第8話 動き出す運命、それぞれの戦場
龍王レオンが嵐のように去った翌朝。「炎の一献」の古びた扉は、いつもと変わらぬ音を立てて開かれた。だが、店主レガルドと副店長ミレーユの胸の内には、昨日までとは明らかに違う種類の炎――使命感という名の、静かで熱い炎が灯っていた。
「レガルド様、龍王陛下より早速の使者です。本日の午後、評議会設立に向けた第一回準備会合にご出席いただきたい、とのこと」
ミレーユが、早朝に届けられた羊皮紙の書状を読み上げる。その声には、どこか引き締まった響きがあった。
「うむ、わかった」
レガルドは頷き、厨房で火力を調整する。その手つきはいつも通りだが、背中からは龍王の言葉の重みが滲み出ているようだった。
ミレーユもまた、政府高官からの連絡で、今日から早速「共存推進室(仮称)」に出仕し、現状の課題についてのブリーフィングを受けることになっていた。
「おじさんもミレーユお姉ちゃんも、なんだかカッコイイ!」
キルヴァンは目を輝かせているが、同時に少し寂しそうだ。
「僕、今日からこの『炎の一献』の店長代理だからね!お客さん、いっぱい呼んでみせるよ!」
そう言って小さな胸を張るが、その足取りはどこかおぼつかない。
「キルヴァン、無理はするなよ。お前にはシリウスとゼノヴィオス殿もついている」
レガルドの言葉に、カウンターの隅で腕を組んでいたシリウスが鼻を鳴らした。
「へっ、俺はビールの心配しかしてねえよ。だがまあ、小僧っ子が困ってたら、ケツくらいは拭いてやらんでもねえ」
ゼノヴィオスも穏やかに微笑む。「若い龍の成長を見るのは、老いぼれの楽しみの一つじゃからのぅ」
仲間たちの温かい視線に送られ、レガルドとミレーユは、それぞれの新たな「戦場」へと向かった。
グリュム・シティの中枢、龍族と人間双方の代表が集う円卓会議室。レガルドがそこに足を踏み入れると、様々な種族の視線が一斉に彼に注がれた。中には、鋭い敵意を隠そうともしない者もいる――グレンのように、龍族の伝統と力を重んじる保守派の代表たちだ。人間側の代表には、ミレーユの上司となる政府高官もいたが、彼もまた、レガルドという古代竜の存在を測りかねているようだった。
「……では、第一回、グリュム・シティ共存評議会準備会合を始める」
議長の硬い声が響く。レガルドは、この重苦しい空気をどう変えていくべきか、静かに思考を巡らせた。これは、炎で肉を焼くより、遥かに骨が折れそうだ。
一方、ミレーユは政府庁舎の一室で、山のような資料に目を通していた。龍族に関する過去の事件報告、住民意識調査、そして、人間と龍族の間で起こっている大小様々なトラブルの記録。その多くが、誤解や偏見、そして一部の悪意によって引き起こされていることを知り、彼女は改めて仕事の困難さを痛感した。
「……この記述は、明らかに事実に反します。龍族の『威嚇行動』とありますが、これは彼らの挨拶の一種で…」
ミレーユは、担当官に臆することなく、一つ一つの問題点を指摘し、改善案を提示していく。彼女の言葉には、「炎の一献」で培った経験と、龍族への深い理解が裏打ちされていた。
その夜、「炎の一献」は、いつもより少し静かだった。
「レガルド殿、評議会の方はどうじゃったかな?」
ゼノヴィオスが、レガルドに酌をしながら尋ねる。
「ふむ……思った以上に、根深い不信感が渦巻いているようだ。アストリッドのような人間だけではない。我ら龍族の中にも、変化を恐れる者が多い」
そこへ、ゼノヴィオスが声を潜めて続けた。
「アストリッドの背後関係じゃが……どうやら、旧時代の武器商人ギルドの残党や、龍族の力を軍事転用しようと画策しておる秘密結社『黒曜の爪』の影が見え隠れするとの噂じゃ。まだ確証はないが、きな臭い話ではある」
「黒曜の爪……」
レガルドはその名に聞き覚えがあった。古の時代、龍族同士の争いを煽り、強大な龍の力を利用しようとした邪悪な組織だ。まさか、現代にまでその残滓が……。
店の隅のテーブルでは、見慣れない人間の男が二人、熱心に何かを話し込んでいる。ミレーユは、彼らが時折レガルドの方へ鋭い視線を送っているのに気づいた。評議会の動きを探りに来た、市の役人だろうか。あるいは……。
「なんだか最近、面倒くせえ客が増えたと思わねえか、レガルド」
シリウスが、カウンター越しに大きなジョッキを磨きながらぼやく。その言葉通り、店には以前とは違う種類の緊張感が漂い始めていた。
レガルドが評議会の仕事で店を空ける日も増えてきた。
「いらっしゃいませー!今日は特製『炎トカゲの丸焼き』がおススメだよ!」
キルヴァンは、ミレーユやシリウスに助けられながらも、一生懸命に店を切り盛りしていた。小さな体で重い酒樽を運ぼうとしてひっくり返したり、龍族特有の複雑な注文(「鱗の艶が増すような、それでいて少しピリ辛で、故郷の溶岩地帯の香りがする酒を頼む!」など)に頭を抱えたりすることもあったが、その度に彼はレガルドやミレーユならどうするかを考え、自分なりに解決しようと奮闘していた。その姿は、頼りなくも健気だった。
レガルド自身もまた、新たな葛藤に直面していた。評議会では、龍族の持つ強大な力を、都市のエネルギー供給や災害救助といった平和的な目的に利用する計画が持ち上がっていた。それは素晴らしいアイデアに思えたが、レガルドの脳裏には、かつて自身の強大すぎる力を制御できず、意図せず悲劇を引き起こしてしまった苦い記憶が蘇る。力を振るうことへの恐怖。それは、古代竜としての彼の深層に刻まれたトラウマだった。
そんなある日、ミレーユは政府の仕事として、龍族居住区と人間居住区の境界付近で連続して発生している、小規模な破壊行為の調査を命じられた。何者かが夜な夜な防護柵を壊したり、威嚇的な落書きを残したりしているという。当初は、チンピラの仕業かと思われていたが、その手口は次第に巧妙かつ大胆になっていた。
「これは……ただの悪戯ではなさそうですね」
現場を視察したミレーユは、眉をひそめる。
レガルドも、評議会でその報告を耳にし、胸騒ぎを覚えていた。アストリッドの団体か、それともゼノヴィオスが言っていた「黒曜の爪」の仕業か……。
夕暮れ時、ミレーユは単独で再び境界付近の調査に訪れていた。何か手がかりはないかと、人気のない路地裏を慎重に進む。その時、ふと、背後に誰かの視線を感じた。鋭く、冷たい、まるで爬虫類のような視線。
振り返っても、そこには誰もいない。だが、嫌な予感は消えなかった。
彼女は足早にその場を去ろうとしたが、ふと、破壊された柵の支柱に、奇妙な傷跡が残されているのに気づいた。それは、鋭い爪で引っ掻いたような痕跡。だが、龍族の爪にしては小さく、形もどこか歪んでいる。そして、その傷の周りには、微かに黒い煤のようなものが付着していた。
「これは……一体?」
ミレーユがその痕跡に指を伸ばそうとした瞬間、背後の物陰から、カサリ、と何かが動く音がした。
新たな事件の、そして見えざる敵の気配が、すぐそこまで迫っていた。