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短編

午前二時の洗濯機

作者: みき
掲載日:2026/09/01

 午前二時に洗濯機を回すのは、たぶん、あまり良くない。


 壁のうすいアパートだし、となりには人が住んでいる。下の階にも人がいる。昼間なら気にならない音も、夜になると急に大きくなる。水が流れる音。機械が回る音。服が中で持ち上げられ、落ちる音。


 それでも僕は、午前二時十四分に洗濯機のボタンを押した。


 理由は、明日着るシャツがなかったからだ。


 正しく言えば、洗ってあるシャツがなかった。


 仕事から帰って、コンビニの弁当を食べて、風呂に入らずにソファで眠った。目が覚めたときには日付が変わっていて、それから冷ぞう庫の水を飲み、明日のことを考えた。月曜日だった。会議がある。白いシャツを着なければならないわけではないが、僕は月曜日には白いシャツを着ることにしていた。


 そういう小さな決まりを、自分で作るようになったのは、一人で暮らし始めてからだった。


 洗濯機が回り始める。


 ごう、ごう、と低い音がした。


 台所と部屋の間にある戸を閉めれば、少しは音が小さくなる。それでも完全には消えない。僕は冷ぞう庫から缶ビールを出し、食卓のいすに座った。


 妻が出ていってから、三か月がたっていた。


 まだ離婚はしていない。


 紙の上では夫婦だ。


 ただ、妻はここには住んでいない。


 五月の終わりに、大きな旅行かばんを一つ持って出ていった。残りの荷物は六月に取りに来た。僕が仕事へ行っている間だった。


 帰宅すると、家の中が少しだけ広くなっていた。


 本棚から本が減り、くつ箱からくつが減り、洗面所から化しょう水のびんが消えた。それなのに、僕はその日の夜まで、何がなくなったのかを正しく数えることができなかった。


 ただ、家がよくひびくようになった。


 自分のせきや、くしゃみが、前よりも大きく聞こえた。


 洗濯機が回っている。


 それを聞きながら、ビールを飲んだ。


 妻は夜に洗濯をするのがきらいだった。


「下の人に悪いでしょう」


 いつだったか、そう言った。


「そんなに聞こえないよ」


「聞こえるかもしれないじゃん」


「じゃあ朝やればいい」


「あなた朝やらないでしょう」


 そのとき僕は何と答えただろう。


 たぶん笑った。


 正確には覚えていない。


 僕たちは、そういう会話をたくさんした。人生に何のえいきょうもないような会話を、何百回もした。


 ゴミ袋はいっぱいになる前に出したほうがいいとか、牛乳は奥から取らないほうがいいとか、シャンプーのつめかえを最後に使った人が新しいものを出しておくとか。


 どれも、僕にはたいしたことではなかった。


 たいしたことではないから、忘れた。


 妻は、忘れなかった。


 洗濯機の中で、何かがかたく当たる音がした。


 カン、と鳴った。


 僕は缶ビールを置き、立ち上がった。


 何かポケットに入れたままにしたのかと思った。小銭か、ボールペンかもしれない。


 洗濯機を止める。


 ふたを開けると、水につかった服がゆっくり止まった。


 白いシャツが二枚。下着。くつ下。タオル。仕事用のズボン。


 その中に、見覚えのない白い布があった。


 引っぱり出した。


 くつ下だった。


 女物の、白いくつ下。


 足首のところに、小さな黄色い花が一つ、ししゅうされていた。


 僕はしばらく、それを手に持っていた。


 水が指から落ちた。


 妻のものだった。


 たぶん。


 たぶん、と考えたことがおかしかった。


 三か月前まで同じ家で暮らしていた人のくつ下なのに、僕には、それが本当に妻のものなのか分からなかった。


 僕は妻がどんな下着を持っていたのか知らない。どんなくつ下を何足持っていたのかも知らない。


 黄色い花のくつ下をはいていた姿も、思い出せなかった。


 ただ、知らない女のくつ下が僕の洗濯機に入るはずはない。


 だからこれは妻のものだ。


 それだけだった。


 どこに残っていたのだろう。


 洗濯機のすみかもしれない。洗濯物を入れるかごの底かもしれない。僕のズボンにまぎれていたのかもしれない。


 三か月も見つからなかったものが、どうして今夜になって出てきたのか分からなかった。


 僕はくつ下を洗濯機へ戻した。


 ふたを閉じる。


 もう一度、ボタンを押す。


 洗濯機が回り始めた。


 ごう、ごう。


 僕はまた食卓へ戻った。


 ビールを飲んだ。


 さっきより苦かった。


 妻が家を出た日のことを思い出そうとした。


 五月二十八日だった。


 なぜ日付を覚えているかというと、その日は会社で大きなミスをしたからだ。


 取引先へ送る資料の数字をまちがえた。上司に呼ばれ、直して、あやまって、また直した。帰宅したのは夜十一時をすぎていた。


 妻はまだ起きていた。


 旅行かばんが玄関に置かれていた。


「何それ」


 僕が聞いた。


「出ていく」


 妻が言った。


「どこに」


「しばらく実家」


「なんで」


 妻は僕を見た。


 とても長く見たような気がする。


 実際には数秒だったのかもしれない。


「もう無理だから」


 そのあと、いくつか言葉を交わした。


 でも僕は、その会話をほとんど覚えていない。


 疲れていた。


 仕事で頭がいっぱいだった。


 明日も早かった。


「今日はもう寝ようよ」


 僕はそう言った。


 妻は笑った。


 笑ったというより、息を吐いた。


「そういうところだよ」


 そう言われた。


 僕は腹が立った。


 何がそういうところなのか説明してほしいと思った。言わないなら分からないと思った。僕には仕事がある。妻にも仕事がある。二人とも疲れている。話し合いなら週末にすればいい。


 そう考えた。


 妻はその夜、出ていった。


 僕は止めなかった。


 そのときは、一週間もすれば戻ってくると思っていた。


 一週間後には、二週間くらいかかるのだと思った。


 一か月後には、少し長引いていると思った。


 三か月後の今、僕はまだ同じ部屋にいる。


 妻から最後に来たメッセージは十日前だった。


「離婚届、送ります」


 僕はまだ返事をしていない。


 洗濯機の音が少し変わった。


 水を流しているらしい。


 僕はスマートフォンを開いた。


 妻とのやり取りをさかのぼった。


 新しいものから順に読んだ。


 離婚届、送ります。


 荷物、全部取ったと思う。もし残ってたら捨てていいよ。


 鍵、ポストに入れておきました。


 電気代、今月分までは半分送ります。


 だんだん、過去へ戻っていく。


 牛乳買ってきて。


 今日遅くなる。


 雨降ってるよ。かさ持った?


 プリン買ったから食べないでね。


 今日洗濯お願いしていい?


 その文章を見て、指が止まった。


 去年の十月だった。


 今日洗濯お願いしていい?


 僕の返事は、


 了解。


 だった。


 その次に妻から、


 ありがとう!


 と来ている。


 僕はその日のことを覚えていなかった。


 洗濯したことも。


 ありがとうと言われたことも。


 何一つ残っていない。


 もっと前へ戻った。


 写真が出てきた。


 妻が送ってきた夕焼け。


 近所で見つけた猫。


 スーパーで安くなっていたケーキ。


 駅前にできた新しい店。


 僕は、そのほとんどに短い返事しかしていなかった。


 きれいだね。


 かわいい。


 いいね。


 了解。


 わかった。


 仕事中だったのだから仕方がない。


 そう思った。


 今でも、少しはそう思う。


 人には仕事がある。


 毎回、長い返事なんてできない。


 でも画面を見ているうちに、妻がこちらへ向かって小さな石を何度も投げていたような気がした。


 見て。


 聞いて。


 ここにいるよ。


 そんな小さな石だった。


 僕はだいたい拾わなかった。


 洗濯機が大きくゆれた。


 脱水が始まったらしい。


 夜中の部屋に、低い音がひびく。


 やっぱりうるさいな、と僕は思った。


 妻の言う通りだった。


 そのことが、ひどく腹立たしかった。


 僕は立ち上がって洗濯機を止めようとした。


 でも止めなかった。


 途中で止めると、明日のシャツがぬれたままになる。


 食卓に戻った。


 缶ビールはぬるくなっていた。


 僕は妻に電話をかけようかと思った。


 時計を見る。


 二時四十七分。


 やめた。


 こんな時間に電話をするのは迷惑だ。


 それくらいのことは分かる。


 代わりにメッセージを開いた。


「くつ下が一つ残ってた」


 打った。


 消した。


「黄色い花のくつ下、君の?」


 打った。


 消した。


「話したい」


 打った。


 それも消した。


 僕はスマートフォンを裏返して置いた。


 何を話すのか分からなかった。


 帰ってきてほしいのか。


 離婚したくないのか。


 あやまりたいのか。


 僕自身、分からなかった。


 ただ、黄色い花のくつ下を一足ではなく、一つだけ持っていることが、急にどうしようもなく悲しかった。


 洗濯機が止まった。


 部屋が静かになった。


 僕は立ち上がり、ふたを開けた。


 ぬれた服を一枚ずつ取り出した。


 白いシャツ。


 白いシャツ。


 タオル。


 ズボン。


 下着。


 くつ下。


 そして最後に、黄色い花のくつ下。


 僕はそれらをベランダの近くへ運んだ。


 夜なので外には干さない。


 部屋の中の物干しに、一枚ずつかけていった。


 妻がいたころ、僕は洗濯物の干し方を何度も注意された。


「シャツ、ちゃんと伸ばして」


「乾けば同じじゃない?」


「しわになるよ」


「アイロンすればいいじゃん」


「あなたアイロンしないじゃん」


 いつもの会話だった。


 僕は白いシャツを両手で持った。


 ぱん、と広げた。


 もう一度、ぱん、とした。


 しわが少し伸びた。


 ハンガーにかける。


 次のシャツも同じようにした。


 タオルは端をそろえた。


 くつ下は左右を近くに干した。


 自分でも、なぜそんなことをしているのか分からなかった。


 最後に、黄色い花のくつ下が残った。


 一つしかないので、となりに何を干せばいいのか迷った。


 僕はそれを物干しの端に止めた。


 白い、小さなくつ下だった。


 水を吸って重くなり、少し形がくずれている。


 黄色い花だけは、きれいに残っていた。


 僕はその花を見ていた。


 妻がこれをはいていた日はあったはずだ。


 僕のとなりを歩いた日もあっただろう。


 スーパーへ行ったかもしれない。


 一緒に夕飯を食べたかもしれない。


 テレビを見たかもしれない。


 同じ布団で眠ったかもしれない。


 でも何も覚えていない。


 僕は妻と五年間暮らした。


 五年は長いと思っていた。


 けれど今思い出せるのは、旅行へ行った日や、誕生日や、大げんかをした日ばかりだった。


 その間にあった何千日もの普通の日を、僕はほとんど覚えていない。


 たぶん妻も同じだ。


 人は毎日を全部覚えてはいられない。


 だから、それ自体は悪いことではない。


 ただ、その忘れてしまった日々の中に、僕たちの結婚はあったのだと思う。


 旅行の日だけが夫婦だったわけではない。


 結婚記念日だけが夫婦だったわけでもない。


 牛乳を買ったり、ゴミを出したり、洗濯機を回す時間でもめたりした、その何でもない日々に僕たちはいた。


 そしてたぶん、終わったのも、そういう日々の中だった。


 何か一つ、大きな出来事があったわけではない。


 僕が浮気をしたわけでもない。


 妻が別の男を好きになったわけでもない。


 少なくとも僕は聞いていない。


 ただ、小さなものを何度も見落として、そのうち向こう側が見えないくらい積もった。


 そういうことだったのかもしれない。


 僕はスマートフォンを取った。


 午前三時十一分。


 妻との画面を開く。


 少し考えてから文字を打った。


「黄色い花のくつ下が一つ残ってた。洗ったので、取っておきます」


 読み返した。


 何だこれ、と自分でも思った。


 三か月ぶりに送るような言葉ではない。


 離婚届の返事にもなっていない。


 それでも消さなかった。


 送った。


 もちろん返事は来なかった。


 午前三時だった。


 僕は歯をみがき、布団へ入った。


 物干しにかかった服が、暗い部屋の向こうに見えた。


 黄色い花のくつ下も見えた。


 目を閉じた。


 しばらく眠れなかった。


 朝六時半に目が覚めた。


 三時間も眠っていない。


 頭が重かった。


 会社を休みたいと思ったが、会議があるので起きた。


 顔を洗い、コーヒーを入れた。


 物干しのシャツはまだ少ししめっていた。


 困ったなと思いながら、スマートフォンを見る。


 妻から返事が来ていた。


 午前五時四十二分。


「それ、私のじゃないよ」


 僕は画面を見た。


 もう一度読んだ。


「それ、私のじゃないよ」


 意味が分からなかった。


 黄色い花のくつ下を見る。


 知らない女のものが、この家にあるはずはない。


 僕は考えた。


 そして思い出した。


 二月に、母が泊まりに来た。


 一泊だけだった。


 母は翌朝、自分で洗濯をしていた。


 たぶん、あれは母のくつ下だった。


 僕は食卓のいすに座った。


 笑った。


 声が出るほど笑った。


 三か月ぶりに妻の気配を見つけたと思ったものが、母のくつ下だった。


 何だそれ。


 僕は笑った。


 笑っているうちに、なぜか涙が出た。


 自分でも意味が分からなかった。


 妻のくつ下ではなかった。


 それなのに、泣いた。


 僕は手で顔をおおった。


 涙はなかなか止まらなかった。


 しばらくして、スマートフォンが鳴った。


 妻から、もう一通来ていた。


「でも、ありがとう。洗ってくれて」


 僕はその文字を見た。


 たったそれだけだった。


 五年前でも、三年前でも、去年でも、妻はよく僕に「ありがとう」と言った。


 洗濯をしたとき。


 ゴミを出したとき。


 牛乳を買ったとき。


 駅までむかえに行ったとき。


 僕はそのたびに、そんなことで礼を言わなくていいと思っていた。


 夫婦なのだから当然だと思っていた。


 今なら少しだけ分かる。


 たぶん妻は、当然ではないと思っていたのだ。


 一緒に暮らすことも。


 洗濯をすることも。


 明日も同じ家に帰ることも。


 僕は返事を打った。


「離婚届のこと、今日の夜に返事します」


 それから少し迷って、


「ちゃんと考えて返事する」


 とつけ足した。


 妻から返事は来なかった。


 僕は白いシャツを物干しから外した。


 まだ少しぬれていた。


 ドライヤーを持ってきて、風を当てた。


 こんなことを妻が見たら、きっと笑う。


「だから夜中に洗うなって言ったでしょう」


 そう言うだろう。


 僕も笑うだろうか。


 分からない。


 もう妻がこの部屋で笑うことはないのかもしれない。


 それでも僕は、シャツが乾くまで風を当てた。


 七時をすぎ、外が明るくなった。


 物干しの端では、黄色い花のくつ下が朝の光を受けていた。


 妻のものではなかった。


 僕たちの思い出でもなかった。


 ただの、母の忘れ物だった。


 僕はそれを見ながら、今度母に会ったら返そうと思った。


 それから、今日の夜には妻へ返事をしようと思った。


 何と答えるのかは、まだ決めていなかった。


 ただ、今度は「了解」だけでは終わらせないつもりだった。


 午前二時に回した洗濯機は、もう止まっていた。


 部屋は静かだった。


 その静けさの中で僕は初めて、妻がいなくなったあとではなく、妻がここにいたころのことを考えていた。

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― 新着の感想 ―
黄色い花のくつ下をきっかけに、何気ない夫婦の日々が少しずつ浮かび上がってくるのが切なかったです。最後の静けさにも、言葉にしにくい余韻が残りました。
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