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第30話 平穏の味、そして王都の影

「黒曜の爪」との死闘、そしてレガルドの奇跡の帰還から、季節は一度巡った。

 グリュム・シティの龍族居住区の片隅に佇む居酒屋「炎の一献」の扉を開けると、そこには以前と変わらぬ、しかし以前よりもずっと温かい喧騒が満ちていた。


「おい、そこの岩竜の旦那!あんたのそのデカい尻尾が通路を塞いでるんだよ!」

「なんだと、ドワーフの小僧!俺様の立派な尾にケチをつける気か!」

「誰が小僧だ、このトカゲ野郎!」

 カウンター席では、シリウスが屈強な龍族の常連客と、いつものように口喧嘩の花を咲かせている。だが、その声には不思議と険がなく、周りの客たちもそれを肴に楽しげに酒を酌み交わしていた。人間の商人と、翼を持つ竜人が、同じテーブルで互いの故郷の自慢をしながら笑い合っている。これこそが、レガルドが夢見た光景だった。


「キルヴァン君、12番テーブルのお客様から『炎竜の涙チャーハン』、もう一皿追加ですって!」

「うん、任せて、ミレーユお姉ちゃん!今、最高の炎で作るから!」

 厨房では、見習い料理人としてすっかり板についたキルヴァンが、小さな体で巨大な中華鍋を振るっている。レガルドがいない間に培った経験と、仲間たちに支えられた自信が、彼の放つ炎を黄金色に、そして何より優しく輝かせていた。彼の作るチャーハンは、まだレガルドの深みには及ばないが、食べる者の心をまっすぐに温める、不思議な力があった。

 ミレーユは、そんなキルヴァンの姿を女将として見守りながら、的確な指示と細やかな気配りで、店全体を切り盛りしている。その凛とした立ち姿は、もはやかつての王宮侍女の面影はなく、この店のもう一つの太陽のようだった。


 そして、その全ての光景を、厨房の奥、巨大な暖炉の前の特等席から、レガルドは静かに、そして満足げに見つめていた。

(……悪くない)

 彼は、愛用の巨大なマグカップに注がれたシリウス特製の「帰還祝いエール」を一口呷る。

(本当に、悪くない日常だ)

 世界の存亡を賭けた戦いは、もうこりごりだ。だが、あの戦いがあったからこそ、守られたこの日常が、これほどまでに愛おしいのかもしれない。


 店の賑わいが最高潮に達した頃、店の隅のテーブルで静かにお茶を飲んでいたゼノヴィオスが、ふとレガルドの元へやってきた。

「レガルド殿。ちと、耳に入れておきたい噂がある」

 その老獪な賢龍の瞳に、一瞬だけ鋭い光が宿ったのを、レガルドは見逃さなかった。


 閉店後、店の客が全て帰り、静寂が戻った「炎の一献」の奥の個室。

 レガルドとミレーユは、通信魔法用の水晶球の前に座っていた。水晶球の中には、龍王レオンの威厳ある姿が映し出されている。

『……というわけなのだ、レガルド殿』

 レオンの声は、いつになく硬かった。

『龍族の本国、ドラグヘイムで、強硬派筆頭のヴォルダン公爵が、評議会と私の融和政策を公然と批判し、支持を集めている。彼の言葉は巧みで、「人間との共存は、偉大なる龍族の魂を堕落させるものだ」と、古き龍たちの誇りを煽っているのだ』

「ヴォルダン公爵……。確かに、評議会でも彼の名の持つ影響力は無視できませんな」

 レガルドは腕を組む。ヴォルダンは、血筋も力も申し分ない、龍族の中でも指折りの大貴族だ。彼の言葉は、平和に慣れていない多くの龍族にとって、甘美な響きを持つのかもしれない。

『評議会の長である、そなたの力で、なんとか彼の翻意を促し、事態を収拾してはもらえんだろうか』

 龍王の、悲痛なほどの信頼が、レガルドの肩に重くのしかかった。


 その通信が終わった、まさに同時刻。

 ミレーユは、自室の窓辺に舞い降りた一羽の伝書鳩の足から、小さな密書を解いていた。それは、人間の王都ルミナスにいる、彼女の数少ない協力者からのものだった。

 インクの文字を追うミレーユの表情が、みるみるうちに険しくなっていく。

「……これは……」

 密書には、保守派の筆頭である宰相バルバロッサが、来る議会で「龍族管理強化法案」を提出する準備を進めている、と記されていた。それは、表向きは治安維持を目的としながらも、その実、グリュム・シティの自治権を王国が管理下に置き、共存評議会を骨抜きにしようという、あまりにも悪辣な法案だった。


 翌朝、まだ薄暗い「炎の一献」の厨房。

 レガルドとミレーユは、互いの得た情報を共有し、重い沈黙に包まれていた。

「龍族の強硬派と、人間の保守派……。この二つが、まるで示し合わせたかのように、同時に動き出すとはな」

 レガルドが、低い声で言った。

「ええ。偶然にしては、あまりにも出来すぎています。背後で何者かが糸を引いていると考えるのが、自然でしょう」

 ミレーユの冷静な分析が、事態の深刻さを浮き彫りにする。

 二人の間に、言葉は必要なかった。視線を交わすだけで、互いの覚悟は伝わっている。

「……ミレーユ殿。あんたにしか、頼めないことがある」

「はい。私が、ルミナスへ参ります。元王宮侍女として培った全てを使い、宰相の真の狙いと、その背後にあるものを探り出してご覧にいれます」

「ああ、頼んだ。俺は、評議会の長として、ヴォルダン公爵と正面から向き合おう。奴のその固い鱗の内側に隠された本心を、なんとか引きずり出してやる」


「おじさん……ミレーユお姉ちゃん……」

 話を聞いていたキルヴァンが、不安そうな顔で二人を見上げる。

 レガルドは、その小さな頭を優しく撫でた。

「心配するな、キルヴァン。お前たちには、この『炎の一献』という、俺たちの城を守ってもらわねばならん。ここが、俺とミレーユ殿が帰ってくる場所だからな」

「そうだぜ、小僧っ子」シリウスが、腕を組んで壁に寄りかかりながら言った。「ここは、俺たちの戦場だ。おかしな客が来ねえように、しっかり見張っててやるよ」

「そして、この老いぼれの耳と目も、まだ衰えてはおらん。グリュム・シティ中の情報が、この店には集まってくるからのぅ」

 ゼノヴィオスもまた、静かに頷いた。


 表の外交官レガルドと、裏の諜報員ミレーユ。そして、本陣「炎の一献」を守る、キルヴァン、シリウス、ゼノヴィオス。

 新たな戦いのための、最高のチームが再び結成された瞬間だった。

 レガルドとミレーユは、仲間たちの温かい視線に送られ、それぞれの「戦場」へと、静かに、しかし力強く、その一歩を踏み出した。

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