第2話 集う龍、交わらぬ想い
ミレーユが「炎の一献」の副店長として働き始めて数週間。
最初は遠巻きに見ていた龍族の客たちも、彼女のテキパキとした仕事ぶりと、龍族の文化や習慣に対する深い知識(元王宮侍女の賜物だ)に、少しずつ警戒を解き始めていた。
「ミレーユさん、この『火炎トカゲの尻尾焼き』、焼き加減が絶妙だね!あんたがレガルドにアドバイスしたのかい?」
屈強な岩竜の常連客が、満足そうに骨付き肉にかぶりつきながらミレーユに声をかける。
「いえ、それは全て店主の腕ですよ。私はただ、お客様のお好みを少しお伝えしただけですわ」
ミレーユはにこやかに微笑む。その謙虚さと的確な気配りに、レガルドも内心舌を巻いていた。人間でありながら、龍族の機微をここまで理解できるとは、大したものだ。
キルヴァンはすっかりミレーユに懐き、店の手伝いの合間には、彼女から人間の文字や計算を教わっていた。
「ミレーユお姉ちゃん、このモジモジした字、なんて読むの?」
「それは『感謝』と読みますのよ、キルヴァン君。お客様に『ありがとう』って伝える大切な言葉です」
「カンシャかー!僕も使えるようになりたいな!」
鱗に覆われた小さな指で、不格好ながらも一生懸命文字をなぞるキルヴァンを、ミレーユは優しい眼差しで見守る。その光景は、殺伐としがちな龍族の酒場に、不思議と温かい空気をもたらしていた。
シリウスは相変わらずカウンターの隅でぶっきらぼうにビールを呷っていたが、時折ミレーユの仕事ぶりに感心したような、それでいてどこか面白くなさそうな複雑な表情を浮かべていた。どうやら、ドワーフの職人気質と、人間の娘へのちょっとした対抗心がせめぎ合っているらしい。
そんな「炎の一献」に、新たな常連客が加わった。
老いた風竜のゼノヴィオスと名乗るその龍は、痩身で、全身を覆う瑠璃色の鱗には年季の入った艶があった。かつては龍族の外交官や情報収集を担っていたらしく、その知識は驚くほど豊富だった。
「レガルド殿、近頃、中央の評議会も人間の都市開発に関して少しナーバスになっておるようだ。グリュム・シティの『共存特区』としての立場も、安泰とは言えんかもしれんな」
ゼノヴィオスは、レガルドが淹れた薬草茶をすすりながら、低い声で囁く。レガルドにとっては、シリウスとはまた違った意味で頼りになる情報源であり、良き話し相手だった。
ミレーユもまた、ゼノヴィオスの博識ぶりに目を輝かせた。
「ゼノヴィオス様、古代魔法文明期における竜族と人間の交易記録について、もう少し詳しくお聞かせ願えませんか?」
「ほう、ミレーユ嬢は向学心がおありじゃな。よろしい、あれは忘れもしない三百年前の……いや、人間の寿命からすると、ちと長すぎる話かのぅ、ふぉっふぉっふぉ」
穏やかな笑い声と共に語られるゼノヴィオスの話は、ミレーユの知的好奇心を刺激し、店の知恵袋のような存在になっていった。
その日、店の雰囲気はいつになくピリついていた。
原因は、数人の若い炎竜を引き連れて来店した一団。その中心にいるのは、燃えるような紅蓮の鱗を持つ、グレンと名乗る若き龍だった。鋭い眼光は挑戦的に店内を見渡し、人間のミレーユが龍族の客に指示を出している姿を捉えると、あからさまに眉をひそめた。
「おい、レガルドとやらはどこだ!こんな人間の小娘に店を任せるとは、龍族の誇りを忘れたか!」
グレンの怒声が店内に響き渡る。他の客たちも何事かと動きを止め、キルヴァンはレガルドの後ろに隠れるように身をすくめた。
「私が店主のレガルドだが。人間の小娘、とは聞き捨てならんな。彼女は副店長のミレーユだ」
レガルドは静かに、だが威圧感を込めて答える。
「副店長だと?笑わせるな!我ら偉大なる龍族が、なぜ矮小な人間に指図されねばならんのだ!ここは龍族のための店だろうが!」
グレンは拳をカウンターに叩きつける。その衝撃で、いくつかの杯がカタカタと音を立てた。
「我々は人間と馴れ合うためにこの街に来たわけではない!力を示し、人間を支配…いや、少なくとも対等以上の立場を認めさせるべきだ!お前のように人間にへりくだるなど、龍族の恥だ!」
グレンの仲間たちも「そうだそうだ!」と囃し立て、店内は一触即発の空気に包まれた。
「へりくだっているつもりはない。俺は、ただ美味いものを出し、客が安らげる場所を提供したいだけだ。それが龍族だろうと、いずれは人間だろうと変わらん」とレガルド。
ミレーユが一歩前に進み出た。「グレン様、と申されましたか。私は確かに人間です。ですが、種族の違いが、互いを理解し合うことを妨げる理由になるとは思いませんわ。この店は、そのための小さな一歩だと信じております」
その凛とした態度に、グレンは一瞬言葉を失うが、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。
「小娘が綺麗事を!お前たち人間に、我ら龍族の誇りが理解できるものか!」
「まぁまぁ、グレン殿。そう熱くなられずとも」
割って入ったのはゼノヴィオスだった。
「歴史を紐解けば、異種族排斥がもたらした悲劇は数限りない。互いの違いを認め、尊重するところからしか、真の力は生まれんものじゃよ」
「やかましい、古狸が!そんな悠長なことを言っているから、人間どもに付け入られるのだ!」
グレンは聞く耳を持たない。
「うるせえなぁ!」
ガシャン!とシリウスがエールのジョッキを叩きつけた。
「飲むか食うか、どっちかにしやがれ!くだらねえおしゃべりは他所でやれ!」
ドワーフの一喝に、さすがのグレンも少し気圧されたようだ。
レガルドは、燃え盛る暖炉の炎を見つめ、静かに口を開いた。
「グレン。お前の言い分も分からんでもない。龍族としての誇り、力への渇望……若い頃の俺にもあった」
意外な言葉に、グレンが顔を上げる。
「ならば、だ。お前がそこまで言うのなら、お前たち龍族だけが心の底から納得できるような、特別な料理をこの俺が作ってやろう。それで俺の覚悟を示し、お前たちの異議に答えようじゃないか」
レガルドの目は、古代竜のそれに戻っていた。揺らめく炎を映し、底知れぬ力と覚悟を秘めた瞳だ。
「……面白い。受けて立ってやるぜ、元・大老竜殿」
グレンは不敵な笑みを浮かべ、その挑戦を真っ向から受け止めた。店内の緊張は、新たな期待感へと静かに変化していく。その夜は、それ以上の騒ぎは起こらず、グレンたちはひとまず引き上げていった。
数日後の昼下がり、店に小さな騒動が持ち込まれた。
「うわーん!ママー!」
「炎の一献」の入り口で、人間の子供――五歳くらいの男の子が、大きな瞳に涙をいっぱいためて泣いていたのだ。どうやら龍族居住区に迷い込んでしまったらしい。
屈強な龍族の客たちは、小さな人間にどう接していいか分からず、遠巻きに見ているだけだ。中には、「人間の子など、さっさと追い出せ」と眉をひそめる者もいる。
「まあ、大変!」
ミレーユが駆け寄り、優しく子供に目線を合わせる。
「坊や、どうしたの?お母様とはぐれてしまったのね?」
子供はこくりと頷き、さらに大きな声で泣き出した。
言葉が通じないキルヴァンも、おろおろしながら近寄ってくる。そして、おもむろに口から小さな、ほんのりと温かいだけの炎を出し、それを蝶のようにひらひらと飛ばせて見せた。泣いていた子供は、その不思議な光景に一瞬泣き止み、小さな炎の蝶を目で追った。
「わぁ……」
ミレーユは微笑み、子供の頭を撫でる。「大丈夫よ、きっとお母様が見つかるわ」
しばらくして、血相を変えた人間の女性が店に飛び込んできた。迷子の母親だった。
「この子ったら、本当にご迷惑をおかけして……!助けていただいて、ありがとうございます!」
母親はミレーユと、そしてレガルドにも深々と頭を下げた。龍族の店に入るのは勇気がいっただろうに。
「いえ、お気になさらず」
レガルドが応じると、母親は子供の手を引き、何度も振り返りながら去っていった。
その一部始終を、店の隅でグレンが苦々しい表情で見ていたのは、レガルドもミレーユも気づいていた。共存への道は、まだ始まったばかり。だが、キルヴァンの小さな炎の蝶が、ほんの少しだけ、暗い洞窟の中に温かい光を灯したような気がした。