第9話 黒曜の爪痕
カサリ――背後の物陰から聞こえた微かな音に、ミレーユの全身の神経が鋭く尖った。本能的な危機感が警鐘を鳴らす。彼女が振り向きざまに身を翻した瞬間、数条の黒い影が闇から躍り出てきた!
「っ!」
ミレーユは咄嗟に身を低くし、襲撃者の一人が薙いだ奇妙な形状の短剣を紙一重でかわす。それは龍の爪を模したかのような、黒曜石のごとく鈍い光を放つ金属製の刃だった。襲撃者たちは一様に黒ずくめの装束で顔を隠し、一切の言葉を発しない。ただ、その連携の取れた動きと、殺気だけが雄弁に彼らの目的を物語っていた。
「くっ……!」
ミレーユは元王宮侍女として叩き込まれた護身術で応戦する。華奢な見た目とは裏腹に、その動きは俊敏で的確だ。しかし、相手は三人。しかも、その体捌きは常人のものではない。まるで訓練された暗殺者のように、音もなく、しかし確実にミレーユの逃げ場を塞いでいく。
狭い路地裏で、金属音が火花を散らし、息詰まる攻防が繰り広げられた。ミレーユは必死に攻撃を捌きながらも、徐々に壁際へと追い詰められていく。
(この者たち……一体何が目的なの!?)
その時、リーダー格と思しき襲撃者の一人が、低く、押し殺したような声で呟いた。
「黒曜の爪は……汝の死を望む」
黒曜の爪――その言葉に、ミレーユの脳裏にゼノヴィオスの不吉な噂話がよぎった。まさか、本当に……!?
その頃、「炎の一献」では、レガルドが焦燥感を募らせていた。
「ミレーユ殿の帰りが遅すぎる。ただの調査にしては……」
窓の外は既に夕闇に包まれ、境界付近の治安は決して良くない。
「ゼノヴィオス殿、何か心当たりは?」
「あの娘のことじゃ、ただ道に迷うたわけではあるまい。……わしの胸騒ぎが当たらねばよいが、あの『黒曜の爪』の噂、そして境界付近の不審な動き。何やら、嫌な糸が繋がりかけておる気がするのじゃ」
老龍の目が、鋭く光る。
「おじさん、僕、ミレーユお姉ちゃんを探しに行く!」
キルヴァンが、小さな拳を握りしめて叫んだ。
「よし、決めた。キルヴァン、お前はシリウスと店番を頼む。俺とゼノヴィオス殿で様子を見てくる」
「嫌だ!僕も行く!ミレーユお姉ちゃんが危ないかもしれないんでしょ!?」
キルヴァンの瞳には、強い決意が宿っている。レガルドは一瞬ためらったが、その真剣な眼差しに頷いた。
「……わかった。だが、決して無茶はするな。いいな?」
「うん!」
レガルド、キルヴァン、そしてゼノヴィオス。三人の龍は、夜の闇へと飛び出した。
一方、ミレーユは路地裏の奥へと追い詰められ、肩で荒い息をついていた。左腕には浅いが、鋭い切り傷を負っている。じわりと血が滲み、黒い装束を濡らしていた。
(ここまで、なの……?)
諦めにも似た感情が心をよぎった瞬間――
「グオオオオォォォッ!!」
夜空を震わせるような、しかし人間の声帯ではありえない威圧的な咆哮が響き渡った!それはレガルドの声――人型の姿を保ちつつも、内に秘めた古代竜の魂を開放したかのような、圧倒的な威圧感を伴っていた。
襲撃者たちの動きが一瞬、止まる。
その隙を逃さず、路地の入り口から三つの影が突入してきた!
「ミレーユ殿!無事か!」
先頭のレガルドは、その巨躯を活かし、襲撃者の一人に猛然と体当たりを喰らわす。人型のままでも、古代竜の膂力は凄まじい。
「ミレーユお姉ちゃん!」
キルヴァンは、市場での失敗を教訓に、今度は慎重に、しかし素早く炎を操る。それは敵を直接焼くのではなく、目くらましや威嚇、そして退路を断つように、的確に放たれた。
「風よ、彼の者らの足を止めておくれでないか!」
ゼノヴィオスが両手を広げると、路地裏に小さな竜巻が発生し、襲撃者たちの動きを巧みに妨害する。それは強力な魔法ではなかったが、老練な風竜の経験に裏打ちされた、絶妙なコントロールだった。
予想外の援軍の出現に、黒装束の襲撃者たちは明らかに動揺していた。それでも彼らは、まるで操り人形のように、なおもミレーユへと向かおうとする。その執拗さには、狂信的な何かすら感じられた。
激しい格闘が再び始まった。レガルドの拳が唸り、キルヴァンの炎が舞い、ゼノヴィオスの風が踊る。ミレーユも負傷した腕を押さえながら、残る力でレガルドたちを援護する。
「こいつら……ただのチンピラじゃない!」
レガルドは、敵の異常なまでの戦闘能力と統率力に舌を巻いた。
やがて、数の不利とレガルドたちの猛攻に、襲撃者たちは徐々に追い詰められていく。リーダー格の男が、何か合図を送ると、彼らは一斉に煙玉を地面に叩きつけた。
「しまった!」
爆ぜる煙に視界を奪われた一瞬の隙に、黒装束たちは闇へと消えていった。レガルドたちは深追いをせず、ミレーユの元へと駆け寄る。
「ミレーユ殿、大丈夫か!?」
「はい、レガルド様……なんとか。それより、これを」
ミレーユは、戦闘中に襲撃者の一人が落としていった黒曜石のような短剣を差し出した。その柄頭には、禍々しい爪が三本組み合わさったような紋章が刻まれている。
「これは……間違いなく『黒曜の爪』の印じゃ」
ゼノヴィオスが、険しい表情で断言した。
「あの連続破壊行為も、奴らの仕業だったのですね。人間と龍族の対立を煽り、混乱を引き起こすのが目的なのでしょうか」
ミレーユの言葉に、レガルドは頷く。アストリッドの団体とはまた違う、より巧妙で、より危険な敵の存在が、はっきりと姿を現したのだ。
「炎の一献」に戻り、レガルドがミレーユの腕に手際よく薬草を塗布し、包帯を巻く。その表情は、怒りと、そして仲間を守れなかったことへの悔しさに満ちていた。
「すまない、ミレーユ殿。俺がもっと早く気づいていれば……」
「いいえ、レガルド様。これは私自身の問題です。ですが……おかげで、はっきりと分かりました。私が戦うべき相手が」
ミレーユの瞳には、恐怖を乗り越えた強い光が宿っていた。アドバイザーとしての役割の重要性を、彼女は今、肌で感じていたのだ。
キルヴァンは、ミレーユの傷ついた姿を見て、唇を噛みしめていた。
(僕は……ミレーユお姉ちゃんを、ちゃんと守れなかった……。でも、少しは……役に立てた、かな?)
悔しさと、ほんの少しの手応えが、彼の小さな胸の中で渦巻いていた。
「レガルド殿。この一件、直ちに龍王陛下と評議会準備会合に報告すべきじゃ。これは、我々だけの問題ではない。グリュム・シティ全体の、いや、人間と龍族、双方の未来に関わる脅威じゃ」
ゼノヴィオスの言葉に、レガルドは力強く頷いた。
「ああ、分かっている。そして、俺たち『炎の一献』もまた、この戦いから目を背けるわけにはいかない」
彼は、静かに龍王レオンへの連絡手段である通信魔法の準備を始めた。
黒曜の爪――その不吉な名が、新たな戦いの幕開けを告げていた。