桃のジャムと赤のドレス
―――ママのドレスは、きっとあたしに似合わない。
そう思ったのは、これで何度目だろう。何も昨晩だけの話では無い。ずっと、今までも、何度だってそう思ってきた。だけどあたしは、たぶん今夜も真っ赤なドレスを着るのだろう。ママが昔着ていたらしい、ワインレッドのワンショルダーのドレスを。
昨日も薄暗い橙色の照明がちらちら揺れる小さなバーで歌った。そのお店で歌うのは3度目で、あたしの固定客もついていなかった。漁師の下町とも、商人たちが行き来する市場とも、富裕層が豪華絢爛に遊ぶ高級ホテル街とも、どれとも近くて近くない、そんな微妙な立地の個人経営の小さなバー。ここのオーナーは嫌いじゃない。毎日その日その日を楽しんでいて、せかせかせずに自分の生きたいように生きているところが本当に素敵だと思う。けどまぁ、だからこそそんな場所で数回歌っただけじゃ得るものも少ないというのもまた事実で。むしろ間を開けずに毎晩どこかで歌えているのは、ちょっと前までのあたしからすれば、幸運なことだ。……仕方がない、と割り切る以外の方法をあたしは持っていなかった。
ふと、底の擦れきった安物のブーツの動きを止めたのは、頬を撫でた海風だった。そこでハッ顔を上げる。風がそよいだ方向を見れば、曇った空の奥から、淡い光を放つ太陽がわずかに顔をのぞかせていた。その光は優しいと言うよりも、むしろ港に泊まったままの少ない船の影を濃くし、街全体をなんとなく暗く見せてしまっていた。あたしはその弱い太陽が描く影に目を奪われたけど……それもほんの数秒のことで、すぐに今の今まで無心で歩き続けていた自分を思い出し、擦れたブーツのつま先を眺めた。
いつも通りの、はずだったんだ。だけど昨晩、歌い終わって片付けをしているときに、隅のほうから聞こえた、あたしと同い年のシンガーの子の話。彼女もあたしと似たような条件で歌っていて、顔もお互い知っているし、なんだったらデュエットしたこともあるくらいだ。着飾らないショートカットがよく似合う子で、とびきり美人というよりは愛嬌があるチャーミングな子だった。あたしは好感も、夢が同じという仲間意識も持っていた。耳に届いた噂は、彼女が今度、小さいながらも正式なホールで歌うらしい、ということだった。もちろんワンマン。……あたしたちみたいな子が常に願っている、パトロンがついた証拠だった。才能があって努力している子はたくさんいる。でも裕福なパトロンに後ろ盾してもらうためには、運がどうしても必要になる。彼女は、その運で上手に捕まえたんだ。
もちろん、知り合いの夢が叶いかけてる、なんて喜ばずにはいられない。とても良いことだし、応援すべきことだ。……でも。
あたしはその場に腰を下ろした。船着き場のすぐ近くなので、両足を海の上へと投げ出す。船場に腰掛け足を下ろしても、海面にブーツの底は触れなかった。
……結局あたしが、自分勝手だったってだけ。彼女の成功の一端を耳にし、まだ微塵も夢に触れていない自分が、悔しくて、悲しくて。……羨ましい、というよりももはや妬みに近い感情を持った心を、何よりも情けなく思ったのだ。努力はしているつもり。才能だって、ゼロでは無いと信じてる。だけど、それでも、喉から手が出るくらい欲しているものにかすりもできてないことに、焦りがあるのは明らかだった。そんなどす黒い感情に気づかないふりができるほどあたしは大人じゃないし、馬鹿でもなかった。そしてまた、夢を持っていても成功するかわからない不安を持つ夜みたいに、唯一の舞台衣装であるドレスが似合ってないとか、小さいことまで思い詰めて。
「やになっちゃうよ……」
口からポツリとこぼれ出た、紛れもない本音。あたしの言葉は、虚しく宙に散り、きっとあの弱い太陽に消されてしまう。生ぬるい海風が、束ねた髪を一房、頬にかける。乱れた髪を直す気力さえも湧かなかった。いっそのこと、コツコツ貯めていたお金で電車の切符を買って、田舎に帰ってしまおうかな。……あたし、何やってるんだろう。地元でソツなく暮らしたほうがきっと楽で、刺激は無いかもしれないけど生きることはここより容易なはずだ。小さい海沿いの村の中で一番歌がうまくたって、どんなに歌が好きだからって、都会で生きるのは気持ちだけでどうにかなる問題じゃない。そんなこと、わかってたはずなのに。わかってて、ここに来たはずなのに。
悩んでふらふら歩きついた場所が海辺だったのも、故郷を思い出したからなのかな……なんて、いつもは弱気にならないあたしの心が、今日は蓋が外れちゃったみたいに、情けなく泣いていた。
「……泣いてるの?」
後ろから、ふいに聞こえた声。さっきまで通りに人影はまったく無かった。声をかけられるとしたら、あたししかいないのはわかっていた……けど、あたしは振り返れなかった。
「ねぇ君、大丈夫?」
今度はさっきよりも声が近い。……どうして一人にしてくれないんだろう。今は他人の情けなんてほしくない。それよりも、静かに海を眺めていたかった。それなのに。
「!」
ぽん、と優しく肩に感じた重み。驚いて反射的に振り返った。目があった男の人は、ふ、と優しく微笑んだ。栗色の柔らかそうな髪が、風に揺れた。たぶん彼は生まれつき緩やかな巻き髪なんだ、とかどうでもいいことまで思う。
「……なんですか」
でも即座に出てきた返答は、素っ気ないものだった。今は誰かと穏やかに話す気分じゃないんだけど。彼がどんなに優しそうでも、そう思ってしまう。
「いや、何かと言われると何も無いんだけど……気になっちゃって。こーんな朝早くに、船着き場に女の子が一人で海を眺めてるなんて、気になっちゃうじゃない?」
……そこまで思ったならいっそのこと見なかったふりすればいいのに。あたしが思うと同時に、彼は「あ」と何か思いついたように声をあげ、「ちょっと待ってて」と通りを挟んで向かい側の路地へと入っていく。変な人。率直にそう思った。
あたしはまた海を見た。太陽がさっきよりも少しだけ高い位置にある。でも相変わらず、雲が邪魔してよく見えない。暗い影はまだそこらじゅうに残ったままだった。
すぐに足音がした。彼だ、と思った。後ろを振り返ると、茶色の包み紙を二つ手にしてあたしの方へ戻って来る。何も言わずにその行動を眺めていると、彼はごく当たり前のようにあたしの隣に腰を下ろした。ただし、間には人ひとり分……は無いくらいの距離。
「はい」
彼の腕が、あたしたちの距離を埋めた。手からは茶色い薄紙で包まれたパンが顔をのぞかせている。スライスされた大麦のパンが二枚重ねられていた。……悔しいけど、かなり美味しそう。
「君の分」
口調は優しかったが、手がぐいっとあたしに近づき、取ってよ、と言っているようだった。昨日から何も食べずにふらふらしちゃってたし……。胃の空っぽ具合に負けて、その包みを取る。
「……ありがとう、ございます」
「ん。ちょっと早すぎるかもしれないけど、ちょうど準備しようと思ってたし」
彼は隣で、やっぱり当たり前のようにパンを頬張りながらそう答える。横目でもう一度確認すると、質素な黒いズボンにたぶん麻のシャツ。とりあえず身体を覆えればいいやくらいの軽装だった。はずれとは言え、都会の一端。そこで着飾らない感じが良い。素直にそう思えた。
「準備前だったのに、あなたも食べちゃっていいんですか?」
「あー俺?別にいいよ、だって誰かと食べた方がいいじゃない」
「……あたし、正直言うと一人でいたかった気分なんですけど」
パンまでもらって何言ってるんだと自分でも呆れてしまうくらい、言葉が刺々しい。この人、たぶんというか間違いなく優しい人で、だから声かけてくれたはずなのに。完全に八つ当たりだった。でも彼は、あたしのそんな言葉にも、別に怒った風もなくむしろ笑みを含んで答えた。
「だろうとは思ったんだけどね。まぁ、とりあえずそれ食べてみて」
「?」
会話の流れがよくわからなかったけど、言われた通り重なったパンを噛んでみた。
「!」
一口目ですぐに感じた、淡い甘み。強すぎない酸味もほどよく主張していて、もちろん砂糖で味付けもされてるんだろうけど……なんだろう、この自然な甘さは。とても優しくて、胸の奥を懐かしい気持ちにしてくれる。甘い実を包むとろみがまた絶妙で、パンとの絡み方も完璧だ。
「うわ……美味しい。ジャム……?」
荒んだ気持ちはどこかに消え、パンへの感動がそう言葉を紡ぎだす。彼は少しだけ得意そうに、そして何より嬉しそうにまた笑った。
「でしょ?桃のジャム。時間無くて挟んだだけだからサンドウィッチ、とまでは言えないけど。そのパンと相性いいから、ただ塗って挟むだけで美味しいんだよね」
そう言って彼も再びパンを口へと運ぶ。あたしは何度か頷きながら、そのパンを頬張った。この味、あたし大好きだ。うるさすぎない甘さが、食べる手を止めきれない。こんなに美味しいと思うものを胃に入れる感覚は久しぶりな気がした。
しばらくお互い無言のまま、海を見てパンを食べた。また太陽がすこし上に動いていた。そろそろ、一般の人が動き始める時間だろうか。なんだかとても変な感じ。つい数分前に出会った人と、こうして並んでパンを食べてる。その前は、あたしとてもむしゃくしゃしてたのに。それが今は、なんだか気持ちも落ち着いてきてる。……たぶん、この優しい味と優しい彼のおかげだ。
「……ごちそうさまでした」
「よく食べました。……うん、顔色もよくなったんじゃない?」
彼はあたしを見て笑ってそう言う。どうしてこんなに心配されてるんだろう、あたし。
「そのジャム、一緒に住んでる人が作ってるんだ。桃のジャムだけはホント一流品。他はまぁ、うん……って感じだけど」
そっか。やっぱり手作り。こんなに美味しいもの、愛が無いと作れない気がする。
「その人、たぶんお兄さんのこと大事に思って作ってるんですね。だからこんなに美味しい」
さっきまでの刺々しさは無く、あたしもたぶん今、笑ってそう言えてる。彼はちょっとだけ目を見開いた。そして本当にうれしそうに、あたしの言葉を噛みしめるようにつぶやいた。
「そうかな……そうだといいな。そんな風に思えるって、君もきっと愛されてきたんだね」
「……かもしれない、です。あたし、記憶も曖昧な頃しか母親といなかったんですけど……うん、そうだったならいいなとは思います」
おぼろげなママが記憶の奥で浮かぶ。あたしの歌をあの頃から褒めてくれてて、いつかあなたが着てねと真っ赤なワンショルダードレスを見せてくれたママ。田舎の漁村ではちょっと垢抜けすぎてたドレスをあたしはママと重ねている。今どこにいるんだろう。元気でいるといいけど。
彼はあたしの言葉にも、「そっか」と相槌を打つだけで、それ以上は聞かなかった。
「母親は……ママは、夢を追いかけるために一人で村を出て行っちゃったらしくて、あたしすごく恋しくなったり心配したりしてたんです。……でも、お兄さんとかこのジャムを作ってくれた人みたいに優しい人と触れ合えてたら、きっと大丈夫ですよね。心配なんか、しなくていいですよね」
最後の方は、なんだか自分に言ってるみたいだった。……あ。……なんだ、そっか。そうなんだ。ドレスが似合わないとか考えている自分が馬鹿みたいだ。そうやって何かに理由をつけて、今まで成功できない自分から逃げてた。どこかで気づいてたけど、気づきたくなくて、もう会えないママのせいにしたら、気づかなくて済むかもなんて……たぶん、そういうことをぐるぐるぐるぐる無意識のうちに考えてた。
あたしはその場で立ち上がった。だいぶ上った太陽を見て言う。もう、太陽は雲に隠れていなかった。
「あたしもきっと、優しい人に触れ合ったんで、大丈夫ですね」
「……それは俺のこと言ってくれてるの?」
隣から、少しだけ茶化すようにそう聞こえた。だからあたしも、忘れることのないだろう味を思いつつ、含みを持って答えた。
「それと、優しい味、ですかね」
*****
パタン、と扉を閉めても、部屋の中は暗くならなかった。今日は一日曇りかと思っていたけど、この分だと良い天気になりそうだし、と居間の二人掛けのテーブルにあったランプを消した。テーブルのすぐ横の大きくはないキッチンの上には、半分ほどスライスされた大麦パンと、そのすぐ隣には蓋がずらされた鍋が置きっぱなしだった。部屋に桃の香りが漂っている。ああ、蓋ちゃんと閉めてなかったっけ、と考えると、ほとんど同時にたった今別れたばかりの少女の顔が浮かんだ。
黒髪を雑にまとめた、澄ました感じの女の子。声かけたばかりの不安定な状態は、どうやら桃のジャムのおかげで抜け出したらしく、最後には笑ってくれた。「あたし、街のバーで歌ってるんです。よかったら今度聴きに来てください」、そう残して、軽い足取りで街の中心へ帰って行った。
普段もこんなに誰かを気にするなんてことは決してないと思う。今朝はいつもより少しだけ早く目が覚めて、朝食の支度しようと思ってキッチンに立ったら、その窓から海を眺める後姿をたまたま見つけた。表情こそ見えなかったけど、なんだか気になって気になって。気づいたら、表に出て声をかけていた。……どうしてあんなに気になったのか、俺自身にもわからない。
そんなことを考えていると、後ろで扉の開く音がした。玄関ではない。室内の、別の部屋へと続く扉だった。俺は振り返って声を掛ける。
「おはよ、母さん」
「おはよう。今朝はいつもより早いわね……あ、それ私のジャム?」
そうだよ、と答えながら、野菜をまな板の上に並べ始めた。サラダもこのまま作ってしまおう。
「母さん」、と俺の歳で呼ぶのはやや若い姿。黒い髪にはまだ艶があったし、化粧とかしてそれなりの服を着れば、きっとまだまだ魅力的な「女性」で通る。母さんはコップに水を注ぎながら話した。
「今日ね、お父さんと小さいあなたに出会う前の夢をみたの。昔、都会に夢を追って出てきたときのことよ。私、ダンサーの試験で着ようと思ってた衣装忘れちゃってて、都会のたかーい服買わなきゃいけなくて……なーんかその忘れた赤いドレスのこと思い出しちゃったわ」
そう言葉にする姿は、どこか楽しそうだった。相槌を打ちながら、俺はサラダを作る。赤……赤かぁ。よし、トマトも入れるか。
―――なんて、不思議な少女に会ったこと以外はいたって普通の、平和な一日が、今日も始まろうとしていた。
初投稿は友人に捧げます。
キホ☆です!
この小説は、友人の誕生日を祝うために書き下ろしたものなのです。ご了承ください。
*
本当に誕生日おめでとう。多くの言葉はいらないでしょう。これからも大好きです。どうかよろしくしてやってくださいな。
2017/07/28 キホ☆。