を伸ばす。

「高校生の化粧は校則で禁じられてるよ、遥さん」

 と、俺が横槍を入れる。

「ち、違うんです! これは…えっと、お母さんの、ぶん…です。誤解しないでください」

 手にした試供品を元に戻す。

 教室の話を思い出したのか、

「それに…あたしにルージュはもったいないです。どうせ似合いませんから」

 まだ根に持っているのか。

「化粧がしたいなら、秋のピアノ・コンクールに出場すればいい。もっとも、代表に選ばれれば…の、話だけど」

 俺はそう言い残し、風邪薬バブリョンを手に取ってレジへと向かった。


   ☆☆☆


「いらっしゃいませ~!」

 ニコやかな笑みと共に独特のしゃがれ声で俺を迎えたのは、聖常音楽学院・保険医、北尾武智きたおたけちだ。

「なんで…また、北尾先生が、こんな所で働いてるんですか?」

「見りゃわかるだろ。バイトだよバイト」

「そんなに生活に困ってるんですか?」

「いや、今んとこ生活はギリギリセーフって状況だ。が、もうすぐ巨大な支払いが発生する。それに備えて、今から蓄えを増やさないとな」

「何ですか? その支払いっていうのは?」

「国民年金の滞納分だよ。今の仕事につく前、俺は3年ぐらい国民年金を滞納したんだ。だから30万は払わなきゃいけない」

「どうしてまた、急に取り立てが始まったんです? 今までは、滞納しても大丈夫だったんでしょう」

「そりゃ役人が国民年金の運用に失敗したからだよ。健康センターといった箱物施設を作っては赤字経営を続け。結局、2束3文で民間に払い下げた。大損失だな。しかも役人は責任を取らないで、年金機構の名称を変えただけで同じ失敗を繰り返した。当然、運用資金が一気に減った。目減りした資金を回復させるために、役人が目を付けたのが、今まで放置していた国民年金滞納者から、滞納分を強制的に徴収する事だ。滞納分を払わない奴の財産は強制的に差し押さえるぞって脅してな」

「ひどい話しですね」

「だろう。国民年金に加入しているのは、アルバイトやパートタイマーといった、生活困窮者が多い。そんな弱者に対して、ムチ打つようなマネをするんだからな。超ハラがたつ! 俺に言わせりゃ、国民年金の運用に失敗した役人の全財産を先に没収しろ! と言いたい!」

「いや、それも、無茶な話ですけど…ところで、この特売品は全品100円って書いてありますが、本当ですか? 結構、高価な物もあるみたいですけど」

 俺はレジ横のワゴンに目をやった。

「オール、ワンコインだ。消費税が別に付くがな。今ならお買い得だぞ。消費税が50%になる前に買いダメを勧める」

「8パーじゃないんですか!」

「国の危機的財政状況からすると50パーもそう遠くない日にくる」

「なんだ。北尾先生の予想ですか」

「国の借金が1000兆円を超えている事実を知っているか?」

「国民一人あたり600万円ぐらいの借金があるって…たまにニュースでやっているアレですか」

「一人あたりって言うと、エライわかりずらいが…国の収入は年間40兆円程度。

 借金は25倍の1000兆円超。

 サラリーマンの収入で考えると、月収20万、ボーナス合わせて年収300万円のサラリーマンが、年収の25倍、つまり7500万円もの借金を抱えている事になる。

 これは、一生かかって返せるかどうかの、ギリギリの金額だ。

 ただし、国と個人では収入源に違いがある。

 国の収入は税金だ。

 となると、国が借金を返す一番手っ取り早い方法は、税金を増やす事。

 つまり、増税に傾くのは火を見るより明らかだ。

 つまり、消費税は打出の小槌として、これからも天井知らずに、どんどん上がっていく」

「それで50パーですか」

「人から金を奪う者は3種類いる。

 1つは、力ずくで奪う者。強盗だな。

 2つめは、知恵で奪う者。詐欺だ。

 3つめ…これは最もタチが悪い。金額も天文学的なケタ違いの数字になる。

 それが、

 法と権力で奪う者…だ。

 将来、選挙権を与えられたら、3つめに当たる人間かどうか、よく注意して投票するように…それと、絶対棄権だけはするなよ、棄権をすると…危険な未来になるぞ!」

「先生。すごい、いい事を言っていた気がするんですけど…最後の駄洒落で全部、台無しですよ!」

 俺はレジで支払いを済ませ、店を出た。


   ☆☆☆


 店の外に麗が待っていた。

「待っていたんじゃありません。外の商品を見ていただけです」

 まだ怒っているのか。

「特売品があったんで、いくつか買ったんだけど、よく考えたら、これは必要ないみたいだから…遥さんにあげるよ」

「え! プ、プレゼント…ですか? なんでしょう?」

「いや、そんな…大層なもんじゃないけど。リップ・スティック…をね、ルージュはまだ早いけど、これなら、いいんじゃないかと、思って…コホン」

 麗の顔が赤くなる。

「あ、ありがとうございます」

 麗がリップ・スティックを唇に塗った。

 黄昏時…金色の光が街角を照らすなか、麗の唇が、淡いピンク色に輝いた。


   ☆☆☆


   月光


   ☆☆☆


 教室黒板、左右の空きスペースは掲示板になっている。

 時間割、月の予定表、他にもプリントが色々と貼ってある。

 今朝も委員長・九里宮拓人くりみやたくとがプリントを貼っていた。

 それを目にして俺は、

「中間…テスト、だと。くっ、もうそんな時期か…」

 テストの日程を貼りながら、九里宮がコクコク頷く。

 九里宮は大人しい控えめな性格が災いして委員長に祭り上げられている。

 その割には文句も言わずに黙々と雑事をこなすので、女子の間では弟にしたい男子ナンバーワンだそうだ。

 にしても、

「秋のピアノ・コンクールが間近に迫るこの時期に、中間テストとは…」

 俺の脳裏に苦い記憶が蘇る。

 1学期の中間、期末、ともにボロボロだった。

 音楽以外は全滅。

 なかでも数学が最悪。

 赤点を取り、補習を3日も受けた。

 補習の内容は俺の記憶から一晩で消え去ったが、無為に過ごした虚しさだけは残った。

 俺は同じ過ちは繰り返さない。

 次のテストでは赤点を絶対クリアしてみせる。

 我に秘策有り!

「もう中間テストか、早いもんだな。んで、どうなんだ? 調子は? 前回、赤点取った天野としては?」

 と相馬東威そうまとうい

「忘れろ、前回のことは。無かったことにしろ。俺がいつまでも赤点を取ると思ったら大間違いだ」

 我に秘策有り!

「やけに自信満々だな」

 相馬の瞳がスッと細まる。

「カンニング…か?」

「グゥオッホ、ゴホゴホ。ひ、人聞きの悪いことを言うな! 俺が…ズルをするはずがないだろう!」

 図星だった。

 相馬東威。

 すべからく平均を維持する毒にも薬にもならない男。

 時折、鋭い洞察力を発揮する。

 今、発揮するな! 

 いいんだよ!

 バレなきゃ何をしても! 

 それに、世の中には酷い話はもっとある。

 例えば秘密保護法だ。

 ある日突然、

『あなたを秘密保護法違反で逮捕する』

『どんな秘密に違反したんですか?』

『それは秘密だ!』

 と言われて無実の罪でムショ送りにされる。

 カンニングなどカワイイものだ。

「いよいよ中間テストなんですね。でも、あれですよね、試験中って」

 遥麗はるかうららが、

「午前中で終わるから、なんか嬉しいですよね」

 嬉しくねーよ!

 いいな成績優秀な奴は! 

 相変わらず空気を読まない女、遥麗。苗字も名前みたいな不思議系天才ピアニスト。

 クラスでも頭一個ぶんぐらい浮いている(比喩)。

「全科目、平均点超えているのは遥さんだけだからね」

 俺が皮肉を込めて言うと、

「平均点が低かったからですよ! 運がよかったんです!」

「つまり…クラス全体の学力が低かったと…」

 特に俺とか?

「ところで天野、カンニングの件だがな」

 急に相馬が割り込む。

「カンニングゆーな!」

「別に天野がヤルとは言ってない。ただ、カンニングする奴も、それなりに学力が必要だぞ」

「どういうことだ?」

「現国や歴史の暗記物なら問題ない。でも、数学なんかは公式を当てはめて、さらに解かなきゃいけない。最低限の知識は必要だな」

「そ、そうだな。一般論として聞いておこう」

 盲点だった。

 俺には数学の最低限の知識すら無かった。

 早くも秘策が暗礁に乗り上げた。

 その時、思わぬ救いの手が差し伸べられた。

「そういえば天野君は前回、数学で………」

 妙に長い間だな

「放課後、苦手な科目を一緒に勉強しませんか? わからない所を教えあえば、一人で勉強するよりはかどると思います」

「そうだな。少しは勉強しないとな」

 敵に塩を送られるのはシャクにさわるが、この際、背に腹は変えられない。

「じゃあ俺らも参加するとしよう」

 なんて相馬が言い、九里宮も頷く。

「えっ!? お前らも来んの!?」

 来ても勉強の邪魔になるだけだろ!

「なんだ、いやなのか?」

 相馬がニヤニヤ笑う。

 なんかムカつく。

 すると麗が、

「人数が多いほうが、効率アップしますよね」

「しゃあねーな。俺の勉強の邪魔だけはすんなよ」

 ゥヘーイとかダルそうに言う相馬。

 終始コクコク頷く九里宮。

 く、麗と二人っきりで勉強のはずが…思わぬ展開になった。


   ☆☆☆


 放課後。

 図書室で始まった勉強会は、麗の教え方が上手いのか、今まで苦手だった数学が、ドンドン頭に入ってくる。

 いや、これは、麗だけの力じゃないな。

 俺はヤレば出来る子なんだよ。

 今までヤラなかっただけで、天は俺に二物を与えていたんだよ!

「ちょっと…いいかしら」

 伊地図火奈いちずかなクラスメート。

「私も勉強会に参加したいんだけど、駄目かな? なにしろ…誰も、一人も、勉強会があるって教えてくれないし、やっと噂を聞き付けて、ここまで来たけど、なんか…お邪魔ムシっぽい感じだし。嫌なら帰るけど」

 穏やかな中、毒を含んだ口調に全員固まる。

 麗以外は、

「大歓迎です伊地図ちゃん。一緒に勉強しましょう」

 俺は見た! 

 麗のアッケラカンとした反応に、伊地図が鬼火のような眼差し、こめかみに浮かぶ無数の血管! 

 で応えたことを! 

 それも数瞬、伊地図がぎこちない微笑みを浮かべ席に着くや、

「これ以上、差をつけられたくないからね」

 とボソリ、一言付け加える。

「そうだよな、そういえば…前回の伊地図の成績は、遥さんと僅差だったもんな」

 俺がこれ以上ない的確な返事をすると、まるで異星人でも見るような目付きで相馬が俺を見る。

 何だ? 

 その生ぬるいイヤな視線は?

「よいしょっと」

 伊地図がバッグを机の上に置き、ドサドサっと、問題集や参考書の山を広げる。

「これ全部、今日1日で終わらせましょう」

「え…だってこれ、ほとんど数学で、しかも難解極まりない感じで…ちょっと、伊地図…さん…?」何コレ? ナニかの罰ゲーム? もしやゴウモン?

「今日1日で終わらせましょう」

 伊地図がニッコリ笑う。

 有無を言わさぬ不屈の闘志を感じる。

 笑顔の圧力に俺たち…麗すら何も言えなかった。


   ☆☆☆


 勉強会が終わったのは夜の8時頃だ。

 これなら補習のほうがマシだったか、と後悔する。

 帰り道、自衛隊の広い補給基地に沿って歩くと、九里宮が声を上げる。

 そして夜空を指差した。

 見ると基地上空にポッカリと月が浮かんでいる。

 広大な割に建物の高さがないため、余計な遮蔽物なしに月が良く見える。

「綺麗ね~」

 と伊地図。

「本当に綺麗な満月ですね」

 と麗。

 女子二人がはしゃぐ。

「中秋の名月だな」

 相馬の言葉に九里宮が頷く。

「月を見るなんて、ずいぶん久し振りだ」

 受験だ、なんだ、と空を見上げる余裕などなかった。

 おぼろに雲がかかる黄金の月。

 かなり幻想的だ。

「機会があれば、校舎屋上でお月見がしたいわね」

 伊地図の意見に麗が賛成、

「お団子をたくさん用意しましょう。家庭家の教室で一杯作れますよ」

「月より団子だな、団子姫」

 相馬の不用意な発言に女子二人と九里宮がドン引き。

 夢のない奴だ。

「ま、なんにせよ、試験が終わってからだな。今は、見るだけで精一杯」

 しばらく月を眺めてから家路についた。


   ☆☆☆


 中間試験当日。

 普段より少し早めに家を出た俺は、校舎付近で偶然、麗に出くわした。

 試験の話題を振ろうとしたら、

「勉強会の帰りに見たお月様。とっても綺麗でしたね」

 麗が急にあの日の、満月の事を話しだす。

「今は欠けていても、いつか満ちる時を願う」

 何だそりゃ?

「誰の言葉か忘れましたが…意味は、欠陥だらけの人間でも、時が経てば、満月のように完全な人間になる…そうなって欲しい、という願いを込めた言葉だそうです」

 つまり何だ?

「今日のテスト頑張りましょう」

 言われなくても、

「頑張るけど。でも、心配しなくても、今日は大丈夫だと思うな…たぶん」

 自信ありげな俺の様子に、不思議そうな顔をする麗。

 我に秘策あり! だ。


   ☆☆☆


 数学のテスト用紙が配られた。

 あとは開始を待って裏返すだけ。

 俺は苦労して作ったカンニング・ペーパーを確認する。

 消しゴム・カバー内、筆箱の中ブタ裏側、それにシャーペン・グリップ内、書き込めるだけの公式や解法のヒントが書き綴ってある。

 これさえあれば、平均点ぐらいは余裕で超える。

 試験開始の合図とともに、テスト用紙を裏返そうとする。

 が………俺の脳裏に、あの日の、美しい黄金の月が浮かびあがる。

 そして、今朝の麗の言葉がリピートされた。

『今は欠けていても、いつか満ちる時を願う』

 俺は黄金の月と、麗の言葉を振り払うようにテスト用紙をめくった。


   ☆☆☆


 数学のテストが終わってトイレに向かう俺。

 そのあとを相馬がつけてきた。

「何だ? 何か用か?」

「俺もトイレ」

 相馬が並んで歩く。

 「ついでに言うと、何でカンニングをしなかった?」

「ズルをしないなら、それにこしたことはないだろう」

「俺が先公にチクると思ったか?」

 相馬の目が楽しげだ。

「あいにく、そんな野暮な真似をする気も、義理も、先公どもにはない」

 マジで毒にも薬にもならない男だ。

「付け焼き刃の勉強会程度じゃ結果は見えている…努力が報われるとは限らないぞ」

「月が…見えたんだよ…」

 それに麗の言葉が。

「ツキ? 運のことか?」

「そんなとこだ…それより、さっさと済ませないと、次のテストに遅れるぞ」

 俺はトイレを指差す。

「おー、そうだった。漏れる漏れるピー」 

 気分は悪いが、俺はトイレの扉を開けた。


   ☆☆☆


 テストの結果は芳しくなかった。

 それでも、数学は赤点を免れた。

 どうやら本当にツキがあったらしい。

 ちょっとは月が満ちた、ということか?


   ☆☆☆


   文化祭狂想曲


   ☆☆☆


 秋のピアノコンクールが間近に迫るなか、聖常音楽学院では例年通り文化祭が開催された。

 そして、俺のクラスはカレーの模擬店をやることになった。

 当初、女子の猛反発にあったが、アイドルABC26風の可愛い衣装を借りることで合意した。

 だけど、衣装代で予算が完全にオーバー。

 文化祭中の昼飯を模擬店のカレーで済まそうと考えた男子の思惑ははずれ、クラス全員が一般の客同様、金を払うことになる。


   ☆☆☆


 店番はクラス全員の交代制だ。

 俺と麗は午前中の店番がないため、一緒に文化祭をまわることになった。


   ☆☆☆


 遥麗はるかうららは不思議系天才女子ピアニスト。

 俺のライバルにして天敵だ。

 今日も麗が不思議力全開で文化祭を満喫する。

 模擬店のたこ焼屋から始まり、お好み焼き、焼きそば、モロコシ、ワタアメ、リンゴアメ、チョコバナナ、他多数、次々と食べ歩く。

 もう少し文化的な催しも見るべきじゃないか? 

 と思うのだが、勿論、食べ物が文化じゃないとは言わないが。

 この食べ歩きの始めの頃は、俺も麗と一緒に買い食いに付き合ったが、すぐに小遣いがピンチを迎えた。

 昼飯代ぐらいは残さないとヤバい、と気付いて途中から自制した。

 麗のほうはどうなのか聞くと、小遣いは万単位でもらっているから大丈夫。

 との返事だった…。

 小遣い格差もここまできたかっ!

 と、俺は心の中で叫んだ。


   ☆☆☆


 昼から店番を交代するのでクラスに戻る。

 と麗に告げると、お昼御飯はクラスのカレーにします。

 と言う…。

 どんだけ食うんだこの女はっっ!

 と、心の中で再び叫んだ。


   ☆☆☆


 麗がクラスに戻り模擬店の客席に座った。

 俺が注文を取りに行くと、麗は、

〈ゴージャス☆海老・牡蠣フライ・トンカツ・唐揚げ・ハンバーグ☆カレー〉

 お値段2980円というとんでもないカレーを注文した。

 誰だこんなんメニューに入れたのは? 

 学生の模擬店らしからぬ途方もないカレーだった。

 ところで、俺は麗の懐具合が少々気になっていた。

 散々飲み食いしてきたので、財布の中身が心配になったのだ。

 俺がそれを尋ねると麗が、財布の中身を確認して買い物をしたことはありません。

 と返答した…。

 どんだけセレブなんだお前はっっっ!

 と、心の中でみたび叫んだ。


   ☆☆☆


 とにかく、財布の中身を確認させたら百円券一枚しかなかった。

 麗が青ざめながら模擬店のメニューを確認する。

 ゴージャスカレーはおろか通常のカレーですら二百円はする。

 手持ちの百円では何一つ手が届かないことにようやく気付いたようである。

 仕方なく麗はメニューには無い、

〈水〉

 を注文した。

 水は無料だった。

 模擬店に麗がわびしく水をすする音が響いた。

 哀れだな。

 トランプの大富豪のように一気に負けて大貧民に転落してしまった。

 見るに見かねて声を掛けようとするクラスメイトもいるが、俺は心を鬼にしてそれを押し止めた。

 甘やかしてはいけない。

 世間の厳しさという物を教えてやらなければいけない。

 今がその時だ。

 それはきっと麗のためになる。

 無駄遣いも無尽蔵に続ければ、好景気も不景気に、大富豪も大貧民に、王子も乞食になるものだ。


   ☆☆☆


 麗が三杯目の水をすすり始めた頃に俺は救いの手を差し伸べた。

 麗の席のメニューにマジックでこう付け加えたのだ。

〈ゴハン~百円〉

 麗の表情がパッと輝く。

 早速、ゴハンを注文する。

 が、その顔に困惑気味な怪訝な表情が浮かぶ。

 それもそのはず、目の前にはゴハンだけじゃなく、

〈カレー〉

 が掛かっていたからだ。

 俺が説明する。

 サービスでゴハンには具の無いカレーの汁を掛けています。

 だからこれはカレーライスじゃなくて汁掛けゴハンです、と。

 少し苦しい説明かな? 

 と思ったが、麗はダーッと涙を流し、美味そうにカレーライス…もとい、汁掛けゴハンを食べ始めた。

 捨てる神あれば拾う神あり、人生は厳しいだけじゃない。

 と俺は思う。

 無駄遣いをすれば痛い目にあう。

 という事も十分に分かっただろうし、ここらが厳しさを終わらせる頃合いだ。

 というか…。

 最初から最後まで食ってばかりだな! 

 そんなんじゃ太っちょブタになっちゃうぞ!

 と、心の中で最後に叫んだ。

 俺の心の叫びが麗に届くかどうか疑問だが。


   ☆☆☆


   フィナーレは鮮やかに


   ☆☆☆


 秋のピアノ・コンクールが明日へと迫った昼休み。

 教室の片隅で俺は魂が抜けたように呆けていた。

 理由は明白。

 麗が代表に選ばれ、俺が補欠だから。

 決まった事は仕方ない。

 潔く諦めよう。

 でも、何かおかしくねぇ? 

 逆だよな。

 俺が代表で麗が補欠だよな、どう考えても。

 何で逆なわけ? 

 訳がわからん。

 納得いかねぇ~。

 メッチャ不満溜まる~。

 短い選考期間の間には、語り尽くせない程、いろんなエピソードがあったけど、秋なのに怪談やったり…本当にちゃんと選考したのか? 

 まさか麗の奴、俺に隠れてリッツと裏取引でもしたのか? 

 裏帳簿を探して決定的な証拠を掴み失脚を狙うか? 

 などと、下らない事を延々グダグダ考える。

 まったく潔くないな俺!

「痛っっっ!!!」

 中庭でか細い悲鳴があがる。

 窓から覗くと、背中を丸めた麗が、右手を抱え込んでいる。

 麗の周囲に人が集まり、その内の一人が、麗に付き添い歩き出す。

 先程の悲鳴は麗か?

 麗は何故、右手を抱えている?

 何が起きた?

 目まぐるしく疑問が浮かぶ。

 混乱するな、答えは一つ。

 麗が右手に怪我を負い、保健室に向かった。

 それだけだ!

 俺は瞬時に教室を飛び出した。

 保健室に入ると、北尾が麗の右手中指にグルグルと包帯を巻いている。

 職員室にも連絡が入ったのか、リッツも来ていた。

 北尾が麗に、

「単なる突き指なんだけどよ。ニ、三日は、様子を見ねぇといけねぇな」

 嗄れた声で囁く。

 俺は思わず声をあげる。

「北尾先生、それじゃ明日のコンクールはどうなるんですか?」

「どうもこうもねぇだろう。明日のコンクールは辞退するしかねぇな。この指じゃ、まともに弾けるわけがねぇからな」

 一緒に付き添ってきた女の子が、

 「そんな、突き指ぐらいで…」

 と、呻く。

「無理して変な癖が残っちまったらどうすんだよ。精密検査をやれとは言わねぇ。けど、ニ、三日は、様子を見ないと駄目だ」

 リッツが憤懣やるかたない様子で、

「遥、誰にやられた? 故意に強い球を当てられなきゃ、こんな怪我はしないだろう?」

「だ、誰も悪く、ありません。あ、あたしの不注意だったん、です。本当です」

「んなこと信じられるか! ワザとやらなきゃこんな怪我はしねぇ!」

 リッツが付き添ってきた女の子に詰め寄る。

「お前、誰がやったかわからないか?」

 女の子は押し黙ったままだ。

「本人が自分の不注意だってんだ、余計な犯人探しをしても、始まらねぇだろ」

「黙んな北尾。あんたの出る幕じゃないよ。あたしはこういう汚ないやり口が大っ嫌いなんだよ」

 俺が口を挟む、

「先生、落ち着いて下さい。済んだ事はどうにもなりません。それより、明日のコンクール代表をどうするか? 今は、それが大事なんじゃないですか?」

 リッツが物凄い形相で俺を睨みつける。

「天野…お前、その程度の男か…見損なったぞ」

 俺は硬質なガラス細工のように、努めて表情を崩さず、淡々とリッツに告げる。

「明日のコンクール代表は俺で決まりですね。他に補欠はいませんし、遥さんには悪い気もしますが、その変わり、俺が精一杯頑張りますよ。運が悪かったね、遥さ…」

 バシッ!

 俺の言葉はリッツの強烈な平手打ちによって遮られた。

 燃えるような瞳でリッツが俺を見据える。

「言いたい事は、それだけか? ああ? 天野? 他に言う事は…」

「やめてください! 先生! あ、明日は天野君が代表で、あ、あたしは明日のコンクールは辞退します! どのみち、この指じゃ、無理ですから、だから…」

 リッツの怒気が急速に萎む、

「良いんだな、遥。それで…天野、明日のコンクールはテメェが出ろ。無様な演奏は間違ってもすんじゃねぇぞ、その時は容赦しねぇからな」

「わかってますよ、先生」

 リッツが保健室を出る。

 頃合いを見計い、俺も保健室を出る、つもりが、

「あ、天野君、明日はよろしくお願いします。今日は、すみませんでした」

「遥さんが気にする事はないよ」

 俺的には願ってもないチャンス…、

 「明日は遥さんのぶんも頑張るから」

 …のはず。

「は、はい。応援します」

 哀しげな笑み。

 惑わされるな。

 同情は禁物。

 明日、最高の演奏をする事だけを考えろ。

 野望達成の為には情けは無用。

「それじゃ、失礼します」

「おっと、天野。一つ、聞きたいんだがよ」

「何ですか、北尾先生」

 俺が振り返る、

「おめぇ、泣いた赤鬼にでもなったつもりかい?」

「北尾先生の言葉ではありませんが、余計な犯人探しをしても始まりませんから。では、失礼します」

 北尾の嗄れ声が響く。

「下手な芝居打つんじゃねぇよ、クソガキ! その役は俺のハマリ役で! 俺の台詞だろうが!」

 罵声を背に俺は廊下に出る。

 後ろ手で扉を閉めた。


   ☆☆☆


 秋のピアノ・コンクール、当日。

 JR埼京線池袋駅、北口改札口を出た俺は、大通りへ向かって歩き出す。

 途中、洋服屋〈サ力ゼソ〉を横切る。

 新宿、渋谷、確か、大宮にも支店があって、タレントの石ちゃんをイメージ・キャラクターにしている有名な店だ。

 大通りを左に曲がり、分程歩くと、コンクール会場の〈護国聖常・芸術劇場〉が見えてくる。

 会場は学生でごった返していた。

 指定された席に座ると開会式が始まる。

 生徒代表の挨拶は〈護国聖常学院〉猿風 蘭花という女子だ。

 清楚な白のセーラー服。

 フレア・スカートは膝まで隠れ、腰まで伸びた髪はプラチナ・ブロンド、目許で真一文字に切り揃えている。

 子猫のような瞳。

 透き通るような白い肌は、外国人を思わせるが、血のように赤い瞳孔から、彼女が白子アルビノとわかる。

 明瞭、快活な挨拶から、容姿以外は普通の生徒にしか見えない。

 人は見かけで判断しちゃいけないね。

〈聖常音楽学院〉は〈護国聖常学院〉の姉妹校で、音楽教育専門学校として、独立した学校だ。

 本家は相当裕福な学校らしいが…おっと、ピアノ・コンクールの開幕だ。


   ☆☆☆


 秋のピアノ・コンクールも終わり、生徒は現地解散となる。

 俺も帰ろうとするが、予期したようにリッツが姿を見せる。

「いい結果だったな、天野。お前にしちゃ上出来だったよ」

 リッツが笑い、俺が不機嫌に、

「3位ギリギリの入賞では誉められたものではありませんが」

「優勝したら、また天野をヒッパタクとこだったけどな、ニヤリ」

 ナンデー!?

「いい加減、不気味な笑いはやめて下さい。俺を茶化す為に待ち伏せしてたわけじゃないんでしょう?」

「遥の事なんだけどよ」

 急にリッツの口調が変わる。

 深刻な顔付きだ。

「あいつ〈護国聖常学院〉に、転校することになったよ」

「なっ!? 何で、また…そんな急に?」

「あいつさあ、母親と約束したらしいんだよね。コンクールで優勝出来なかったら…ピアノを辞めて、琴に専念するって」

「別に…普通科に編入する事だって、可能なはずじゃ…」

「ピアノのピの字も思い出さない為に…完全に未練を断つ為に…転校しろって、言われたらしい」

「それを、遥さんが、その条件を飲んだんですか?」

 リッツが首肯する。

「今から学校に戻って手続きする予定だ」

 リッツは見た! 

 的、麗家、驚愕の家庭事情に頭が真っ白になる俺。

 動揺を押し隠すが、

「動揺してるな、天野」

 見破られた。

「べべべ…」

 一旦言葉を切る。

「別に…動揺とか、してませんよ。俺は、何で麗の事で、俺が…」

「天野…いくら言葉や態度で誤魔化そうとしても無駄だぞ」

「俺は何も誤魔化してません」

「なら、何で今日のコンクールで3位になった? 遥の事が気になったんじゃないのか?」

「ショ、ショパンの〈別れの曲〉は苦手なんですよ。同じショパンのエチュード(練習曲)なら〈革命〉のほうが断然得意で…」

「あたしに嘘をついても無駄だと言った」

「何を根拠に、嘘をついて、いると…」

「いいか、天野。生演奏って奴は、デジタル処理されたCDとは根本的に違う。それは、スピーカーから流れる単なる空気の振動ではない…ライブには、必ず演奏する者の魂が音に宿るものだ。下手な者でも、一生懸命演奏すれば、音に熱気が込もり、上手い者でも、いい加減に手を抜けば、しらけた冷めたい音になる。今日のお前の演奏はな天野。遥の事が心配で心配でたまらないって、音だ。あたしにはそう聞こえた。いくら言葉で嘘をつこうが、ふざけた態度で誤魔化そうが、あたしの耳を欺くことは出来ない。その理由はな…人が心を込めて奏でる〈本物の音〉は…決して嘘をつかないからだ」

「………」

「ぼさっとしてないで、さっさと行って来い」

「え…?」

「遥だよ。遥のとこへ行って来いって、言ってんだよ。今、行かなきゃ、お前、一生後悔するぞ」

 気がつくと俺は、リッツに背を向け、歩き出した。

「行って来ます」

「おう、行って来い、Good Luck!」

 途中でリッツを振り返り、軽く会釈をした。

 リッツの口元が、一瞬綻んだ気がしたのは気のせいか。


   ☆☆☆


 池袋メトロポリタンビルを、JR埼京線のホームから見上げ、俺は考えを整理する。

 そもそも、なぜ俺が麗に会わなければならないのか?

 麗は俺とは別種の、ワケがわからない天才だ。

 よく言えば天然、か。

 ゆえに、今までライバル視してきた。

 蹴落とす機会を狙ってきた。

 今回、麗家、驚愕の家庭事情が勃発したわけだが、この事件、はっきりいって、俺にとっては千載一遇のチャンス…と、いえないだろうか? 

 大宮行きの下り電車がホームに近づく。

 扉が開き、閉まる。

 く、乗り込んでしまった。

 野望達成の為には、麗など放っておけば良いものを、麗が消えれば、俺は易々とトップの地位に立てる。

 現に、秋のピアノ・コンクールも出場を果たし、3位入賞を決めたではないか? 

 十条駅が近づく。

 踏切の音が車内に響く。扉が開き、閉まった。しまった、降りてしまった。

 東口の改札口を抜け、自衛隊の補給基地に沿って歩く。

 俺は思考の堂々巡りを延々と繰り返す。

 そう、俺にとって良い事だらけの、麗事件。

 でも、なぜかスッキリしない。

 なぜかモヤモヤする。

 何でだ? 

 リッツは、俺が麗の事を心配している、的な事を言っていた。

 ならモヤモヤは単なる心配か? 

 そうだとすれば、その程度の事で、俺は野望の障害を取り除けない、ということか…俺は自分の不甲斐なさに腹が立ってきた。

 やはり、引き返すべきか? 

 と考えるが、すでに〈聖常音楽学院〉の敷地内だ。

 迷想した為、いつの間にか自衛隊に隣接する公園を抜け、学院に入ったらしい。

 よくある事だ。


   ☆☆☆


 なぜか、麗が校舎の端をトコトコ歩いている。

 すぐに角を曲がり姿が見えなくなる。

「ちっ」

 俺は舌打ちした。

 ここまで来たら、あとには引けない。

 俺は校舎裏へ走った。

「麗の奴! まさか、もう転校の手続きが終わったのか?」

 毒づきながら校舎裏へ着く。

「?」

 麗の姿が見えない。

 ふと、校舎を見上げると、麗が二階の廊下を歩いている。

「二階か!」

 俺は校舎に入り、階段を駆け上がる。

「…って? いない?」

 二階の廊下にも麗の姿が無い。

 中庭に面した廊下の窓を覗くと、

「いた! 今度は三階か!」

 麗が向かいの校舎三階をフラフラと歩いている。

 俺は渡り廊下を抜け、向かいの校舎三階へ駆け上がる。

 が、またもいない。

〈聖常音楽学院〉は四階建てだ。

 このまま麗が向かうとしたら、

「四階か!」

 俺はさらに上の階へ上がる。

 ようやく、四階廊下、突き当たりをモタモタ歩く麗を発見。

 非常口から非常階段へ出る麗。

「何だ? 麗の奴、屋上に上がるつもりか? でも何で?」

 疑念を無視、俺も屋上へ向かう。


   ☆☆☆


「あたし、今日で最後なんです…この学校…」

 麗が微笑む。

 ぎごちない笑み。

「転校して明日からは〈護国聖常学院〉の生徒になります。ピアノとも、お別れです」

 麗本人から言われ、俺は殴られたような衝撃と目眩に襲われる。

 リッツから聞いていたのに、このザマだ。

 俺は動揺を押し隠しながら、

「転校の手続きは終わったんですか? 遥さん?」

 尋ねると、麗が首を横に振り、

「最後に…ゆっくり校内を見てからに、しようかな…と思って、屋上から見る景色は、特に好きな景色なので…」

 燃えるような夕陽を背に受け、茜色に染まる麗、視線を俺に移すと、

「手続きは…まだ終わってません」

「そうか…」

 ホッ。

 胸を撫で下ろす俺。

 おもむろに麗に近づくと、その腕を握り締め、麗を引きずるように歩き出す。

「ぅえっ!? あのっ、天野君!? なっ、何を!?」

「遥さんが転校する事になった理由は先生から聞いて全部知っている」

「転校は取り止めだ、遥さん。これから、君の母親を説得しに行く。君がピアノを続けられるように、この学校にいられるように」

「む、無理です。うちの母は、そんな、甘い人じゃないんです。それに、母とは以前から約束していて…」

「子供が不幸になる約束を、強制するような、そんな親の言う事は聞けないな。それは、約束じゃなくて…拘束だよ、遥さん」

 俺は有無を言わさず、麗を引っ張る。


   ☆☆☆


 俺は気付いてしまった。

 麗には…俺の踏み台になってもらう! 

 という事に。

 野望達成の為には、策を弄するのも仕方がない。

 ショウビズの世界で生き残る為には、嫌でも手を染めねばならない、必要悪。

 生き馬の目を射抜く、芸術・芸能の世界において、単に素直なだけでは、生き抜く事は難しい。

 が、麗相手に策を弄しても無駄。

 と、俺は悟った。

 麗程度のワケわからん天然系不思議ちゃん型天才など、この程度の天才など、俺自信の実力をもって凌駕、排除せねば意味が無い。

 その程度の事が出来なければ、この先いくら策を弄しても、有名・無名を問わず、星の数ほど存在する天才ビアニスト達に、太刀打ちする事など出来ない。

 当然、野望達成もおぼつかない。

 要は基礎体力…ピアノだから基礎技能の問題になる。

 麗には実力で勝つ! 

 棚からボタ餅的勝利など無用! 

 麗には俺の試金石となってもらい! 

 かつ、俺の踏み台になってもらう! 

 麗の屍を乗り越え、俺はまた野望へと一歩近づくのだ!


   ☆☆☆


 麗と勢いよく学校を飛び出したものの、よく考えてみたら、麗の母親の居所を聞いてなかった。

「遥さんのお母さんは今どこにいるの?」

「えっと、この時間だと…大宮のデパートで、お琴教室の生徒さん相手に、お稽古をしている時間だと思います」

「大宮か。それなら、埼京線で三十分もかからないな…よし、行こう! 遥さん!」

「ぇ、と…は…はぃ」

 なんか声が小さい気がするが、気にせず十条駅の改札口を通過。

 反対側の下りホームへと向かう。

 運よく電車が来て、俺と麗が車内に乗り込む。

 時間的にラッシュ前で、比較的空いていた。

 浮間舟渡駅を過ぎた辺りからは、さらに乗客が降りてガラガラの貸し切り状態になる。

 俺と麗は車内に入ってから一言も交わさず、お通夜のように押し黙ったままだった。

 俺は考えていた。

 どうやって麗の母親を説得するか? 

 はっきり言って、何も考えずに、衝動だけでここまで来てしまった。

 無計画この上ない、超・危機的状況。

 が、まだ大丈夫。

 まだ大宮駅まで充分な時間がある。

 考えろ俺! 

 なんとか、上手い説得方法を! 

 とか思っていると、いつのまにか北与野駅に着いてしまった。

 あと一駅、五分足らずで大宮駅に着いてしまう。

 マイッタナ~。

 全然、良い考えが浮かばないよ! 

 俺がさりげなくパニックに陥っていると、突然! 

 埼京線が急停車! 

 考え事に没頭していた俺は、不意の重力変化に逆らえず、慣性の法則に従い、麗に覆い被さるように倒れ込む。

 お互い完全に体が密着し、主に上半身。

 胸の辺りに柔らかな感触が…唇は触れ合う寸前! 

 とっさにシートに手をつき、接触は無かったが、危ない危ない…に・しても…顔ちかっ!

「ご、ごめんなさい、遥さん。考え事をしていて、倒れ込んだ」

「ぃ、ぃえ、だ、大丈夫です」

 麗が吐息のような声を漏らす、俺は体を離そうとするが、その瞬間! 

 俺の脳裏に電撃的閃きが走り抜ける! 

 この方法なら…麗の母親を説得出来る…かもしれない!

「麗、これから俺が何をしようと、俺を疑わないで、俺を信じて、ついてきてほしい」

 俺は麗に語りだす。

「それは、麗にとっては、物凄い恥ずかしい事かもしれない」

 麗の同意がなければ、

「もう、これ以上無理っていう程、窮屈な思いをするかもしれない」

 この作戦は実行出来ない。

「…だけど、その方法以外に麗を解放する方法が思いつかない」

 なにしろ、麗と一心同体になるも同然なのだ。

「…俺を信じてくれるか? 麗?」

 麗が瞳を閉じて小さく頷く。

 よし! 

 あとは麗の母親を説得するだけだ!

「ん? 麗、もう大宮駅だよ。早く降りないと、車掌さんが見回りに来るよ」

 麗がまだシートに倒れ込んで、瞳を閉じている。

 大宮駅で終点だから、早く降りないと見回りの車掌にどやされる。

 俺と麗の乗る手前の車両では、すでに酔っ払いが強制退去を命じられていた。

 降車した俺と麗が駅のホームを二人並んで歩く。

「ぁ、あの…」

 麗が顔を真っ赤にして囁く。

「なに? 遥さん?」

「か、構いません、ので…その、今後も…名前で、う、麗と呼び捨てで、構いません…から…」

「…そう…」

 だっけ?

「じゃあ、そう、呼ぶね…えと、う、麗…」

 …電撃的閃きに舞い上がって…うっかり、麗のことを名前で呼んでいた。

 あくまで、うっかり…取り返しがつかね~。

「これから、麗の母親を説得しに行くわけで…遥さん、だと、母親も遥…だし、紛らわしいよね、ハ、ハ、間違えない為には、う、麗のほうがいいよね」

「そう、ですよね…あの、こ、混乱しない、為、ですよね…」

 物凄い恥ずかしいし、これ以上ない程、窮屈だな!


   ☆☆☆


 大宮駅を出てデパートに到着。

 教室のある階は、習い事にいそしむ、年寄り、主婦、子供達で賑わっていた。

 華道、茶道、習字、油絵、水彩、音楽、料理、多岐に渡る教室の一角に、琴の教室も見える。

 受付の女性に声をかけた。

「遥先生にお会いしたいのですが」

 琴の教室に男子高校生。

 場違いな客に対して、

「お約束はございますか? どういったご用件でしすか?」

 紋切り型に切り返され、麗が割り込む、

「あの、お母さんに、進路の件で相談したい事があって…その、彼は付き添いの…友達です」

 麗に気付き、態度を軟化、

「ああ、麗ちゃんのお友達ですね、わかりました。進路の件で、遥先生に連絡するので、お待ちください」

 女性が内線連絡。

「遥先生は事務所でお待ちです。そちらまでどうぞ」

 麗が俺を案内する。


   ☆☆☆


 事務所は教室の一角を間仕切りした三畳ほどの小さな部屋で、和服の婦人が待ち構えていた。

 麗の顔を見るなり、

「進路については散々話してきたでしょう、麗。今さら何です? 私との約束を忘れたとは言わせませんよ。コンクールで優勝しなかったら、ピアノを辞める。そう、あなたが言ったんですからね、今になってピアノを続けたいなんて、そんな、子供みたいな我が儘は通りませんよ。約束通り、明日からは別の高校に通ってもらいます」

 とんでもねー、鬼婆だった!

「…はい」

 はいじゃねーだろ! 

 麗!

「頭ごなしに転校と決めつけるのは、麗の意思を無視しすぎだと思いますが、遥先生」

 麗から聞いた母親のフルネームは、遥 はる、春が鬼のような形相で俺を睨みつける。

「麗の男友達ですか?」

 値踏みするように、爪先から頭のてっぺんまでジロジロと眺めまわし、

「部外者が人様の家庭の事情に口を挟むものではありませんよ」

「おっしゃる通り。ですが、それも時と場合によります」

 ここで退くわけにはいかない。

「今は、あえて口を挟ませてもらいます」

 家庭の事情など知ったことか! 

「麗の将来がかかっていますので」

「麗の将来なら決まっています。今後は琴の稽古に専念し、いずれは私のあとをついでもらう。それだけです」

「それで麗が幸せになるんですか?」

「あなたと幸福論を論じる気はありません。話が済んだのなら、お引き取り願いましょうか」

 まだ閉め出されるわけにはいかない。

「麗との約束の件ですが、麗は怪我をしてコンクールに出場出来なかったわけで、優勝出来なかったのは麗のせいではありません。それでは、麗の実力もわからないじゃ…」

「ほほ…あなたのようなチャラチャラした男と付き合って、その上突き指をしたから出場出来なかったと? 

 それで、麗は優勝出来なかったと? 

 同じ言い訳をするなら、もう少しマシな言い訳をしなさい。

 それは理由になりません。

 自業自得です。

 軽はずみな行動がもたらした、当然の報いです。

 遊び気分、趣味程度の気持ち、それが招いた当然の結果です。

 そもそも、この子に意思などありません。

 誰かに言われて、誰かに薦められて、初めて始める子なんです。

 ピアノも母から薦められて初めて始めたんですから。

 麗、遊びでピアノを続けたいのなら、転校してから楽しみの一つとして趣味で弾きなさい。

 そうでないと、真剣に将来ピアニストを目指している生徒さんに対して失礼です。

 それに、麗のピアノの実力だって、たかが知れてます。

 麗程度のピアニストなら、この世には掃いて棄てる程ひしめいてますよ」

 その言葉を待っていた。

「麗の実力について仰っいましたが、遥先生は本当に麗のピアノをお聞きになったことがおありですか?」

「それは、一緒に生活していれば、嫌でも耳に入ります」

「練習ですよね。それは、本番じゃない。練習と本番では、気持ちの入り方が違います。俺の知っている、誰かが言っていました。音は嘘をつかない、と。麗は素直だから、遥先生の言う事なら、なし崩し的に従ってしまうでしょう。でも、それは、麗の本心ではありません。麗の本心は、麗の演奏の中にあります。麗の本当の気持ち、本当の実力、本当の才能…練習ではない、本番の、本気の演奏を聴いてみて、それから麗の実力を判断すべきです」

「そう言われても、麗は怪我をしてピアノを弾けないんですから、残念だけど、今日は無理そうね。また、いつか出直して来なさい」

 そうはいくかってんだ、この鬼婆!

「いいえ、今日、これから、今すぐ聴いて貰いますよ、遥先生」

 春が訝しげな表情で俺を見る。

「何を言ってるんです? あなたは? ワケのわからない事を? 麗は手を怪我して…」

「俺が麗の右手になります」

 鬼婆が目をパチクリさせる。

「何を言って? あなた…それじゃあ、麗が弾いた事にはなりませんよ。そもそも…二人一組で弾けるわけが…」

 俺はこれ以上ない程の爽やかな笑みを浮かべ、

「出来るか、出来ないかは、やってみなければわかりませんよ。遥先生」

 鬼が笑う。

「ふふ…いいでしょう、やってみなさい。その、二人一組の演奏とやらを、まともに弾けたなら、それだけで前言を撤回してもいいでしょう」

 そんな事は不可能だ…と、言いたげな顔付き。

 だが、鬼婆は、一つ見落としている事がある…それは…俺が天才、という事だ。

 天才は不可能を可能にする。

 例え、それが、どんなに馬鹿げた、狂気じみた事であろうと。

 それを可能にする。

 それ以前に、俺は、

「心配しなくても、ちゃんと弾きますよ。麗の弾きかたも、曲の調子も、癖も、全部、知ってますから」

 そう。俺はずっと麗を見てきたのだから、

「ごたくは結構。実際に演奏を聴けば、すぐにわかる事です。せいぜい、思い付きのアイデアだと、ボロが出ないよう頑張りなさい」

 うぐ。

 思い付きという事は見抜かれたか。


   ☆☆☆


 演奏はピアノ教室のピアノを借りて行うことになった。

 電子ピアノが並ぶ中、グランドピアノが一台、教室の端に置いてある。

 俺と麗が鍵盤の前に並んで座り、軽く弾き、調子を確かめる。

 しっかり調律されている。

 悪くない音だ。

 欲を言えば、鍵盤をタッチする感覚に、上質紙一枚ほどの抵抗が欲しいところだが、この際、贅沢は言えない。

 気が付いたら、麗がちょっと離れていた。

「…麗、いつの間にか椅子が離れてるけど、もうちょっと近づけないと、弾きずらいよ」

 麗が頷き椅子を寄せる。

「それと、体も、もっと、くっつけないと」

 言いながら麗の肩に手をかけ、引き寄せる。

「凄い窮屈だし、とても恥ずかしいだろうけど。今、俺の右手は君の右手で、君の左手は俺の左手だ。恥ずかしがってる場合じゃないよ。一心同体にならないと」

 麗が瞳を見開き、

「電車で言っていた事は、この事だったんですね!?」

「え!? 他にどんな意味が!?」

「いえっ! 何でもありません!!」

 声が裏返っている。

 その上、茹でダコみたいに顔が真っ赤だ。

「大丈夫か麗?」

「は、はい、だ、大丈夫です。心配、いりません、です」

 やはり声が裏返っている。

 不安倍増だ。

 が、この状況では致し方ないのか。

 とにかく、やってみるしかない。


   ☆☆☆


 春の提案で、ピアノ教室の生徒や、その親、一般の客も含めて、聴衆になってもらう事になった。

 かなりの人数だ。

 俺と麗は、迷いを振り切り演奏開始。

「秋のピアノ・コンクール課題曲。ショパン、〈別れの曲〉」

〈別れの曲〉は、ピアノ史上、最も美しい旋律、と讃えられるほどの名曲だ。

 哀愁を帯びた、ゆっくりとしたメロディーから、徐々に情熱的な展開をみせ、最後に再び哀愁を漂わせて終わる、のだが、この哀愁を表現する、というのが俺は苦手だ。

 俺に詩的な才能はない。

 感性とか、センスとか、そんな事を問われても困る。

 情熱的に弾く。

 これならわかる。

 要は勢いだ。

 俺的にはそう解釈している。

 なので、この曲に関しては、麗の感性を信じることにする。

 ピアノを前にして、ようやく麗の表情も引き締まってきた。

 麗のしっとりと、落ち着いた弾き方に、俺も合わせる。

 戸惑いはある。

 が、今は麗を信じるしかない。

 不思議な感覚だ。

 ぎごちなく始めた、二人一組の演奏が、麗と一緒だと、まるで、呼吸でもするかのように自然な演奏になる。

〈別れの曲〉というタイトルにもかかわらず、俺にとっては、麗との〈出会いの曲〉に感じられる。

 後半、曲の盛り上がりに従い、情熱的な、勢いのある演奏になる俺。

 しかし、今度は逆に、麗が俺に合わせてくれた。

 麗…意外とイイ奴だな! 

 というか、一人で弾く時とは違う、妙な高揚感があって…なんか楽しいぞ! 

 音楽って、音を楽しむって書いて、音楽なんだねっ! 

 演奏を終えると教室全体が割れんばかりの拍手に包まれ、いつまでも鳴り止まなかった。


   ☆☆☆


「アンコールをリクエストします」

 熱気に水を差すかのように、春の冷たい声が響く。

「それでは、約束と違うんじゃないですか?」

「嫌とは言わせません。コンクールの課題曲なら弾けて当然。私のリクエストに答え、弾く事が出来てこそ、その時こそ、私も潔く負けを認め、前言を撤回しましょう」

「選択の余地は無さそうですね。リクエストされる曲は何ですか?」

「リストの〈ラ・カンパネラ〉をお願いします」

 ふざっけんな! 

 このクソババー!! 

 どこの世界に、そんな、超難曲を二人一組で弾ける奴がいるっていうん…、

「やろう! 響…君。今のあたし達なら…きっと出来る。それに、あたしは…この曲を弾かなきゃ…いけない」

 麗が弾くとか言い出すし。

 しかも、俺を名前で呼ぶし。

 それはともかく、先程の演奏の余韻が続いているのか、妙な高揚感が残っているのか、とにかく、麗がヤル気を出すのも珍しい。

 が、これは無茶苦茶だ。

 一時の勢いでどうにかなる、というレベルを遥かに超えている。

 俺の理性が止めろ、と、叫ぶ。

 火災警報のベルみたいに、止めろ止めろ、と、けたたましく鳴り響く。

 理性ではわかっている。

 止めた方が良いと…だが、理性に逆らい、心が叫ぶ…トライしろ…と。

 俺は瞳を閉じて、しばし黙考。

 一つ、大きな深呼吸を吐いてから、心を決める。

「麗…〈ラ・カンパネラ〉の楽譜は?」

「頭に入っています」

「そうか、俺も一通り暗譜している」

 一度だって、まともに弾けた事などないが、

「やってみるか。出来る出来ない…は、別として、どのみち…弾かなきゃ、遥先生が納得しそうにない」

「弾けるよ、絶対…弾いてみせる」

 麗から、高揚感とは別の、決意のような感情が窺える。

「わかった。やってみよう」

 麗と二、三、打合せをし、〈ラ・カンパネラ〉を開始。


   ☆☆☆


〈ラ・カンパネラ〉はバイオリンの鬼、パガニーニに、リストが影響されて作曲した、超絶技巧ピアノ練習曲の一つであり、プロのピアニストですら、CD録音などの際、一発録りを避ける(2、3、テイク録ってから、良い部分を繋げる)。

 あるいは、ライブ演奏なども極力敬遠する、超難曲だ。

 この曲を弾きこなす事が出来るピアニストは、少なくとも、俺の知る限りでは、ピアノに最も愛され、奇跡のピアニスト、とまで呼ばれた、フジコ・ヘミングだけだ。

 もしくは、世界で五本の指で数えられるほどの超有名ピアニスト、という事になる。


   ☆☆☆


〈ラ・カンパネラ〉の独特な旋律が室内に響く。

 打楽器のように、打ち突けるがごとき奏法。

 誰もが一度は耳にした事のあるフレーズ。

 軽やかに弾いているかに見えて、実は、奏者に究極のリズム感、超高速の運指、高度な技術が要求される。

 寄せては返す、波のように、目まぐるしく変化する音階。

 意表を突く音の数々。

 それらを、違和感無く、素早く、滑らかに、…って、無理。

 ゆ、指が、今にもツリそうだ。

 ミスだって、一度や二度じゃない。

 俺も麗も、はっきり言って、ボロボロの演奏だ。

 ってのに…麗の指は、手は、決して止まらない。

 むしろ、熱意は増す一方だ。

 麗の気迫に押され、俺も死力を振り絞る。

 考える前に、指先が、手が、鍵盤を駆け抜ける。

 二人とも限界寸前、と思われる…その直前…に…それは起きた。

 歌が聞こえる、

 透明な、

 張りのある、

 優美で、

 繊細な、

 歌、

 室内一杯に、

 拡がる、

 ソプラノ、

 あきらかに声楽で訓練を積んだ、素人にあらざる歌声。

 一度も聞いた事が無い、その歌は…しかし、まるで、リスト本人が作曲したかのように、〈ラ・カンパネラ〉の曲とピタリ…と、一致した。

 歌い手は……………、

 春だった。

 だが、寄る年波には勝てないのか、初めは美しい春の歌声も、徐々に途切れ、掠れがちになる。

 不揃いな三人の〈ラ・カンパネラ〉…だが、熱意だけは、恐らく、世界中の誰にも負けてはいない…はず。

 恐らく、麗はこの事を予期していたのだろう。

〈ラ・カンパネラ〉に合わせて、春が歌い出す事を…春の過去に何があったのか…俺は知らない。

 麗も知らないと思う。

 春は…過去に歌手を夢見ていたのかもしれない。

 それとも、もっと違う夢を見ていたのか。

 どのような夢か、今となっては知る術も無い。

 そして、その夢が、いつ、どこで、どんな理由で、破れたのか、夢を捨てた理由は何か、それも俺は知らない。

 けど、これだけはわかる。

 春の本当の願い、真に追い求めた夢…それは、春の歌声の中に、その音の中にこそ、隠されているような気がする。


   ☆完☆


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