夏が来ない
「知抄が居てくれてよかった」
と若葉は微笑んだが、助けられているのはいつも私の方だ。
十一月の下旬。分厚い鉛色した雲の下。河川敷に吹く風は冷たく、吐き出す息は白かった。せせらぎは風の音を飲み込んで、初冬の寒さを助長している。
東北はすぐに寒くなるからイヤ。季節の間なんて存在しない宮城県。
だから私は夏が一番好きだった。外に出るのが億劫じゃなく、遠くに行くのにちょうどいい温度だから。
高架下に転がっていた錆びた一斗缶を持ち上げて、中に河原に生えていた枯れ草を、がらんどうを埋めるように敷き詰める。
「ごめんね、知抄」
「ううん。いいよ。手伝わせて」
私たちはこれから火遊びをする。嫌な思い出を忘れるには燃やしてしまうのが一番だがら。
若葉は手に持っていたお菓子のスチール缶の蓋を開け、中からいくつもの手紙を取り出した。
枯れ草の上にそっと敷く。
「ほんとにいいの?」
恐る恐る尋ねると彼女は小さく首肯した。
若葉が私たちの学校に転校してきたのは小学五年生の夏だった。彼女が一斗缶に置いた手紙は、かつての同級生との文通の歴史でもある。私も知らない過去の若葉だ。
転校前、仲良かった男子生徒とのラブレター。そう言って茶化すと、決まって彼女は「そういうのじゃないもん」と頬を膨らませた。
森崎若葉が転校してきたあの夏をいまでもたまに思い出す。
黒板前に凛として立つ彼女の姿。
ワンピースから溢れる彼女の手には、松葉杖が握られていた。
はじめはみんなビックリした。なんでも交通事故の後遺症で足が自由に動かなくなったらしい。歩くには歩けるが、長い距離や走ったりすることは出来ず、杖を手放すことは出来ない。
学校は彼女のために廊下に手すりをつけたりとバリアフリー化を一気に進めた。
前々から検討されてはいたらしいけど、森崎若葉はいいきっかけだったのだ。だけど、子供たちにはそんなの伝わらない。
一人だけの特別待遇に、白けた目線を向けられていたのは確かだろう。
もっとも小学五年生ともなれば、表だってナニかを言うやつはいないし、触らぬ神に祟りなしという風に、若葉が腫れ物扱いされるのに時間はかからなかった。
そもそも彼女に文句を言うのはお門違いだ。
それに、誰だって彼女に対して厳しい言葉を吐くのは最低な奴ってことはわかっていたから。
二学期が終わる頃には、誰も若葉に話しかけることはなく、遠巻きに見られる存在になっていた。
若葉はそれでも強かった。
他人に関わることをしなければ傷つくこともない。そんなのは当たり前だけど、彼女は当時いじめられていた私を助けてくれたのだ。
私がいじめられるようになったのは、ピンクの髪留めが原因だった。
お母さんに買って貰ったそれを学校につけていくと、クラスのリーダー格の源さんも同じものをつけていて、「被るからヤメて」と言われた。
取り繕って、笑って、すぐにはずして、ポケットにいれた。
だけど、毎朝お母さんが余りにもニコニコと嬉しそうに私の髪をセットしてくれるので結局言い出すことが出来ず、玄関を出て数歩進んでから、髪留めを外すのが毎日の日課になっていた。
忠告を受けて数週間経ったある日、授業参観があった。この日ばかりは髪留めを外すわけにはいかない。もう何日も過ぎたし、大丈夫だよね、と不安を感じながら髪留めをつけて登校すると、源さんも同じものをつけていた。
きっかけなんてそんなもんだ。
授業参観が終わって保護者がいなくなった教室で、源さんは端正に整った顔を憎しみに歪めて私に詰め寄った。
「なんなんだよ、おまえ」
ひたすら誤り倒したけど、ダメだった。私という存在を敵と見なした源さんは、自分のグループの女子にそれを伝え、いつしか五年三組の女子全員に伝染された。無視されるようになるまで本当に早かった。
若葉が転校してくる一ヶ月前の出来事だ。
学校は本当につまらない。胃がキリキリ傷んだけど、「今日も一日楽しかった」と親に嘘をつき続けた。
これは忠告を無視した罪。
割りきってシカトの対象になっていたけど、事情を知らない転校生の森崎若葉は仲間外れが許せなかったらしい。
一人輪から外されている生徒がいると気付いた彼女は、私によく声をかけてくれた。「前の学校と範囲が違うから教えて」とか「移動教室までの道中手伝って」とか。
端からみたら、足が不自由なことで浮いてしまった若葉を私が助けているように写ったかもしれないが、実際は逆だ。
一人でも話ができるクラスメートがいると『ハブく』行為の効果も薄くなる。源さんは若葉を呼び出して、シカトに協力するように言ったらしいが、それを若葉は断った。
席が近いことを理由にあげ、私の協力がないとまともに学校生活を送れないから、と毅然と言い放ったらしい。彼女と仲良くなった今は、それが嘘だとはっきりわかる。そりゃ、杖がないと移動能力は著しく低下するが、ゼロになるわけじゃない。なにより彼女は一人で生きていけるぐらい強い人間だった。
結局私を『ハブ』にさせない体のいい言い訳が自分だったのだろう。
協力者でないなら敵、と若葉が判断されるのに時間はかからなかった。
「アタシたちの金で優遇されてる」と誰かが言っているのを私は教室の隅で聞いた。
浅い秋の夕暮れだった。
私のせいで彼女まで陰口の対象になってしまったのだと思うと悲しくて仕方なかった。
だけど、若葉は常に私を頼ってくれ、いつも二人一緒に行動した。
若葉だけが私を見てくれた。
小学六年生の林間学校サマーキャンプの時に、余りにも綺麗な星空眺めていたら、いつになく切ない気持ちになって、私は若葉に感謝の気持ちを打ち明けるとともに、 自分の秘めていた気持ちを漏らしてしまった。
そういう思いは言葉にすべきでない。当たり前のことだ。わかっていても、溢れる言の葉を止めることが出来なかった。その時の私は今よりもっと子供で、夏が来ないことを嘆くぐらいに詩人だったのだ。
すべてを聞き届けた彼女は、
「私ね。昔虐待されてたの」
と無表情に教えてくれた。
ギャクタイ。
漢字が思い浮かばなかった。
静かな夜なのに、集中力が散漫になっている。
「愛されたことないから、愛しかたもわからないの」
微笑んで頭を下げられる。
あのとき見上げた夜空は星がたくさん輝いていて、静まり返った世界は私たちの息遣いだけを浮き彫りにしていた。
ようやく『虐待』の漢字を思い出した私は、震えながら彼女の右足を指差した。
「もしかして、足も……?」
「ううん。これは違う。ママが逮捕された時、死のうと思って車道に飛び出したの」
若葉は膝小僧をそっと撫でてから、浅くため息をついた。
「でも、死ななかった。代わりに罰が残った」
悲しそうに呟いて、下唇を彼女は噛んだ。
私はなにも言えずに彼女じっと見つめた。深い夜の色をしていた。若葉は薄く微笑んでから、
「それでこっちのおばさんに面倒見てもらうことになったんだ」
と付け足すように言い加えた。
「それでね、おばさんが色々と手続きしてくれて、最期に私を助けてくれた男の子の家にお礼に行ったの。住民票を取りに行くついでにね」
助けてくれた男の子……かつての虐待から若葉を助けた、ということだろうか。気になったが、聞けなかった。
人には踏み込んではいけない領域というのが確かに存在する。
「おばさんはその子に住所を教えて、私宛に手紙が来た」
聞きたくなかった。彼女は優しいから。私を傷つけないように言葉を選んでいる。
「はじめは返事なんて出すつもりなかった。転校前に私は彼を散々傷付けたから。だけど……」
若葉は真っ直ぐに私を見つめた。
「知抄と出会って、私はもう一度前を向こうと決めたから、思いきって返事を書いたの。私は元気でやってますって」
ああ、そうか。若葉が強いのはその男の子がいたからなんだ。と思ったよりすんなりと私は納得した。
「そしたらね。なにをそんなに悩んでいたんだろってぐらいあっさりね。私たちは仲直りして、それからずっと手紙でやり取りしてるんだ。一週間に一度ぐらいだけど、やり取りはずっと続いてる」
嬉しそうに話す彼女は世界中の誰よりも可愛かった。
結局、彼女は私の『思い』を正面から断ることはなく、自分語りをすることで、やんわりと諦めさせてくれたのだ。
だから、お互いが気まずくならないように、私も道化を演じなければならない。
「なんだかドラマみたい」
アホみたいな感想に彼女は自嘲ぎみに笑った。バレないように涙をこらえる私はさぞや不細工だったことだろう。
「そんな綺麗なものじゃないよ。私は見栄はりで嘘つきだから。足のことも内緒にしてるし、学校じゃ明るく元気に友達がたくさんいるって設定になってるの」
本来の彼女ならそうなる可能性は十分に持ち合わせていた。足のことを差し引いても彼女は人気者になれるぐらいの素養があったのだ。
それを打ち消したのは私だ。私のせいで彼女は燻っている。
「知抄がいてくれるから、べつに現状に不満はないけど、少しだけ見栄がはりたかったの。一つに嘘をつくと連鎖的に嘘をつかなきゃいけなくなって、結局嘘に塗り固められた人間になっちゃった」
涙の無い泣き顔を浮かべて彼女はそう言った。
流れ星が走ったような気がした。
林間学校でお互いの気持ちを打ち明けあって、私たちはより一層仲良くなった。
いつも一緒にいる私たちをクラスメートたちは揶揄したが、他人からどう思われようがどうでもよかった。私はともかく、若葉が私に対して抱いているのは友情だけで、それ以上の感情は無かったから。それは近くにいる私が一番よくわかった。
だけど子供時代の別れは必ず訪れる。
小学校を卒業するとき、私は人目を憚らず大粒の涙を溢した。ボロボロの煤けた校舎が惜しくなったからではない、若葉と別れるのが辛かったからだ。願わくば彼女と同じ中学に進みたかった。だけどそれは、かなわなかった。彼女の保護者は普通の子供と同じように暮らしてほしいと私たちの学校に転入させたが、結果だけみれば、若葉はクラスに馴染むことができなかった。だから中学は特別支援学校に通うことにしたらしい。私のせいだ。私が彼女の足を引っ張らなければ、彼女はクラスに溶け込むことができて、人並みの青春を歩むことが出来たのに。
憂鬱だけが存在した校門前で若葉と撮った写真は今でも私の宝物だ。
中学に上がっても若葉とはちょくちょく会っていたが、誰でもそうなるように、結局一年も経つ頃にはお互いの学校生活が忙しくなって段々と疎遠になっていった。
若葉は校外の音楽クラブでギターを始めたらしい。演奏聞かせてとねだっているが、彼女が腕前を披露してくれたことは一度もない。
私はというと、陸上部に入り、毎日トラックを走り回っている。
競技場のベンチで汗をぬぐっているとき、鞄に乱雑にいれていた携帯電話がメール着信で光っているのを見つけたのは一昨日の事。
SNSが発達した時代にわざわざキャリアメールを送ってくる友人は、自分用のスマホを持たない若葉ぐらいなものだった。
メールの内容は河川敷に来てほしい、ということと、手紙の処分を手伝ってほしい、ということ、
そして、彼女の母が刑期を終えて、出てくるということが書かれていた。
マッチを擦って一斗缶に放り込むと、すぐに枯れ草に燃え移って、パチパチと音をたて始めた。紙とインクが燃える臭いがして、オレンジ色の炎が上がり始める。
冷たい空気が私たちの周りだけ暖かくなる。
「なんで手紙燃やしたの?」
若葉は過去と決別したかったのだろうか。私にはわからない。
「……途絶えたから……」
若葉は絞り出すように、瞳に炎を写して呟いた。熱気に景色が歪んで見えた。
「返事が来なくなったの?」
と尋ねると小さく頭を振った。
「ううん、私が出さなかったの」
燃えていく手紙。『森崎若葉様へ』と宛先が綴られた便箋の一つに、別の宛先が混じっているのを見つけたが、すぐに火がつき、灰になってしまった。見間違えかもしれない。でもそれはたぶん、出せなかった手紙だ。
「なんで?」
唇を震わせながら尋ねる。期待しているのだろうか? 自分で自分の心奥がわからない。
「会おうって。今度、こっちに来るから、久しぶりに遊ぼうって、誘われたの」
「……」
「会ったら嘘がばれる。それに……」
彼女はポロリと涙を流して、自身の顔についた傷跡をそっと撫でた。
「きっと、私のことを嫌いになるから」
右のこめかみから、左の顎下にかけて、交通事故の時の生々しい傷跡が斜めに走っていた。
傷があっても若葉は美人だ。ちゃんと話をして、彼女の芯を知っている人間ならば、その程度のことを深く気にするはずがない。
だけど、私はそう言って彼女を励ますことができなかった。
私は卑怯者だ。
分初冬の空に出せなかった手紙の煙が昇っていく。
煤の臭いが北風にかき消され、思い出はすべて真っ黒な灰に生まれ変わった。
「冬が始まるね」
東北はすぐに寒くなる。
早く夏が来ればいいのに、なんて、冬が来てもいないのに願った。




