衰滅期のインド仏教はタントラ教と合体したセックスヨガ仏教になって、やがて11世紀に滅亡した。原始仏教からタントラ仏教へ 極私的仏教考察
インドにおける仏教の大まかな歴史を見てみると、
インドでの仏教は前5世紀にゴータマシッダルータが開教して、起こり、
2世紀ころには大乗仏教という大宗教改革運動がおこり
さらには6世紀ころには密教化が進行してそれは
やがてインド伝来の性力シャクティ教と合体して
セックスヨガ仏教と堕落してしまい、大きい流れとしてはインド教に取り込まれて吸収されて消滅してしまった。
こうしてもはやシャカ仏教とは全く異次元の遠いところまで逝ってしまったインド仏教は
11世紀には、もはや仏教とはいいがたい状態になってしまったのだ、
最終的には、、、
12世紀にはイスラム教徒のインド侵略により最終的に仏教寺院や僧侶が抹殺されて
滅亡させられている、
滅亡後の仏教とは
ヒンドゥー教におけるヴィシュヌのアヴァターラ「ひとつの化身」として、釈迦が、かろうじて位置づけられている。
こうしてインド本国では仏教は12世紀に滅亡したが
チベット、中国、インドシナ、朝鮮、日本には伝播してそれらの国では今でも仏教は存続しており、なおかつ栄えてさえいるのである。もちろん伝播した国ではその国ならではの現地化?が図られていることは言うまでもない。中国では道教と合体して禅宗として中国化が図られたし
たとえば日本の浄土真宗とか曹洞宗などは、シャカ仏教とは全く異次元の宗教と化しているとおりである。
これから述べるチベット仏教なども全くシャカ仏教とは全く異次元である。
チベットには10世紀以降ころの「後期左道タントラ密教」が伝播してそこからチベット独自に進化している。
さて前置きはこのくらいにして
仏教はそもそもインドにおいては異端派であり
少数派だったです。
シャカはその当時の思想家・宗教家の中でも少数派だったのです。
その当時あったほかの宗教、、例えばジャイナ教と比べても勢力は全く及びません。
当時の代表的な六人の自由思想家たち(六師外道)を代表として幾多の思想家が自己主張してまさに百花繚乱。そんな自由思想家の中のシャカも一人だったのです。
そういう生まれたときから少数派だった仏教はやがてインドにおいては衰滅の一途をたどるのです。
アショカ王やカニシカ王などの庇護で栄えた時期もありましたが
やがてインド全体ののヒンドウ-化の大波に埋没して
インド仏教は7世紀ころになると、インド土着のヒンドウー教の隆盛に押されて衰滅しつつあった。
つまり簡単に言うと、インドではもう仏教は人気がなくなったのである。
その原因はごく簡単に言うと
初期仏教ってやたら理屈主義で、難解で
怪力乱神を一切語らず、
呪術を拒否、
変な?合理性、理屈、にこだわって
やたらと分析性(12因縁、五蘊皆空。四諦、八正道、)への異常なこだわり?
無知な庶民の単純な現世利益の願いや、治病願望に対して
拒否するというこだわりなどでしだいに
庶民の信仰を失ってしまったのである。
仏教は
そういう切なる平凡な庶民の願いに答えてくれないのである。
初期仏教はごく一部の知的エリートのためのサトリへの階梯でしかなかったという決定的な弱点があるからです。
これでは民心は離れます。
原始仏教とは
ある意味、分析にこだわり
こうだから、こうなる
だから、こうしなさいよ。
という「分析哲学」です。(いわゆる祈りや呪法、帰依、拠り所としての宗教ではない)
シャカという人は世間を冷静に分析して、、解析して
世間はこういう仕組みになってると悟った
それが四諦であり
12因縁であり
八正道であり、
そうすれば苦しみから救われますよという
現世でニルバーナに至れますよ、、という
分析哲学です。(宗教ではないです)
これって何ら神秘的要素もない
方程式みたいなものであって
まあそこらの一般庶民からしたら
現世利益
病気治し
だけが願いですからね。
そういう願いには縁遠いわけですよ。
だから原始仏教って高尚な、学問のある階級にしか広まらなかった。
シャカ仏教って、、エリート主義なんですね。
だから結局はインド全体に広まらなかったんです。
そもそもがそういう理屈三昧?の原始仏教ですから
結局次第に民心が離反して
で、、、仏教は衰退してしまったのです。
この兆候は既に3世紀ころから大乗仏教運動で
それまでの原始仏教の哲学的合理性や
理屈主義
分析主義
こうなるからこうなる、だから八正道で煩悩の炎を吹き消しなさい、、というような
理屈のオンパレードに対して
そんな屁理屈こねくり回したって庶民は救われませんよという反旗が巻き起こり、
大乗仏教運動だったわけです。
ですがそれでも大乗仏教でも、
まだ難解すぎて、結局は屁理屈ばっかりで?
結局庶民は離反したのです。
そういう衰退がずっと続いて7世紀ごろになるともう完全に
末期的症状になりインド仏教は風前のともし火、
やはりインド人にとっては愛着のあるバラモン教、、ヒンドウー教がしっくりして
仏教というある意味、異端派にはなじめなかったのである。
まあこれはインドでは異端派であって、ということは逆に見れば世界性?を持っていたという意味でもあったのですね、だからこそ異文化の中国やビルマなどにも広まり受け入れられたのです。
で、、仏教側はそうした衰滅を何とか食い止めようとして
仏教のインド化を画策したのである。
それはインド教の要素を大幅に取り入れるということである。
これが仏教の最終形態である「密教」である。
金剛乗 (ヴァジラヤーナ)とも言います
小乗仏教 頭の良いエリートが静かな僧院で出家して難解なアビダルマを研鑽する仏教
大乗仏教 (マハーヤーナ) 法華経 華厳経などの宇宙ファンタジー的な菩薩行と庶民向けの仏教
金剛乗仏教 (ヴァジラヤーナ) 即身成仏と現世大肯定、祈祷と呪術と曼荼羅の密教
密教は、仏教の衰退を食い止めるために、
まずは庶民に人気のあった、インド教の神々を仏教の守護神として取り入れた
これらの諸神はそもそもがインド伝統の神々でありシャカ仏教とは全く何の関係もないのです。
それを仏教(密教)の守護神として取り込んだのです。
ヒンドウ教徒同じ神々を祭る仏教って一体?
ですよね?
これでは、ヒンドウ教と、同じじゃあないですかってことですよね?
クシティガルバ (地蔵菩薩)インドの地母神
インドラ 帝釈天
マハーカーラ 大黒天
サラスバーティー 弁財天
ダーキーニー ダキニ天
ヤーマ 閻魔
マンジュシュリー 文殊
マイトレーヤ 弥勒
などなど、、、
(なんかどっかで聞いたことがあるような名称ですよね?)
ヴァジラヤーナとか
クシティガルバとか
ちなみに、、、ジーバカ とは、インドの伝説の医師の名前ですよ。
さらに
タントラ教やシャクティ信仰要素をも取り入れた
シャクティとは インドの性力信仰である。
クンダリニという性力を目覚めさして周天させて
超能力を得るというインド土着の宗教。
さらに民間の呪術的要素も取り入れて衰退する仏教の延命を図ったのである。
ただしこれは結局仏教の命取りになったといえるだろう。
なぜならタントラ教はシャカ仏教とは真逆の宗教であり、もはや仏教ではないからである。
密教となった仏教は、もはやヒンドゥー教と大差なくなり、自然と?、ヒンドゥー教に融合していった
のである。
簡単に言うと軒を貸して母屋を取られたということです。
密教の歴史でそれを見てゆくと
最初期の密教は雑密というインド伝来の呪術的要素の雑多な取入れだった
孔雀明王教などのような、呪術要素の取入れだった。
それが次第に整理されて「純密」になると
大日経や金剛頂教などに集約された
これは宇宙の本体を「大日如来」として化身させて宇宙と合体するという教義である。
そのための修法や儀式、瞑想法。加持祈祷、マントラ 真言、陀羅尼、曼荼羅などが述べられている。
この「純密」が空海によって日本にもたらされて真言宗となったのである。
チベット密教の分類でいえば
所作タントラ 雑密 孔雀明王経
行タントラ 純密 大日経
瑜伽タントラ 純密 金剛頂経 理趣経
無上瑜伽タントラ 秘密集会タントラ 呼金剛タントラ 時輪タントラ
ということになります。日本にもたらされたのは
瑜伽タントラまでです。
その先の「無上瑜伽タントラ」になるとこれは
性儀式や幻覚剤の使用やらで
悟りに至るという完全なセックス宗教?ですから
これは日本や中国では受け入れられませんよね、
チベットにはこれが伝わってボン教などと合体して
いわゆるチベット密教になりました。
ただしこういうセックス儀式はあくまでも最高の宇宙心理を暗喩として述べたものであり
男性原理と女性原理が合体して宇宙の最高真理になるという比喩、、つまり
「観法」として修法すべきものであり実際にセックスヨガをしろということではない、、
という風に今では解釈されています。
ただし当時は性儀式が実践されたということだったのでしょう。
もちろん、現在のラマ教はこういうセックス宗教ではないのです。
チベットの宗教画で、男女合体の神の図がありますが。この男性原理と女性原理が合体して宇宙の最高真理になるという比喩を真理を絵で表したものですね。
日本の密教でも、「歓喜仏」というのがそれにあたります。
ではそもそも、
なぜこういう記述(性儀式)がなされたか?
それは当時のヒンドウー教の一派で性儀式や生贄供養で勢力を伸ばしていたシャクティー派を取り込むための方便だった?というのです。それにしてもここまで仏教が追い詰められていた?というインドの当時の実情だったのですね?
確かにインド教のあのきらびやかな金ぴか極彩色の神々からしたら、シャカ仏教って貧相で死と苦しみの直視だとか暗ーい感じですものね。
、、これではインド人のフィーリングからは隔絶した異端派ですものね。インドでは発展しないでしょう?
で、、インド人に取り入るために?最後の悪あがき?として仏教のインド的な土俗化?が模索された?
当時インドで庶民に人気があった土俗的な呪術とかいけにえ信仰やセックスヨガにすり寄ってそれと同化した?ということです。
その典型が性力・シャクティ信仰です。
シャクティ信仰というのはそもそもも男性原理と女性原理が合体することで宇宙の真理が悟れるという教えであり、そのための性儀式ということになります。
当時は実際にこういう性儀式が行われていたそうです、
ですがここまでくるともうこれは仏教と言えるかどうか、もはや仏教でないでしょう?
これらの「無上瑜伽タントラ」は日本には伝わっていません。というか拒否された?
セックスヨガの実践法は以下のウイキぺディアの引用をご覧ください。、
☆以下ウイキペディアより引用
「秘密集会タントラ」の
内容を特徴付ける主な言葉・概念を挙げると、以下のようなものがある。
「五欲徳」(色・声・香・味・触)
「五肉」(人肉・牛肉・犬肉・象肉・馬肉)
「五甘露」(糞・尿・精液・経血・肉体)
「大印」(女性パートナー)
さらには興奮を高めるために
ドラッグ、聖なるキノコ(幻覚キノコ)、ハシーシェなどが前段階で使用されていた。
こういった従来の顕教、あるいは世俗の社会倫理では忌避されてきたものを、真理の反映の過程として取り上げ、三昧の上においてはむしろ徹底的に享受・摂取することが、(その優越性・究極性を強調されつつ、)全面的に象徴化がなされ、それを肯定し推奨されて、現実の如く具体的に観想することが必要とされる。
ちなみに、「大印」(女性パートナー)は、言うまでもなく、「愛欲」(性理的瑜伽、二根交会)の象徴として文中に現れるが、その尊様の指定は、
十二歳の乙女(第七分、第十五分)
十六歳の乙女(第四分、第七分、第十六分)
二十五歳の乙女(第八分)
といった具合にバラつきがある。
上記のような非倫理的ないしは非戒律的(破戒的)な振る舞いについての記述は、観想上で行うものと解釈できる部分も少なくないが、例えば、第十二分の「五肉供養」のくだりでは、
「 あらゆる肉が手に入らねば、あらゆる肉を観想によって生ずべし。」
と書かれており、このように、明らかに現実の実際的な振る舞いを求めているとしか捉えようのない部分もある 。そして、実際に中世のインドやチベットでは記述された内容を鵜呑みしてしまい、「性的ヨーガ」等が現実に実践されてきた例もある。
また、タントラの「後半部」には「呪殺法」とも解釈され得る『調伏法』の様々な呪術の記述が頻出する点(古来から密教の儀軌類には普通に登場する記述)も併せて考えると、正しい理解と資格を伴った専門家が少ない創成期においては、
これらの記述が単なる観想上でのみに留まっていた蓋然性はそれほど高くないと考えられる。
(つまり実際に性儀式が行われていたということです)
☆ここまで引用終わり
真言宗では理趣経までが伝わっていますがそれだって秘密とされて近代まで公表されなかったのです
理趣経も「無上瑜伽タントラ」ほどではないにしても、うけとり方によっては相当やばい?内容です。
理趣経 「十七清浄句」
妙適淸淨句是菩薩位 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
慾箭淸淨句是菩薩位 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
觸淸淨句是菩薩位 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
愛縛淸淨句是菩薩位 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である
一切自在主淸淨句是菩薩位 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である
見淸淨句是菩薩位 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
適悅淸淨句是菩薩位 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
愛淸淨句是菩薩位 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
慢淸淨句是菩薩位 自慢する心も、清浄なる菩薩の境地である
莊嚴淸淨句是菩薩位 ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である
意滋澤淸淨句是菩薩位 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である
光明淸淨句是菩薩位 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である
身樂淸淨句是菩薩位 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である
色淸淨句是菩薩位 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である
聲淸淨句是菩薩位 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である
香淸淨句是菩薩位 この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である
味淸淨句是菩薩位 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である
これを素直に読めばセックス万歳?ということですからね?
旨いものたらふく食って
装飾品で飾り立てて、すべてOKということでしょ?
人間の欲望の一切大肯定です、
まあ、、、
でも、、
そもそも、、だいぜんていとして、、
「性が悪である」、、ということはないです、
性がなければあなたも私も生まれてこなかったのですから。
あるいはもしすべてのセックスを禁止したら、、人類は絶滅します。
性に不浄も清浄もない、ということです、
というかセックスはむしろ?善?ですよね。
セックスがあるから人類が存続してるんですから。
ですから理趣経とはまあある意味正しい?ということですが、
これは煩悩即菩提であり
また生命の原理としてのセックスの大肯定なのですがうけとり方によっては
煩悩即OK
セックス万歳という
セックス宗教にもなりかねないというあやうさを秘めています。
だからこそ秘教、、つまり秘密仏教(密教)シークレット・ブッディズムとされた所以でしょう・
性の野放しは、、人間倫理の範疇からは悪だから制限があるということですから一般大衆にこの教えを公開したら危険ということです。。
しかし
日本でも、。
極端に性を崇める
「真言立河流」が生まれて骸骨本尊や性魔術が行われたことが知られています。
これも倫理の観点からは悪です。
密教とは生命の大肯定です。
とくに後期の左道密教(タントラ密教)は、。
つまり単純に言うと
セックス万歳?です
一切の煩悩の肯定という
大肯定主義ですから
まあ取り方によっては
アブナイ宗教にもなりうるのでしょうね。
いずれにしましても「性と宗教」というのは連綿とした宗教の裏面史を彩ってきたダークサイト(黒歴史)だったというまぎれもない事実でしょうね。
今現在において
性を公認したら、、その宗教はもうオシマイなのですから。
ましてや性魔術とか麻薬でセックスなどは宗教以前の問題です。
刑法上で許されるはずもないわけもないですからね。
最後に、
真言宗の教義をごく簡単に、要約すれば以下のようになる。
先ほどから述べているように、
真言宗などの日本の密教は性魔術。セックスヨガは一切取り入れていません。
大日如来 という宇宙最高の神のもとに様ざまな諸神諸菩薩が包含されるという曼荼羅世界
シャカもその1神にすぎない
煩悩即菩提 性愛もけがれ無し 理趣経の教え
即身成仏 肉体そのままで仏になれる
曼荼羅 大宇宙の真理の 悟りの視覚化
加持祈祷 呪術の取入れ
真言 マントラ 陀羅尼 象徴主義
瞑想法 阿字観
灌頂
まとめ
性は生命体の基本原理であり、中核です、
性無くして生命もあり得ません。
依って性は生命のすべてにわたって支配原理です。
そういう中核原理である性は生命を根源から突き動かすのです、
だからこそ、それは強力かつ強靭なのです。
それをちっぽけな人知などで統御したりうまく活用するなどは
はっきり言ってムリなのです、
性はそんなヤワなものではありません。
というわけで性をうまいところ撮りして、性魔術?
性エネルギー善用法?
おいおい
そんなことできるわけないだろう、、っていうことなのです。
性は奔馬のごとし。
個々の人間などという存在は、単なる「DNAの奴隷運搬人」にすぎないということです。
人間の理性や浅知恵で性を統御なんてできないってことさ。
個々のニンゲンなんてものは、性にこき使われてオシマイ、、
目的は種(DNA)の存続だ、
個々の人間存在などそのための道具・部品・歯車・消耗品にすぎないのだ。
いいかね
分ったかい?
性を手玉に取って?
性を手名付けて?
旨くあしらって
利用して?
しめしめ活用しよう
悟りを得る手段にしよう、
なんてこともくろんだって
お前のほうこそ性にうまく利用されて破滅するのがオチなのです、
結論
シャカは、、たしか、、、こう説いていたはずだ。
「極端を離れなさい」
「偏った道を行ってはいけません」
「あくまでも中道を行くのです」
こうした、シャカの教えをよくよく考えてみれば
というか、、、
推し量るまでもなく
無上瑜伽タントラのような
秘密集会タントラのような
脱法ハーブを飲んで
十二歳の乙女(第七分、第十五分)
十六歳の乙女(第四分、第七分、第十六分)
二十五歳の乙女(第八分)
、、と、セックスヨガ?
なんて良いハズがないのである。
これでは完全なる逸脱であり
やりすぎです。極端すぎるのです。
これはダメなのです。
逆に仏教のある宗派では
極端な禁欲と苦行を行って悟りを得ようとするものもあります、
女人キンゼイ
葷酒禁制
絶食
山野をはだしで跋渉
マントラを一日一万回唱える
座禅を徹夜で行う
などなど、、
こうした極端な苦行というのは実は世界のいろんな宗教でしばしば行われれる常とうう手段?なのです。
針金を束にしてそれで自分の背中を鞭打って血だらけになる
性欲封じに自分の陰茎を切り落とす、
などという修行法さえあるのです。
ですがこれも極端すぎます。
禁欲・苦行過ぎてもいけませんし
逆にセックスヨガも極端すぎます。
シャカの教えに反していることは明確でしょう。
極端は結局身の破滅しかもたらさない。
シャカはそう見抜いていたのです。
シャカは、、たしか、、、こう説いていたはずだ。
「極端を離れなさい」
「偏った道を行ってはいけません」
「あくまでも中道を行くのです」
こうした、シャカの教えをよくよく考えてみなければなるまい。
ウイキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E4%B8%8A%E7%91%9C%E4%BC%BD%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9
付記
あくまでも私の「個人的見解」であり学術的は精確性は保証しません。