第12話 深淵の咆哮、古の龍の覚醒
祭壇の奥、霧の残滓が渦巻く影の中から、ズシリ、ズシリ、と地響きにも似た重い足音が近づいてくる。それは先ほどの異形の群れとは比較にならない、圧倒的な質量と威圧感を伴っていた。そして、闇の中にぼんやりと浮かび上がったのは、二つの巨大な、燃え盛る炭火のごとき赤い光点――何者かの両目だった。
「……な、なんだ……ありゃあ……」
シリウスが、普段の豪胆さも忘れ、呆然と呟いた。戦斧を握るその手に、じっとりと汗が滲んでいる。
キルヴァンは、レガルドの背後に隠れながらも、恐怖で全身の鱗が総毛立つような感覚に襲われ、小さな悲鳴すら上げられずにいた。
やがて、その全貌がゆらりと霧の中から姿を現した。
それは、まさしく龍と呼ぶべき存在だった。だが、レガルドやゼノヴィオスのような優美さや気高さとは無縁の、禍々しさと破壊の意思だけを凝縮したかのような異形の龍だった。全身を覆うのは、黒曜石を砕いて塗りたくったかのような、鈍くも鋭利な光沢を放つ鱗。通常の龍よりも遥かに巨大な体躯は歪にねじくれ、背中からは骨のような突起がいくつも突き出し、その先端からは紫黒色の瘴気がゆらめいている。そして何より目を引くのは、その頭部。角は折れ、片目は潰れて赤い宝石のようなものが埋め込まれ、残ったもう一方の瞳だけが、底知れぬ憎悪と狂気をたたえて赤く燃え盛っていた。
「グ……ルルルルル……アアアアアッ!」
その異形の龍が発した咆哮は、空気を震わせ、聖域の岩壁をビリビリと揺るがす。それは、レガルドたちに向けられた明確な殺意の波動だった。
「こ、こいつは……まさか、古代の文献に記されていた『魂喰らいのドゥルザグ』……!?『黒曜の爪』め、こんなものを呼び覚ましおったか!」
ゼノヴィオスが、かつてないほどの驚愕と焦燥を声に滲ませる。ドゥルザグ――それは太古の昔、龍族同士の戦争で禁断の魔術によって生み出され、あまりの凶暴さゆえに歴代の龍王たちによってこの聖域の奥深くに封印されたとされる、伝説の破壊龍だった。
「問答無用、というわけか!」
レガルドは歯を食いしばり、仲間たちを庇うように一歩前に出た。ドゥルザグは、その巨体に見合わぬ俊敏さで突進してくる!
「キルヴァン、ミレーユ!下がっていろ!」
レガルドが叫ぶと同時に、ドゥルザグの巨大な爪が振り下ろされた。轟音と共に地面が砕け、土煙が舞い上がる。レガルドは辛うじてそれを避けたが、頬を掠めた爪先が、赤い傷痕を残した。
「お、おじさん!」
「シリウス!ゼノヴィオス殿!援護を頼む!」
レガルドは人型のままながらも、その全身から古代竜の闘気を立ち昇らせる。もはや悠長に龍の姿に戻っている暇はない。
「任せろやあ!」
シリウスが雄叫びを上げ、戦斧を構えてドゥルザグの側面に回り込もうとするが、ドゥルザグの蛇のようにしなる尾の一撃で、いとも簡単に吹き飛ばされてしまう。
「ぐはっ!」
岩壁に叩きつけられ、シリウスが呻き声を上げる。
「シリウスさん!」ミレーユが叫ぶ。
「風よ、彼の邪眼をくらませ!」ゼノヴィオスが風の魔法を放つが、ドゥルザグの全身から立ち上る瘴気がそれを掻き消してしまう。これまでの異形の怪物とは、格が違いすぎた。
「ミレーユお姉ちゃん、危ない!」
ドゥルザグの赤い瞳が、後方で負傷者の救護にあたろうとしていたミレーユを捉えた。その口から、紫黒色の瘴気のブレスが放たれようとした瞬間、キルヴァンが恐怖を振り絞って二人の間に飛び込み、ありったけの炎を盾のように展開した!
「僕が……僕が守るんだ!」
キルヴァンの炎は瘴気のブレスと激しく衝突し、爆音と共に霧散する。キルヴァン自身もその衝撃で吹き飛ばされ、地面を転がったが、ミレーユへの直撃は防いだ。
「キルヴァン君!」
ミレーユが駆け寄る。キルヴァンは弱々しくも「だ、大丈夫だよ……」と呟いたが、その小さな体は限界に近かった。
仲間たちが次々と傷つき、倒れていく。レガルドの心に、過去の戦場で味わった絶望と無力感が、黒い靄のように蘇り始める。また、守れないのか。この手で、何もかも……。
(ダメだ……!今、俺が折れたら、全てが終わる!)
キルヴァンが吹き飛ばされたのを見た瞬間、レガルドの中で何かが臨界点を超えた。
「……もう誰も、失わせはしない……絶対にだッ!」
彼の全身から、黄金色のオーラが激しく噴き出した。その瞳は燃えるような金色に変わり、額には微かに龍の角が、腕や背中には強靭な龍の鱗が部分的に浮き上がり始める。それは完全な龍化ではなかったが、人型のまま古代竜の力の一部を強引に引きずり出した、危険な状態だった。周囲の瘴気が、その圧倒的な気の奔流に吹き飛ばされていく。
「グオオオオオオオッ!」
レガルドは、もはや人間の声とは思えぬ咆哮を上げ、ドゥルザグへと猛然と突進した!
「な、なんだあの力は……!?」ドゥルザグを操っているのか、あるいはその魂と融合しているのか、異形の龍の奥から、これまでとは違う、人間の女の声が響いた。「まさか、古代竜の『魂の顕現』だと……!?忌々しい……!」
その声は、どこかアストリッドに似ているようでもあったが、より老獪で、邪悪な響きを帯びていた。
力を部分解放したレガルドの動きは、先ほどまでとは比較にならないほど速く、そして重かった。ドゥルザグの鱗に拳を叩き込むたびに、鈍い衝撃音と共に火花が散る。聖域の岩壁が崩れ、大地が激しく震えるほどの死闘が繰り広げられた。
「目覚めよ……目覚めよ……!古の……破滅の龍よ!」
ドゥルザグの奥から響く女の声が、呪文のような言葉を唱え始める。すると、聖域の祭壇が禍々しい紫色の光を放ち始め、地面に亀裂が走り、そこからさらに濃密な瘴気が噴き出し始めた!
「まずい!奴ら、この聖域に封じられた何かを、完全に解き放とうとしている!」
ゼノヴィオスが叫ぶ。石碑に刻まれた古代龍の文字が、警告を発するかのように明滅を繰り返している。
「封印されているのは……この星の生命力を喰らう、原初の災厄……『終焉の黒龍』……!」
ミレーユが、どこかで読んだ禁断の文献の記述を思い出し、戦慄と共に叫んだ。
「それを復活させるのが、『黒曜の爪』の目的なのね!」
「そうだ……そして、お前たちはその生贄となるのだ!」
ドゥルザグの奥から響く女の声が高らかに哄笑する。祭壇の亀裂はますます広がり、そこから巨大な、黒曜石よりも暗い、絶望そのものを具現化したかのような巨大な爪が、ゆっくりと姿を現し始めていた……!
「おじさん、危ない!」
キルヴァンが最後の力を振り絞って叫ぶ。
レガルドは、ドゥルザグと激しく打ち合いながらも、その絶望的な光景を目の当たりにする。仲間たちの疲弊しきった顔、そして、まさに生まれ出でんとする、世界の終焉を告げるかのような邪龍の爪……。
(ここで……終わらせるわけには、いかないッ!)
レガルドは渾身の力を込めて、黄金色のオーラを右拳に集中させた。それは、彼の魂そのものを燃焼させるかのような、最後の一撃だった。