第15話 残された灯火、夜明けへの誓い
聖域の崩壊から数日が過ぎた。「炎の一献」の扉は固く閉ざされたままだ。かつて龍族たちの陽気な声と美味そうな料理の匂いで満ちていた店内は、今はただ重苦しい沈黙に支配されている。暖炉の炎も消えかかり、まるで店の魂が抜け殻になったかのようだった。
ミレーユは、レガルドがいつも座っていたカウンター席に力なく腰を下ろし、虚空を見つめていた。あの霧隠れ山脈のクレーターから、今もなお天へと細く立ち昇る黄金色の光の柱。あれが、レガルドの魂の輝きだと信じたい。だが、彼の温もりも、あの豪快な笑い声も、もうここにはない。その事実が、鋭い刃のように彼女の胸を抉る。
キルヴァンは、レガルドの厨房に閉じこもっていた。レガルドが愛用していた巨大な中華鍋や、使い込まれた包丁の数々。そこに残る微かな残り香を嗅ぐたびに、大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。「おじさん……おじさんの作った、あの辛くてうまい溶岩焼きそば……もう食べられないの……?」嗚咽が、がらんとした厨房に虚しく響いた。
シリウスは、黙々と店の隅でエール樽の手入れをしていた。その背中は普段よりも小さく見え、頑固なドワーフの顔には深い悲しみの色が刻まれている。ゼノヴィオスは、窓辺に座り、ただ静かに霧隠れ山脈の方角を眺めていた。その賢者のような瞳にも、やり場のない無力感が漂っている。
そんな重苦しい日々を破ったのは、龍王レオンその人の来訪だった。
「……レガルド殿の犠牲は、決して無駄にはせぬ」
店の奥、かつてレガルドが龍王と対峙した場所に立ったレオンは、静かに、しかし力強く言った。その声には、深い哀悼の念と、王としての責任感が滲んでいる。
「霧隠れ山脈の黄金の光柱……あれは、レガルド殿の強靭な魂が、『終焉の黒龍』の完全な顕現を今もなお抑え込み続けている証であろう。あるいは、いつか彼が還るべき場所を示す道標なのかもしれぬ。龍王庁の学者たちも、あの聖域には近づけぬと言っておる」
その言葉は、仲間たちにとって、ほんのわずかな慰めであり、同時に果てしない絶望でもあった。
評議会準備会合は、レガルドという大きな柱を失い、一時混乱の極みに達した。だが、彼の犠牲と、「黒曜の爪」という共通の脅威を前に、人間側も龍族側も、いつまでもいがみ合ってはいられないことを悟り始めていた。ミレーユは、悲しみを押し殺し、レガルドの遺志を継ぐべく、アドバイザーとして評議会に積極的に関わり始めた。彼女の的確な分析と、両種族への深い理解は、混乱する評議会に新たな方向性を示しつつあった。
意外なことに、グレンもまた、評議会で以前のような頭ごなしの人間批判を口にしなくなっていた。聖域でのレガルドの戦いぶり、そしてその自己犠牲的な行動が、彼の頑なな心を少しずつ溶かし始めているのかもしれない。
ゼノヴィオスの情報網と評議会の調査により、「黒曜の爪」の残党が、まだグリュム・シティの暗部で活動を続けていることが明らかになってきた。ドゥルザグを操っていた女の声の主の正体は依然として謎に包まれているが、人間保守団体のリーダーだったアストリッドは、聖域の事件以降、完全に消息を絶っていた。彼女もまた、「黒曜の爪」に利用され、そして始末されたのだろうか……。
さらに、聖域崩壊の影響か、グリュム・シティ周辺では魔力の流れが不安定になり、これまで大人しかった魔獣が活性化したり、原因不明の異常気象が観測されたりし始めていた。「終焉の黒龍」の脅威は、形を変えてじわじわと世界を蝕み始めているのかもしれない。
その夜、「炎の一献」の薄暗い店内で、残された四人は小さなランプを囲んでいた。
「……この店、どうする?」
最初に口を開いたのはシリウスだった。その声は、いつになく弱々しい。
「レガルドの野郎がいねえんじゃ、もう……」
沈黙が続く。ミレーユが、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、涙の跡があったが、今はもう迷いの色はなかった。
「……私は、この店を続けたいと思います」
「ミレーユ殿……?」
「ここは、レガルド様が命をかけて守ろうとした場所です。彼が夢見た、人間も龍族も、誰もが心から笑い合える場所。その灯火を、私たちが消してしまっていいはずがありません」
その言葉に、キルヴァンが顔を上げた。その目は真っ赤に腫れていたが、強い光が宿っていた。
「僕も……僕も、ミレーユお姉ちゃんと一緒にやる!僕、おじさんの料理の味、全部覚えてるんだ!僕が、おじさんの代わりに『炎の一献』の料理を作る!」
それは、まだ幼い龍の、しかし魂からの叫びだった。
シリウスが、ふん、と鼻を鳴らした。
「……勝手にしやがれ。だがな、レガルドの野郎がいつ帰ってきてもいいように、最高のドラゴンビールだけは、この俺が切らさずに醸造し続けてやるぜ」
ぶっきらぼうな言葉の裏に、彼の決意が滲んでいた。
ゼノヴィオスもまた、静かに頷いた。
「よろしい。ならば、この老いぼれも、知恵と、そして時には昔取った杵柄で、お主たちを手伝わせていただこうかのぅ」
翌日、「炎の一献」の扉が、久しぶりに開かれた。
女将として店を切り盛りするのはミレーユ。その凛とした立ち姿は、どこかレガルドの面影を感じさせた。厨房に立つのは、小さな見習い料理人キルヴァン。レガルドの巨大な調理器具に悪戦苦闘しながらも、その顔は真剣そのものだ。シリウスは黙々とカウンターを磨き、ゼノヴィオスは客の話し相手をしながら、店の隅々まで気を配っている。
常連客たちも、レガルドの不在を惜しみながらも、彼らが守ろうとする店の灯火を温かく見守っていた。
キルヴァンの作る料理は、まだレガルドの足元にも及ばない。時には焦げ付いたり、味が濃すぎたりもする。だが、その一皿一皿には、亡き(あるいは、いつか帰ってくる)店主への想いと、客への精一杯の感謝の気持ちが込められていた。そして不思議なことに、その不器用な料理は、どこかレガルドの料理の魂を受け継いでいるかのように、食べる者の心を温かくするのだった。
閉店後、ミレーユとキルヴァンが二人で厨房を掃除している。
「ふぅ、今日も疲れたね、キルヴァン君」
「うん!でも、お客さんが美味しいって言ってくれた時、すっごく嬉しかったんだ!」
キルヴァンの顔には、疲労と共に確かな充実感が浮かんでいる。
ふと、キルヴァンが小さな声で呟いた。
「……おじさん、いつ帰ってくるかな……」
ミレーユは、その小さな頭を優しく撫でた。
「……きっと、帰ってくるわ。あの黄金の光が、霧隠れ山脈の空から消えない限り。私たちは、信じて待ちましょう。そして、彼が帰ってきた時に、胸を張ってこの『炎の一献』を見せられるように」
窓の外には、遠く霧隠れ山脈の方角に、夜空を貫いて変わらず立ち昇る、細く、しかし力強い黄金の光の柱が見えていた。
それは、希望の光なのか、それとも、まだ終わらぬ戦いの狼煙なのか。
答えは風の中だったが、「炎の一献」の新たな灯火は、確かに、夜明けを待つグリュム・シティを照らし始めていた。




