第14話 虚無への飛翔、魂の灯火
「待て、ゼノヴィオス殿!」
レガルドの叫びは、崩壊し続ける聖域の轟音にかき消されそうだった。だが、その瞳に宿る決意の光は、いかなる闇よりも強烈だった。
「まだだ……まだ、終わらせるわけにはいかない!」
彼は、崩れ落ちるドゥルザグの巨体を足場に、一瞬の逡巡もなく、祭壇の奥で渦巻く「終焉の黒龍」の顕現――虚無の闇そのものへと、その身を躍らせた!
「レガルド様ッ!」「おじさんッ!」
ミレーユとキルヴァンの悲痛な叫びが、聖域に木霊する。シリウスもゼノヴィオスも、そのあまりに無謀な行動に言葉を失った。
(友よ、約束の重さを、今こそ俺の魂で受け止めよう……!ミレーユ殿、キルヴァン、シリウス、ゼノヴィオス殿……達者でな……!)
レガルドの心に、仲間たちの顔が次々と浮かんで消える。それは、彼がこの世界で得た、かけがえのない宝物だった。
虚無の闇へと飛び込んだレガルドを待ち受けていたのは、物理的な抵抗ではなかった。そこは、形も方向も時間さえも曖昧な、純粋な破壊の意志と混沌とした負のエネルギーが渦巻く、魂の深淵。全身が押し潰されそうなプレッシャーの中、レガルドは「終焉の黒龍」の巨大な意識の奔流と対峙した。それは、ただひたすらに全てを無に帰そうとする、絶対的な絶望の化身だった。
(これが……終焉の黒龍……!)
武力では抗えない。ならば――!
レガルドは、自身の魂の奥底から、黄金色のオーラを最大限に燃え上がらせた。それは、彼が生きてきた三百年の記憶、料理への情熱、仲間たちとの絆、そして何よりも、亡き龍王と交わした「炉辺の約束」――共存への揺るぎない願い――その全てを凝縮した光だった。
「俺の魂がお前の器となるなら……この身ごと、お前を再び封じてみせるッ!」
古代竜にのみ伝わるという、身を賭した封印の秘術。それは、成功すれば相手を封じ込めるが、術者の魂もまた永遠に闇に囚われるという諸刃の剣だった。
一方、聖域の外では、残された仲間たちが絶望的な状況に抗っていた。
「レガルド様……レガルド様ぁぁッ!」
ミレーユは、崩れ落ちる岩屑の中で、ただレガルドの名を叫び続けることしかできなかった。その頬を伝うのは、雨のような涙。
「おじさぁぁぁん!」
キルヴァンの小さな体から放たれる白金の炎は、もはや戦闘のためではなかった。それは、まるで闇に囚われたレガルドを導く灯台の光のように、虚無の闇の入り口で必死に揺らめき、燃え続けていた。その清浄な光が、レガルドの魂の戦いに、ほんのわずかでも力を与えているかのようだった。
「レガルドの野郎……死ぬんじゃねえぞ……絶対に、帰ってこいよぉぉッ!」
シリウスは、次々と落下してくる岩盤からミレーユとキルヴァンを庇いながら、柄にもなく涙声で叫んでいた。
「レガルド殿が……あやつが、時間を稼いでくれておるうちに……!」
ゼノヴィオスは、震える手で古びた転移の魔石を握りしめ、最後の魔力を振り絞って起動を試みる。だが、聖域全体の魔力の流れが「終焉の黒龍」の奔流によって著しく乱され、転移魔法は不安定な明滅を繰り返すばかりだった。
その時、虚無の闇の奥から、ドゥルザグを操っていた女の声の主の、断末魔にも似た絶叫が微かに響いてきた。
「おのれ……おのれ古代竜め……だが、もはや遅い……封印は……完全に……ああああああっ!」
その声は、レガルドの黄金の光によって浄化されたのか、あるいは「終焉の黒龍」の制御不能な力に飲み込まれたのか、途中で不自然に途切れ、そして完全に掻き消えた。
直後、レガルドの黄金のオーラと、キルヴァンの白金の炎が強く共鳴し合い、一瞬、虚無の闇を貫くかのような凄まじい光芒が迸った!
聖域全体が、これまでで最も激しい揺れに見舞われ、天も地も裂けるかのような轟音が鳴り響く。
「今じゃッ!」
ゼノヴィオスの叫びと共に、彼の持つ転移の魔石が眩い光を放った。不安定ながらも、魔法は発動したのだ!
ミレーユ、キルヴァン、シリウス、そしてゼノヴィオス自身が、抗いがたい力で光の中に引きずり込まれていく。
「レガルド様ァァァッ!」
ミレーユの最後の叫びが、崩壊する聖域に虚しく響いた。
どれほどの時間が経ったのか。
ミレーユたちが意識を取り戻したのは、霧隠れ山脈の麓に近い、比較的安全な森の中だった。転移魔法の衝撃で、全員が地面に倒れ伏している。
「……ここは……?」
ミレーユが最初に身を起こし、周囲を見渡した。キルヴァンは気を失っており、シリウスもゼノヴィオスもぐったりとしているが、幸い命に別状はなさそうだ。
そして、彼女は息をのんだ。
霧隠れ山脈――かつて「古の龍の聖域」があったはずの場所は、その山頂部分がごっそりと抉り取られ、まるで巨大な隕石が落下したかのような、禍々しいクレーターへと変貌していたのだ。もうもうと黒い煙が立ち上り、焦げ付くような異臭が風に乗って運ばれてくる。
「終焉の黒龍」の圧倒的な気配は、不思議と消え失せているように感じられた。だが、代わりに、そこには言い知れぬ喪失感と、不気味なまでの静寂が広がっているだけだった。
レガルドの姿は、どこにもなかった。
彼の温かい炎も、力強い声も、もう感じられない。
ただ、クレーターの中心から、空に向かって一条の、細く、しかしどこまでも清浄な黄金色の光の柱が、まるで道しるべのように、静かに立ち昇っているのが見えた。
それは、まるで古代竜の魂が、最後の力を振り絞って何かを成し遂げた証のようにも、あるいは、いつか帰る場所を示す道標のようにも見えた。
ミレーユは、その光を見つめながら、ただ静かに涙を流し続けた。
「レガルド……様……」
「炎の一献」の店主、古代竜レガルド。彼の戦いは、本当に終わってしまったのだろうか。
そして、「終焉の黒龍」の脅威は、本当に去ったのだろうか。
答えは、まだ誰にも分からなかった。




