第32話 食卓の駆け引き、倉庫の罠
グリュム・シティに視察の名目で滞在していたヴォルダン公爵の元へ、レガルドから一通の招待状が届けられた。それは、古龍の筆跡で書かれた、簡素だが揺るぎない挑戦状だった。
『公爵。貴殿の言う「龍族の誇り」とやらを、俺の料理で表現してみよう。もし、その一皿に一片の偽りでも感じたならば、俺もこの店の在り方を改めよう』
ヴォルダンは、その不遜ともいえる申し出に、面白い、とばかりに口の端を上げた。古代竜レガルドが、どれほどの「誇り」を皿の上に描き出すのか、見届けてやろうではないか。
その夜、ヴォルダン公爵はただ一人で「炎の一献」の扉をくぐった。人間と龍族が同じテーブルで談笑する光景に、彼はあからさまに眉をひそめる。案内されたカウンター席で、彼はレガルドと再び対峙した。
「さて、レガルド殿。貴殿の『誇り』とやら、拝見しようか」
「ああ、存分にな」
レガルドが最初に出したのは、一見すると何の変哲もない、透明なコンソメスープだった。
「これは?」
「太古の昔、我ら龍族が初めて口にしたとされる『生命の泉のスープ』を再現したものだ。食材は、ドラグヘイムの霊峰の雪解け水と、そこに棲む苔だけ。余計なものは一切ない。これこそが、我らの原点だ」
ヴォルダンは黙ってスープを一口すする。その瞬間、彼の脳裏に、忘れかけていた龍族の古の記憶が蘇るような、清冽で力強い味わいが広がった。
次に出されたのは、豪快な肉料理。ドラグヘイム産のワイバーンの肉を、人間界の調理法である「低温調理」でじっくりと火を通し、最後にレガルドの炎で表面を香ばしく焼き上げたものだ。
「美味い……」ヴォルダンは、思わず唸った。龍族の力強い食材の味と、人間の繊細な技術が見事に融合している。
「だが、レガルド殿。これは龍の料理ではない。人間の知恵に魂を売った、紛い物だ」
彼は、その味を認めつつも、決して信念を曲げようとはしなかった。
そして、食後の菓子として出されたのは、小さな角砂糖のような、白く輝く砂糖菓子だった。
「ふむ、これは……」ヴォルダンはそれを口に運び、目を細めた。「この『星屑糖』の繊細な甘みは、やはり格別だな……いや、」
彼は、そこまで言ってハッと口をつぐんだ。だが、レガルドはその言葉を聞き逃さなかった。『星屑糖』は、人間の王都ルミナスでも最高級品とされ、宰相バルバロッサと繋がりの深い商人ギルドがその流通を独占しているはず。ドラグヘイムに引きこもっているはずの公爵が、なぜその味をこれほど正確に知っているのか。
ヴォルダンが複雑な表情で店を去った後、レガルドはゼノヴィオスにその違和感を伝えた。
「……面白い話じゃな。ヴォルダン公爵の領地の特産品である希少鉱石が、最近、その商人ギルドに不自然なほど安価で流れておるという噂も耳にする。金の流れを追ってみれば、何かわかるやもしれんのぅ」
ゼノヴィオスの目が、賢龍のそれへと変わった。二人の巨龍の間に、言葉なき連携が生まれる。
一方、その頃、王都ルミナスでは、ミレーユが黒い夜着に身を包み、港の闇に紛れていた。協力者ヘンドリックから得た情報通り、今夜、港の第七倉庫で宰相の密使と龍族の密使が接触するはずだ。
彼女は、かつて王宮の庭師から教わった抜け道と、侍女として培った「気配を消す技術」を駆使し、幾重にも張り巡らされた警備網を、まるで影のようにすり抜けていく。
目的の倉庫の梁の上へと忍び込んだミレーユは、息を殺して眼下を見下ろした。
そこにいたのは、宰相バルバロッサの腹心である小太りの男と、龍の鱗の装飾を身につけた、ヴォルダン公爵の腹心である精悍な龍人だった。
「……では、例の法案が可決され次第、我が主ヴォルダン公爵は、龍族評議会にて『グリュム・シティへの介入』を正式に提言いたします」
「うむ。そうなれば、我らが介入する大義名分も立つ。グリュム・シティの龍脈から得られる莫大な利権は、お約束通り、宰相閣下と公爵様とで、公平に分配させていただこう」
二人は、互いの主君の印が押された、分厚い密約書を交換した。
(……これ、ね!)
ミレーユは、その決定的な証拠を、ゼノヴィオスが開発した超小型の魔導記録機に、音も光もなく収めた。
任務完了。彼女が身を翻し、来た道を引き返そうとした、その瞬間だった。
「そこまでだ、ドブネズミめ!」
ガチャン!という音と共に、倉庫の全ての扉が一斉に閉ざされ、松明の光が焚かれた。四方八方から、宰相直属の暗殺者たちが、抜き身の刃を手に姿を現す!ミレーユの潜入は、最初から読まれていたのだ。彼女は、完全に包囲されていた。
「……やはり、そう来ましたか」
絶体絶命の状況にもかかわらず、ミレーユは少しも慌てなかった。彼女はゆっくりと振り返ると、その口元に、夜会で見せるよりもずっと蠱惑的で、そして氷のように冷たい笑みを浮かべた。
「皆様お揃いで。ですが、今宵の舞踏会にお招きいただいた覚えは、ございませんことよ?」
その瞳には、これから始まる死線を前にした、揺るぎない覚悟の光が灯っていた。




