第4話 炎上都市
「速報です!グリュム・シティ龍族居住区の市場で、龍族の子供が放火騒ぎ!」「龍族専用居酒屋『炎の一献』、過激派龍族のアジトか!?」
数日後、そんな刺激的な見出しが、グリュム・シティのネットニュースや街角のゴシップ誌を賑わせ始めた。キルヴァンの市場での一件は、人間保守団体によって巧妙に歪められ、悪意に満ちたデマとして拡散されていたのだ。「炎の一献」の評判は、瞬く間に地に落ちた。
「……やはり、アストリッドという女狐じゃな」
店の奥で、ゼノヴィオスが苦々しげに報告書をレガルドに差し出した。そこには、人間保守団体の若きリーダー、アストリッドの調査結果が記されていた。
「彼女は十数年前、龍族が関与したとされる大規模な列車事故で家族全員を失っておる。……もっとも、その事故の原因については、今も不可解な点が多いのじゃが。ともあれ、彼女にとって龍族は、家族を奪った不倶戴天の敵。その憎しみは、一筋縄では解けそうにない」
ゼノヴィオスの言葉に、レガルドは重い沈黙で応えるしかなかった。
そして、その日はやって来た。
「炎の一献」の店の前は、早朝からおびただしい数の人間で埋め尽くされていた。プラカードを掲げ、メガホンで怒号を上げる群衆。その先頭に立つのは、鋭い眼光を放つ小柄な女性――アストリッドその人だった。
「龍族はグリュム・シティから出て行け!」「危険な店『炎の一献』を即刻閉鎖しろ!」
シュプレヒコールが、まるで呪詛のように店に降り注ぐ。客足は完全に途絶え、店は陸の孤島と化した。
「……また、同じ……」
店の窓からデモ隊の姿を見たミレーユは、蒼白な顔で震えていた。両親を奪った排斥派の暴徒たちの姿が、目の前の光景と重なる。あの日の恐怖と絶望が、容赦なく彼女の心を蝕んでいく。
「ミレーユ殿、しっかりしろ!」
レガルドが声をかけるが、彼自身もまた、見えざる鎖に縛られているかのようだった。「炉辺の約束」が、まるで嘲笑うかのように遠のいていく。過去の戦いで守れなかった者たちの顔が、デモ隊の群衆と重なって見えた。
キルヴァンは、デマの一端が自分の市場での失敗にあると感じ、カウンターの隅でうずくまっていた。
「僕のせいで……僕があんなことをしたから……」
小さな肩が、悔しさと申し訳なさで震えている。
そんな絶望的な空気の中、店の奥から声が上がった。
「レガルド!ミレーユ!小僧っ子!いつまでメソメソしてやがる!こんなことで、テメェらの炎は消えちまうのかよ!」
シリウスだった。いつものカウンターではなく、厨房の入り口に仁王立ちしている。その隣にはゼノヴィオス、そして数少ないが、店の危機を知って駆けつけた常連の龍族たちの姿があった。
「俺たちの店は、俺たちで守る。そうだろ?」
岩竜の常連客が、力強く拳を握りしめる。
ミレーユは、その言葉にハッと顔を上げた。キルヴァンも、涙をためた瞳で仲間たちを見つめる。
レガルドは、仲間たちの顔を一人一人見渡し、心の奥底から何かがこみ上げてくるのを感じた。そうだ、まだ終わってはいない。この手で守ると誓ったものが、ここにあるじゃないか。
「……ありがとう、皆」
絞り出すような声だった。
「アストリッドは、対話を拒んでいるわけではないのかもしれん。ただ、憎しみに囚われ、真実が見えなくなっているだけじゃ」とゼノヴィオス。
「ならば、俺たちは、俺たちのやり方で語りかけるしかない」
レガルドの目に、再び炎が宿った。それは、諦めを知らない、古代竜の不屈の炎だった。
「パフォーマンス……ですか?」ミレーユが問い返す。
「そうだ。料理で、言葉で、音楽で、そして炎で。俺たちの魂を、ありのままにぶつけるんだ」
遠巻きにデモの様子をうかがっていたグレンは、その異様な光景に眉をひそめていた。「炎の一献」が人間どもに包囲されている。気に入らない店主と人間の女だが、それでも同じ龍族の店が人間の手で潰されるのは、彼のプライドが許さなかった。しかし、どう動けばいいのか、彼にもまだ分からなかった。
デモの喧騒が続く中、店の中では密かに、しかし熱く、反撃の準備が進められていた。
レガルドは厨房に立ち、全神経を集中させて「龍魂のコンソメ~月雫草を添えて~」の最後の仕上げに取り掛かっていた。月雫草の神秘的な香りが、デモの喧騒を突き抜け、微かに店の外へと漂い始める。それは、怒れる人々の心をほんの少しだけ揺さぶる、不思議な香りだった。
ミレーユは震える手でペンを握り、何度も何度も言葉を紡いでは消し、スピーチの原稿を練り上げていた。キルヴァンは、レガルドとミレーユの指導を受けながら、小さな炎を自在に操り、幻想的な光のアートを描き出す練習に没頭していた。シリウスと常連龍族たちは、それぞれの楽器を手に取り、力強い宴の歌をリハーサルしていた。
そして、太陽が西に傾き、街がオレンジ色に染まり始めた頃――
ギィィ……と、「炎の一献」の扉が、ゆっくりと、しかし堂々と開かれた。
デモ隊の怒号が一瞬、静まる。
最初に姿を現したのは、レガルドだった。手には、湯気を立てる黄金色のコンソメの入った大きな鍋。その芳醇で、どこか懐かしいような、魂に直接語りかけてくるような香りが、風に乗って広がる。ざわめいていたデモ隊の中から、ゴクリと唾を飲む音がいくつも聞こえた。
次に、ミレーユが、深呼吸一つして壇上――店の前のビール樽を積み上げた即席の台――に上がった。
「皆さん、どうか聞いてください!」
彼女の声は震えていたが、その瞳には強い光が宿っていた。
「私はミレーユ。この『炎の一献』で働く、ただの人間です。そして……かつて、皆さんと同じように、龍族を憎んだ人間でした」
衝撃的な告白に、デモ隊は息をのむ。
「私の両親は、竜族排斥を唱える者たちに殺されました。その悲しみ、その怒りは、今も私の胸から消えることはありません。ですが……この店で、レガルド様や、多くの龍族の方々と触れ合う中で、気づいたのです。憎しみは、新たな憎しみしか生まないのだと」
ミレーユは、アストリッドの目をまっすぐに見据えた。
「アストリッド様。あなたの悲しみは、痛いほど分かります。ですが、どうか、その憎しみで真実から目を逸らさないでください!私たちに、対話の機会をください!」
その時、キルヴァンがミレーユの隣に飛び出した。
小さな体から放たれた炎は、もはやただの火の玉ではなかった。それは天に昇る龍となり、夜空を舞う鳳凰となり、人々の頭上で無数の光の華を咲かせた。それは攻撃の炎ではなく、見る者の心を奪う、美しく幻想的なアートだった。子供たちが、思わず「わぁ……」と声を上げる。
続いて、シリウスが樽ジョッキを片手に吠えた!
「野郎ども、宴の時間だぜぇ!」
常連龍族たちの奏でる太鼓や笛の音が響き渡り、力強くも陽気な歌声が、デモ隊の殺伐とした空気を震わせる。それは、種族を超えた魂の祝祭のようだった。
その間、ゼノヴィオスはそっとデモ隊の中に紛れ込み、顔見知りの穏健派の人間や、かつて龍族に命を救われた経験を持つ老人たちに、静かに語りかけていた。
「皆の衆、よく見てくだされ。あれが悪魔の所業に見えるかな?」
パフォーマンスは、確実に人々の心に変化を生んでいた。憎悪に満ちていた顔に、戸惑いや、好奇心、そしてほんの少しの感動の色が浮かび始める。
「……ふざけるな!」
アストリッドが金切り声を上げた。彼女の顔は怒りと屈辱で歪んでいる。
「こんなもので騙されると思うな!やれ!あの店を打ち壊せ!」
彼女の言葉に、一部の強硬派が武器を手に前に進み出ようとした、その瞬間だった。
「そこまでだ、人間ども!龍族の店に手出しはさせん!」
バリバリという音と共に、デモ隊と「炎の一献」の間に割って入ったのは、紅蓮の鱗を輝かせるグレンだった。その手には、炎の剣が握られている。
「俺はこの店のやり方が気に入らねえ。だがな、龍族の誇りを、テメェら人間の好き勝手に汚させるわけにはいかねえんだよ!」
そこに、サイレンの音と共に、市の警備隊が現れた。比較的穏健派として知られる警備隊長が、メガホンで叫ぶ。
「双方、武器を収めろ!これ以上の騒ぎは許さん!」
グレンの予想外の介入と、警備隊の登場で、デモ隊は完全に勢いを失った。強硬派も、しぶしぶ武器を下ろす。
アストリッドは、憎悪に満ちた目でレガルドとミレーユを交互に睨みつけた。
「……これで、終わりだと思うなよ……!」
その言葉を最後に、彼女はデモ隊と共に撤退していった。
後に残されたのは、疲労困憊の「炎の一献」の仲間たちと、呆然と立ち尽くす一部の市民、そして複雑な表情でレガルドたちを見つめるグレンの姿だった。
嵐は去った。だが、それは完全な勝利ではなかった。アストリッドの憎悪の炎は、まだ消えてはいない。
それでも、「炎の一献」の暖炉の炎は、仲間たちの手によって、確かに守られたのだ。