第20話 憎悪の檻、解き放たれる魂
「マルバスゥゥゥ!よくも私を…私の憎しみを弄んでくれたなァ!」
覚醒したアストリッドの絶叫は、もはや人間のそれではなく、深い傷を負った獣の咆哮だった。彼女は檻の鉄格子を、まるで飴細工のように捻じ曲げ、その華奢な体から信じがたいほどの紫黒色の瘴気を迸らせながら、マルバスへと躍りかかった!
その手から放たれた瘴気の刃が、指揮台を抉り、マルバスの頬を掠める。
「クソッ!あの女、私の精神支配を取り込み、己の力に変えたというのか!?出来損ないめが!」
初めて冷静な仮面を剥がし、マルバスが憎悪に顔を歪ませた。
それに呼応するかのように、「ドゥルザグ・リボーン」が制御を失い、暴走を始める。その赤い双眸はもはや誰の指示も受けておらず、ただ目の前にあるもの全てを破壊しようと、巨大な爪を振り回し、瘴気のブレスを無差別に吐き散らし始めた。
地下工房は、瞬く間に三つ巴の混沌の坩堝と化した。
仲間たち、暴走するアストリッド、そして狂った破壊兵器ドゥルザグ・リボーン。その全てをまとめて葬り去ろうと、マルバスは両手を掲げ、強力な破壊魔法の詠唱を開始する。工房全体の空気が震え、彼の足元に描かれた魔法陣が、終末を予感させる赤い光を放ち始めた。
絶体絶命。だが、この混沌こそが、唯一の活路だった。
「今よ…!敵は割れている!」
ミレーユの鋭い声が、轟音の中で響き渡った。その瞳には、恐怖ではなく、リーダーとしての決意の光が宿っている。
「キルヴァン君、あなたの炎でアストリッドさんの憎しみを鎮めて!彼女の心が静まれば、ドゥルザグの動きも変わるかもしれない!シリウスさんとゼノヴィオス様は、何としてもマルバスの詠唱を阻止してください!」
「言われるまでもねえ!」
「老骨に鞭打つかのぅ!」
シリウスとゼノヴィオスは、互いに視線を交わし、最後の力を振り絞ってマルバスへと突貫する。ミレーユの瞬時の判断を、二人は完全に信頼していた。
一方、キルヴァンは、憎悪のままに瘴気を放ち続けるアストリッドの前に、震える足で立ちはだかった。
「やめて、アストリッドさん!」
その小さな体は恐怖に震えている。だが、その瞳はまっすぐにアストリッドを見つめていた。
「そんな憎しみの力じゃ、何も守れないよ!おじさんが言ってたんだ!本当に強いのは、誰かを傷つける怒りの炎じゃない……誰かの心を温める、優しい炎なんだって!」
キルヴァンは、攻撃のためではなく、ただひたすらに祈りを込めて、純粋な白金の炎を放った。それは、アストリッドを焼くのではなく、彼女の荒れ狂う魂を優しく、しかし力強く包み込む、温かい光の奔流だった。
「な…にを……やめろ…私に触るなァァァ!」
アストリッドは抵抗し、瘴気を放つ。だが、キルヴァンの炎は、その瘴気をじわじわと浄化し、彼女の心の奥底へと浸透していく。彼女の心の中で、マルバスに植え付けられた憎悪と、家族を失った本来の悲しみ、そしてキルヴァンの温かい光が、激しく衝突を始めた。その瞳から、黒い瘴気に汚染された涙が、ぽろぽろと流れ落ちていく。
その頃、シリウスとゼノヴィオスは、マルバスとの死闘を繰り広げていた。
「レガルドの店の地下で、好き勝手させてたまるかぁぁぁッ!」
シリウスは、マルバスが展開する魔法障壁に、満身創痍の体で何度も戦斧を叩きつける。その一撃一撃が、ドワーフとしての不屈の魂の叫びだった。障壁に、少しずつだが、確かにひびが入っていく。
「風よ、音を束ね、彼の者の精神を乱せ!『賢龍のささやき』!」
ゼノヴィオスが、古の龍の言葉で呪文を詠唱する。それは、対象の五感と集中力を著しく削ぐ高等な精神干渉魔法。マルバスの眉間に深い皺が寄り、破壊魔法の詠唱の精度が、明らかに乱れ始めた。
「小賢しい真似を……!」
マルバスの集中が乱れた、その一瞬の隙を、シリウスは見逃さなかった。
「おおおおおおおっ!」
渾身の一撃が魔法障壁を粉砕!マルバスは驚愕の表情を浮かべ、その衝撃で指揮台から吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。
それと、ほぼ同時だった。
キルヴァンの温かい炎に包まれたアストリッドの動きが、ふっと止まった。彼女から放たれていた紫黒色の瘴気が、まるで夜明けの霧が晴れるかのように、急速に浄化されていく。
それに呼応するかのように、暴れ回っていたドゥルザグ・リボーンの巨体もまた、ギギギ…と不自然な音を立てて動きを鈍らせ始めたのだ。アストリッドの憎悪が、その力の源の一つだったことは明らかだった。
「今です!」
ミレーユが叫んだ。それは、仲間たちの総力を結集させる、反撃の狼煙だった。
シリウスは最後の力を振り絞ってドゥルザグ・リボーンの足元に斬りかかり、ゼノヴィオスは風の刃でその動きをさらに封じる。
そしてキルヴァンは、浄化の炎を、弱体化したドゥルザグ・リボーンの核――胸で禍々しく輝く紫黒色のクリスタル――へと集中させた。
だが、その時だった。
浄化され、正気を取り戻しつつあったアストリッドが、何かを決意したように、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや憎悪の色はなく、深い悲しみと、そして贖罪への強い意志が宿っていた。
彼女は、最後の力を振り絞って、よろめきながらもドゥルザグ・リボーンへと向かって走り出した。
「ミレーユさん……キルヴァン君……ありがとう。そして……ごめんなさい」
その小さな呟きは、誰にも聞こえなかったかもしれない。
「もう、終わらせる……私が、始めたことだから……!」
アストリッドは、ドゥルザグ・リボーンの核である紫黒色のクリスタルに向かって、ためらいなくその両手を伸ばした。彼女の体が、最後の瘴気を燃焼させるかのように、眩い光を放ち始める。それは、自らの魂ごと、この悪夢を葬り去ろうとする、あまりにも悲しい、自己犠牲の輝きだった。




