第10話 聖域の呼び声、動き出す陰謀
「――以上が、昨夜発生したミレーユ副店長襲撃事件、ならびに『黒曜の爪』に関する現状報告です」
翌朝、レガルドは龍王レオンとの緊急通信魔法で、昨夜の一部始終を報告した。水晶球に映るレオンの表情は冷静沈着だったが、その瑠璃色の瞳の奥には、地殻のマグマのような激しい怒りが宿っているのが見て取れた。
「『黒曜の爪』……忌まわしき古の亡霊どもが、再び動き出したというのか。許しがたい暴挙だ。レガルド殿、直ちに評議会準備会合を招集し、この件を最優先事項として対策を協議せよ。人間、龍族、双方の総力を挙げて奴らを殲滅する」
龍王の言葉は、絶対的な決意に満ちていた。
その日の午後に開かれた評議会準備会合は、まさに蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
「やはり龍族内部の過激派の仕業ではないのか!」「いや、これは人間側の秘密組織が、我ら龍族を陥れるための陰謀だ!」
人間側と龍族側の代表たちが互いを非難し合い、議場は怒号と不信感で満ち溢れた。特にグレンのような龍族保守派は、これを機に人間との共存政策そのものを見直すべきだと息巻いている。
「静まれいッ!」
レガルドの一喝が、議場を震わせた。古代竜の威厳を乗せたその声に、騒いでいた者たちも思わず口をつぐむ。
「我々の敵は、人間でも龍族でもない。双方の共存を破壊し、このグリュム・シティを、いや、世界を再び混沌に陥れようとする悪意そのもの――『黒曜の爪』だ!今こそ、種族の違いを超えて手を取り合い、この共通の脅威に立ち向かうべき時ではないのか!」
レガルドの言葉に続き、ミレーユも自身の体験を冷静に、しかし力強く語った。襲撃者たちの異様さ、そして彼らが残した「黒曜の爪」の紋章。それは、紛れもない事実だった。
徐々にではあるが、議場には冷静さが戻り始め、共通の敵に対する危機感が共有されつつあった。
「炎の一献」は、図らずも新たな顔を見せ始めていた。夜になると、評議会関係者――人間も龍族も――が、情報交換や密談のために店の隅のテーブルを囲むようになったのだ。
「おいレガルド、うちはいつからスパイの酒場になったんだ? 俺はただ、美味いビールが飲める静かな店がやりてえだけなんだがな」
シリウスはカウンターで巨大なジョッキを磨きながら不満げにぼやくが、その目は店の入り口を鋭く監視し、不審な者への警戒を怠ってはいない。
キルヴァンは、そんな店の変化に戸惑いつつも、レガルドやゼノヴィオスから、より実戦的な炎のコントロール――例えば、煙幕を張る炎や、特定の場所だけを照らす灯りの炎など――や、敵の気配を察知する感覚を学び始めていた。ミレーユも、時間を見つけてはキルヴァンに護身術の基礎を教えている。
「ミレーユお姉ちゃんの技、カッコイイ! 僕も強くなって、今度こそみんなを守るんだ!」
その小さな胸には、確かな決意が燃えていた。
一方、ミレーユは政府アドバイザーとして、過去の文献や類似事件の報告書を渉猟し、「黒曜の爪」に関する情報を集めていた。彼らは太古の時代、強大な龍の力を悪用し、世界を支配しようとした秘密結社。その思想は、龍の力を神聖視し、選ばれた者(つまり自分たち)だけがそれを扱う資格があるという、極めて独善的で危険なものだった。
「彼らの目的は、単なる混乱ではないのかもしれない……何か、もっと具体的な狙いが……」
ミレーユの分析は、徐々に核心へと近づきつつあった。
レガルドもまた、評議会の長として、人間と龍族の代表者たちの意見をまとめ、具体的な対策を打ち出すために奔走していた。だが、夜、一人になると、言い知れぬ不安に襲われた。「黒曜の爪」が、古代の邪悪な龍の力を復活させようとしている――そんな悪夢にうなされる日が増えていたのだ。それは、彼自身の過去のトラウマと深く結びついているのかもしれない。力を正しく使うことの難しさ、そして、その力が暴走した時の恐ろしさを、彼は誰よりも知っていたからだ。
そんな中、グリュム・シティ内で不穏な事件が散発し始めた。評議会に協力的な姿勢を見せていた龍族の商店が何者かに荒らされたり、人間側の穏健派の議員が脅迫を受けたりする。いずれも決定的な証拠は残されていなかったが、「黒曜の爪」による警告か、あるいは陽動であることは明らかだった。
そしてある夜、龍王レオンからレガルドへ、極秘の指令が下された。
「レガルド殿、我らの調査で、『黒曜の爪』が狙っている可能性のある『古の龍の聖域』の一つが、グリュム・シティ近郊の『霧隠れ山脈』に存在することが判明した。直ちに現地へ向かい、聖域の状況を調査し、奴らの侵入を防いでほしい」
ミレーユもまた、政府側から「霧隠れ山脈」周辺で観測されている不審なエネルギー反応について、極秘に調査するよう命じられていた。二人の任務は、再び危険な場所で交錯することになる。
翌日、レガルド、ミレーユ、そして護衛を兼ねて自ら志願したキルヴァンは、「霧隠れ山脈」へと向かった。心配したシリウスが「小僧っ子だけじゃ心許ねえ!」と無理やり同行し、ゼノヴィオスも「老いぼれの知恵も、時には役に立つやもしれんからのぅ」と、いつもの飄々とした様子で一行に加わっていた。
険しい山道を進むにつれ、周囲には濃い霧が立ち込め始めた。それはただの霧ではなく、どこか人工的な、そして邪悪な気配を孕んだ霧だった。龍族であるレガルドやキルヴァンでさえ、言い知れぬ圧迫感と方向感覚の喪失を感じる。
「……気をつけろ。何者かに見られているような気がする」
レガルドが低い声で警告を発した。
長い探索の末、一行は霧が一段と濃く立ち込める、巨大な岩壁に囲まれた谷間にたどり着いた。そこが、地図に示された「古の龍の聖域」の入り口であるらしかった。
谷の奥には、かすかに古代の祭壇のようなものが見える。だが、それよりも先に彼らの目に飛び込んできたのは、祭壇へと続く道に点々と残された、真新しい黒い爪痕――そして、その爪痕のいくつかが、微かに紫色の妖しい光を放っていることだった。
「これは……『黒曜の爪』の奴らが、既にここまで!」
レガルドが声を荒らげた、その瞬間。
霧の奥から、複数の甲高い咆哮と共に、異形の影がいくつも飛び出してきた!それは、これまでの黒装束の人間とは明らかに違う。歪な体躯、不気味に光る目、そして全身から立ち上る邪悪な瘴気――「黒曜の爪」が、聖域で何かを造り出したのか、あるいは呼び覚ましたのか。
「来るぞ!総員、戦闘準備!」
レガルドの号令が、霧深き聖域に響き渡った。