第16話 地下からの呼び声、蠢く残滓
レガルドが霧隠れ山脈の虚無へと消えてから、季節は一度巡った。「炎の一献」は、あの悲劇を乗り越え、新たな主たちのもとで細々と、しかし確実に灯をともし続けていた。
厨房に立つのは、見習い料理人キルヴァン。彼の背丈は少し伸び、声変わりも始まろうとしていたが、レガルドの巨大な調理器具を前にすれば、まだまだ小さな龍の子だ。
「うわっちゃ!また焦がしちゃった!」
キルヴァンが、黒煙を上げるフライパンを前に悲鳴を上げる。今日の賄いは、レガルド直伝の「炎竜の涙チャーハン」だったはずが、どう見ても「黒炭チャーハン」だ。
「何度言ったら分かるんだ、小僧っ子!炎の料理は火力が命だが、それだけじゃただの炭焼きだっつってんだろ!」
カウンターから、シリウスの雷が落ちる。彼は相変わらず辛口な味見役だが、最近ではキルヴァンにドワーフ式の火力の調整法をこっそり教えたりもしていた。
「キルヴァン君、大丈夫。次はきっと上手くいくわ。ほら、ここの部分はまだ食べられそうよ」
ミレーユが優しく声をかけ、焦げたチャーハンの中から食べられそうな部分をレンゲで掬う。彼女は女将として店を切り盛りしながら、キルヴァンの母親代わりのような存在にもなっていた。
ゼノヴィオスは、店の隅で薬草茶をすすりながら、微笑ましげにその光景を眺めている。
「ふぉっふぉっふぉ、レガルド殿が見たら、何と言うかのぅ。じゃが、あのチャーハンの魂は、確かに受け継がれておるようじゃ」
常連客たちも、キルヴァンの奮闘を温かく見守っていた。
「よう、チビ料理長!今日のオススメは何だ?」
「レガルドの旦那の味にはまだ敵わねえが、お前の料理はなんだか元気になるぜ!」
そんな声援が、キルヴァンの何よりの励みだった。
時折、グレンも一人でふらりと店に現れ、黙ってカウンターの隅に座り、キルヴァンの料理を注文する。以前のような刺々しさは消え、どこかレガルドの不在を惜しむような、複雑な表情で料理を口に運んでいた。
一方、ミレーユは政府アドバイザーとしての仕事にも忙殺されていた。聖域崩壊後、グリュム・シティ周辺の魔力バランスは不安定になり、これまで大人しかった魔獣が凶暴化したり、龍族と人間の居住区間で小競り合いが頻発したりと、問題は山積みだった。
「……この地域の龍脈の乱れが、魔獣の活性化を招いていると考えられます。評議会として、早急に龍脈安定化のための専門家チームを派遣すべきです!」
ミレーユは、評議会の席で臆することなく発言する。そこにはもう、かつての王宮侍女の控えめな姿はなく、困難に立ち向かう強い意志を持った一人の女性がいた。龍王レオンも、そんな彼女の活動を高く評価し、評議会を通じて最大限の支援を約束していた。
しかし、人間保守団体の残党や、一部の龍族保守派からの横槍は絶えず、ミレーユは心身ともに疲弊することも少なくなかった。(レガルド様がいらっしゃれば、もっと上手く……)そんな弱音が胸をよぎることもあったが、彼女はすぐに首を振る。彼が帰ってくる場所を守るためにも、自分がここで踏ん張らなくてはならないのだと。
そんなある日、ゼノヴィオスが深刻な顔でミレーユに耳打ちした。
「ミレーユ嬢、ちと厄介な噂を耳にした。どうやら『黒曜の爪』の残党どもが、このグリュム・シティの地下深くで、何かを探し回っておるらしいのじゃ」
「地下……ですか?一体何を……」
「分からん。じゃが、奴らが嗅ぎ回るということは、ろくなことではないはずじゃ。『終焉の黒龍』の力の残滓か、あるいは、聖域とは別の、何か古の遺物か……」
アストリッドの行方については、依然として杳として知れなかった。ゼノヴィオスの情報網によれば、彼女は「黒曜の爪」に裏切られ、組織の秘密を知りすぎたためにどこかに幽閉されている、という説が有力だったが、確証はなかった。
その頃から、霧隠れ山脈のクレーターから立ち昇る黄金の光の柱に、奇妙な変化が現れ始めていた。時折、まるで心臓が脈打つかのように、柱の光が強く輝いたり、逆に弱々しくなったりするのだ。
その度に、キルヴァンは胸騒ぎを覚えた。
「……おじさんの声が……ううん、おじさんの心が、何かを伝えようとしてる気がするんだ……」
夜、眠りにつくと、キルヴァンは決まって夢を見た。広大な黄金色の光の中で、レガルドが優しく微笑みながら、彼に料理を教えてくれる夢。あるいは、何か大切なものを託されるような、不思議な夢を。それは単なる願望が見せる幻なのか、それとも……。
そして、その予感は、現実の脅威となって彼らに忍び寄ってきた。
グリュム・シティの地下で、原因不明の小規模な陥没事故が頻発し始めたのだ。夜になると、地面の底から奇妙な鳴き声や、何かが蠢くような不気味な音が聞こえてくるという報告も相次いだ。
「ゼノヴィオス様の仰っていた、『黒曜の爪』の地下での活動と関係があるのでしょうか……」
ミレーユは不安を隠せない。
ある晩、閉店後の「炎の一献」。キルヴァンが、地下の貯蔵庫へ食材を取りに行った時のことだった。元は洞窟の一部だったその場所の、奥の壁際から、微かな地響きと共に、何者かの苦しそうな呻き声のようなものが聞こえてきたのだ。
「ひっ……!?」
キルヴァンは飛び上がらんばかりに驚き、慌ててミレーユたちを呼びに行った。
四人が緊張した面持ちで地下貯蔵庫の壁を見つめる。シリウスが耳を澄ます。
「……確かに、何かいるみてえだな。それも、かなりデカい何かが……」
その時、壁の古びた亀裂から、プシュウ、という音と共に、紫黒色の瘴気が微かに漏れ出しているのを、ミレーユの鋭い目が捉えた!
「この瘴気は……まさか!」
それは、あの霧隠れ山脈の聖域で感じた、「黒曜の爪」の邪悪な気配と酷似していた。
地下に潜む新たな脅威。あるいは、「黒曜の爪」が仕掛けた巧妙な罠。
「炎の一献」の、そしてグリュム・シティの平穏が、再び得体の知れない闇によって脅かされようとしていた。