第四話. 『好奇心と王族の責務①』
海底には、誰も知らない世界が広がっている。
光も音も、私たちの知る現実とは少しだけ違う、静かで神秘的な世界。
そこに生きる私――マーメイドプリンセス カノ――は、ずっと一つの夢を抱いていた。
海の上に広がる未知の世界を、この目で確かめること。
でも、海の規則は厳しい。危険がいっぱい。行ってはいけないと何度も言われてきた。
それでも、心の奥底で呼ぶ声があった。
「見てみたい――本当に世界は、こんなにも広いのだろうか」
これは、好奇心と冒険に突き動かされた、ひとりの少女の物語――。
人間と海の世界の狭間で、私が初めて知ったこと、感じたこと、すべてをあなたに伝えたい。
カノは、砂浜にそっと男の子を横たえたまま、後ろ髪を引かれる思いで海へと身を投じた。
潮の匂いを残した風が頬を撫で、波間に月の光がゆらめく。
――人間。
あれは確かに、自分たちに似た姿を持つ「人間」という存在だった。
胸の奥が熱くなる。
初めて見たときの衝撃、人間の技術を美しいと感じたこと。
そして、意識を失って落ちた彼を助けられた安堵。
だが同時に、「本当にあれでよかったのか」と心残りが重くのしかかる。
彼は目を覚ますだろうか。息は、無事だろうか。
罪悪感が少しずつ押し寄せる。
「地上に出ることは禁じられている」
それをわかっていながら、好奇心に勝てずに破ってしまった。
一国の姫としての責務よりも、未知を見たいという想いを選んでしまった。
深い海へと戻る道すがら、胸の鼓動は興奮と恐れの狭間で揺れていた。
やがて、白く輝く珊瑚の王城が目の前に広がる。
光を帯びた貝殻の門。その手前に――カノを待つ影がひとつ。
「……カノ」
静かな声が響いた。
影の正体を認識したカノは、胸を突かれる。
そこに立っていたのは、幼い頃から共に育った青い髪の側使いだった。
肩の長さに切りそろえられたまっすぐな青い髪に、凛とした中性的な顔立ちの少女、ソミュンは真剣な
眼差しを浮かべている。
カノがいないことに気づき、探していたのだろう。
その視線には、心配と、そして少しの叱責の色が滲んでいた。
カノの胸に、再び罪悪感が込み上げる。
「あなたは、一刻の姫です。黙って城を離れたと知れば、どれほどの人が困るか……いつも言っているでしょう?」
ソミュンの声は淡々としているのに、重く突き刺さる。
カノは胸をぎゅっと押さえ、俯いた。
「……ごめんなさい」
ソミュンは小さく息をつき、少し視線を落とす。
「……まったく。せめて、一言でも言ってくれれば」
その声音には、責めだけでなく安堵も混ざっていた。
しばしの沈黙のあと、ソミュンは問いかけた。
「どこに行っていたんですか?」
カノはためらいながらも、口を開いた。
「……海の上に」
「……えっ?」
ソミュンの目が大きく見開かれる。
「本当に……? まさか、そんなところに……」
カノは小さくうなずいた。
「人間を見たの。怖いって聞いてたけど、ぜんぜん違って……綺麗で。助けてあげたの」
ソミュンは一瞬、言葉を失ったように黙り込み――やがて、低く押し殺した声で言った。
「……どうして、そんな危険なことをしたんですか」
怒鳴り声ではない。冷えた叱責。けれど、その裏にあるのは紛れもない心配だった。
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重々しい玉座の間。王の声が静寂を裂いた。
「……カノよ。お前の行いに、一国の王族としての責任を追い、民草が納得できる理由があるのだろうな?」
その一言に、列席する長老たちも、侍従たちも息をのむ。
問い詰められた姫は、震える指先を握りしめ、それでも目をそらさず答えた。
「……人間たちは恐ろしい存在だと、ずっと教えられてきました。けれど……」
一度言葉を切り、喉を鳴らす。
「彼らは、不思議な力を持っていました。
空を綺麗に彩り、大きな船で海を進む……私たちが知らない数々の技術を。
……それは、この国の未来に役立つかもしれない、と。」
言い切った瞬間、場の空気が凍りついた。
ざわり、と長老たちが動揺を交わし合う。
誰かが声を上げかけたが――
「静まれ!」
王の一喝がすべてを押し黙らせた。
その顔には、怒りと驚きが入り混じっている。
「……何を口にしたのだ、カノ。」
低く、重い声。
カノの胸がぎゅっと締めつけられる。
王はしばし彼女を睨み据え、やがて冷徹に言い放った。
「――姫と話したい。しばし席を外してくれ」
ざわめく群衆は一斉に頭を垂れ、重々しい足音を響かせながら去っていく。
残されたのは王とカノ、そして宰相だけだった。
静寂。
王はゆっくりと玉座から立ち上がり、娘を見下ろす。
「……お前は、上で何を見た。何を知った。」
その眼差しは王の威厳を宿しながらも、どこかに恐れと戸惑いが滲んでいた。
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