第6話 龍王の問い、揺れる灯火
龍王レオン――その名が意味するものの重さに、「炎の一献」の空気は張り詰めていた。暖炉の炎がパチパチと音を立てるのだけが、やけに大きく聞こえる。
レガルドは、目の前に立つ若き龍王から放たれる、純粋で強大な気に圧倒されながらも、心の奥底で何かが目覚めるような感覚を覚えていた。それは、忘れようとしても忘れられなかった、遠い日の誓いの熱さだった。
「『炉辺の約束』……」レガルドの声は、自分でも驚くほどかすれていた。「陛下が、それを……ご存知だったとは」
「父は、日記に記しておりました。そなたという稀有な古代竜と交わした、魂の約束について。そして、その約束が果たされる日を、生涯待ち望んでいた、と」
レオンの言葉は静かだったが、一つ一つがレガルドの胸に重く響く。先代龍王の、あの信頼に満ちた眼差しが脳裏に蘇り、レガルドは知らず拳を握りしめていた。
「具体的に、私に何を…とおっしゃるのですか、レオン陛下」
傍らで息を詰めていたミレーユが、思わず口を挟んだ。彼女の声は震えていたが、その瞳にはレガルドを案じる強い光が宿っている。キルヴァンは、レガルドのローブの裾を小さな手でギュッと掴んだまま、不安そうに龍王を見上げていた。
レオンは、その視線をミレーユへと移した。彼の瑠璃色の瞳が、ミレーユの魂の奥底まで見透かすように細められる。
「……人間か。レガルド殿の傍らに侍るとは、興味深い」
その声には、侮蔑も好奇心もなかった。ただ、純粋な事実として捉えているような、どこか超越的な響きがあった。
そして再びレガルドに向き直る。
「単刀直入に申そう。今、我ら龍族と、このグリュム・シティにおける人間との関係は、極めて危うい均衡の上になりたっておる。先日の人間保守団体による騒動も、その氷山の一角に過ぎぬ」
ゼノヴィオスが、静かに頷いた。彼の情報網もまた、同じ結論に達していたのだろう。
「私は、父の悲願であった『真の共存』を、このグリュム・シティから実現したい。だが、そのためには、人間たちの心の奥底にある我らへの不信と恐怖を取り除き、同時に、我ら龍族の中にも根強く残る傲慢と排斥の心を変革せねばならぬ。それは、力だけでは成し遂げられぬ、茨の道だ」
レオンは一度言葉を切り、店の中を見渡した。その視線は、レガルドが丹精込めて作り上げたこの「炎の一献」の温かい灯火を、慈しむように捉えているかのようだった。
「レガルド殿。そなたがこの地で灯したこの小さな火は、あるいは大きな燎原の火となるやもしれぬ。そなたの料理は、種族を超えて魂を慰めると聞く。そして、そなた自身が持つ古代竜としての知恵と力、そして何よりも、その公平な魂こそが、今、我らに必要なのだ」
それは、ほとんど懇願に近い響きだった。龍族の王が、一介の料理人に頭を下げんばかりの勢いで。
「先代龍王陛下と交わした『炉辺の約束』――それは、このグリュム・シティに、いや、この世界に、種族を超えた真の安息の地を築くというものではなかったか? そのための礎となる評議会を立ち上げ、その長として、そなたの力を貸してほしいのだ」
評議会の長――その言葉の重みに、レガルドは息をのんだ。それは、「炎の一献」というささやかな夢とは、あまりにもスケールの違う話だった。過去の戦いで味わった無力感、守れなかった命への悔恨が、再び彼の胸を締め付ける。俺に、そんな大役が務まるのか……?
シリウスは、カウンターの隅で腕を組み、難しい顔で成り行きを見守っていた。
「何がなんだかサッパリだが、レガルドの野郎が、とんでもねえことに巻き込まれようとしてるってことだけは分かるぜ」
その呟きは、店の緊張感を代弁しているかのようだった。
ミレーユは、レガルドの苦悩を間近に感じ、胸が痛んだ。同時に、レオンの言葉は、彼女自身の心にも深く突き刺さっていた。「人間たちの心の奥底にある我らへの不信と恐怖を取り除く」――それは、彼女がこの「炎の一献」で、そして政府高官からのオファーを通じて成し遂げたいと願っていたことそのものではないか。
レガルド様が大きな使命を担うというのなら、私にできることは……?
レオンは、レガルドの葛藤を見抜いたように、静かに言葉を続けた。
「無論、無理強いはせぬ。この『炎の一献』での穏やかな暮らしも、そなたにとっては一つの答えやもしれぬ。だが、時は待ってはくれぬのだ、レガルド殿。アストリッドのような者たちの動きは、日増しに活発化している。龍族内部でも、グレンのような若者たちの不満は燻り続けている。このままでは、いずれ……」
龍王の言葉は、不吉な未来を暗示していた。
レガルドは、目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、先代龍王の温かい笑顔、そして「炉辺の約束」を交わした夜の、燃え盛る暖炉の炎。次に浮かんだのは、ミレーユの信頼に満ちた瞳、キルヴァンの無邪気な笑顔、シリウスのぶっきらぼうな優しさ、ゼノヴィオスの賢明な助言、そして、この「炎の一献」に集う様々な客たちの顔、顔、顔……。
今の俺には、守るべきものが、こんなにもたくさんある。
長い、長い沈黙が続いた。
やがて、レガルドはゆっくりと目を開いた。その瞳には、先ほどまでの迷いは消え、静かだが、しかし鋼のような覚悟の光が宿っていた。
彼は、ゆっくりと龍王レオンに向き直り、そして――。