読書と言う大衆娯楽
以前娯楽において大衆は白痴化してると書いたけど思いなおしてる。なんというか大衆娯楽を知れば知るほどその本質は太古から何も変わってない。何度も書くが大衆は馬鹿だとかそういう話がしたいわけじゃない。娯楽と言うのはそもそも息抜きなので低俗であるべきなんだ。何度も書いたが遺伝的に人間と言う種が変化し無い限り娯楽は人間の底辺部分に合致すべきなんだ。
それが娯楽だと言えると思う。遺伝的変化は底辺を底上げするだけでやっぱり標準状態よりは低い状態でなければ大衆娯楽は成り立たないと思う。そうなると遺伝的に大きな変化をしてないホモサピエンスの大衆娯楽がより低俗になるわけがない。
じゃ今起きてる現象は何か?読書と言う低俗じゃない娯楽以外のものが増えたから。その程度の事じゃないのか?と思う。物語を楽しむと言う娯楽に特化させてもらうけど、その楽しみ方の選択肢で本を読む事が大きな比重を占めていた。このシェアの低下が物語を楽しむ事において大衆娯楽が低俗になってきたと感じるだけじゃないのか?と思う。
水準を無理矢理上げていたのがほぼ読書と言う娯楽だったと私は見ている。
いやいやそうじゃないでしょ?さてそこで重要になるのが創作史になる。私は全く見方が逆なのだが、どうしてこうも違うのか?で大半の人間漫画アニメを平均的な意味で知らないんだ。まどマギを見てアニメを語るなって怒ってる人が居て、クソアニメみろと怒っていたのだが、なるほどと思わせる部分もある。
大半はお前も苦しめって意味なんだけど…。後はそれでもアニメ愛があるならオタクだと言いたいんだと思う。だがそういう部分じゃない、私が見てるのは平均を見る事で分かるのはアニメ漫画の根底の部分になる。なろうでもそうだが上位ほど例外的な作品になりやすい。大衆娯楽はむしろ平均値にその本質が宿ると思う。
人気作は良作になりやすい。それゆえ人気作だけを見てる人間はその本質を掴めない。芸術ならこれが違う。高いレベルをむしろ数多く見るベキなんだ。だがこれでは大衆娯楽の根本的な低俗さを理解できない。
漫画アニメにおいても白痴化してる部分は、私はむしろそれはアニメ漫画から小説的な物語刺激が洗練されたんだと見てるんだ。より頭を使わなくなる。これこそがアニメ漫画の理想の姿なんだ。アニメ漫画は成熟したから成長が鈍化してつまらなくなったのであって、レベルが落ちてつまらなくなったのではない。実写もそれに似てると思う。
考えれば考えるほど、結局大衆娯楽の水準を上げていたのは本を読むと言う読書だけだったのじゃないか?と言う結論にたどり着く。大衆娯楽から読書のシェアが落ちたら勝手に大衆娯楽の受け手は馬鹿になったと見てしまうというわけだ。
大衆娯楽の物語の水準を上げるには多分読書をするのが一番だと思う。だがそれはなろう読者に語るのは難しい面があると思う。それが当たり前の人達だからだ。だがそれが当たり前じゃない人達にはありえないことだろう。何故なら大衆娯楽の媒体としては本は劣ったものだからだ。
学習でもない限り大衆娯楽にとって読書は劣ったものだと私は見ている。劣ったものをわざわざ選択する馬鹿は居ない。だから読書は衰退する運命にあるのだ。読書が衰退すれば全体の水準が落ちるから受け手は馬鹿になったと見えてしまうというからくりだ。劣ったものを排除した結果が劣った受け手になったと見られてしまうんだ。
考え方を変えたのは、私は一貫してわざと大衆は娯楽を楽しむ時アホになってると書いてきたからだ。だがそれまでは、娯楽に関しては劣化したのかもしれないと私も思っていた。ただこれは日本人だけなんだ。そこに妙な気持ちをズット抱いていた。良くある日本人優秀論の右翼的発想に行くのは気持ちが悪い。
戦後に較べてどうみても国民が世界の中で劣化してると見えるから。実際上手くこれを調査するのは難しいので止めた方が良い。ただ安易に大衆娯楽と日本国民の知的水準を比例させて良いのか?となると、多分駄目だと思う。大衆娯楽は意図的な堕落であって、より受け手を堕落させたほうが良いものだと私は思ってる。
昔の日本人が大衆娯楽の異常な時代だったわけじゃなくて、単に娯楽が少なかったため読書の比重が高くなっていただけじゃないか?と見れば、堕落こそがよきことである大衆娯楽は低俗を求める傾向は変わって無いと私は見た。当時先進国のアメリカでは男は読書習慣をほとんど持たないそれは当然今も変わらない。
読書だけが日本人とアメリカ人を分けてるもので、そこを取り除いてしまえば大衆娯楽はやっぱり一貫して変わってない。過去の日本人が良い意味で異常だったのか?でそれは違うと見てる。様々な娯楽が発達して本のシェアが低下しているとあまり日本だけが特異な大衆娯楽の国では無いと分かる。
そこから読書が少ない刺激的な大衆娯楽としてシェアを占めていたが、他の魅力的な刺激が生まれたら自然と合ってない大衆娯楽として淘汰されたというだけじゃないか?と見ている。わざわざ劣っていたものを選んでいた日本人は単に他に適当な大衆娯楽が無かったからに過ぎないと見ている。
大衆娯楽の受け手が白痴化したわけじゃない、無理矢理水準を上げていた劣化大衆娯楽である読書を優秀なほかの大衆娯楽の進化で大衆が選択しなくなっただけだと見ている。