第1話 炎の一献、灯をともす時
「さて、と」
眼下に広がるのは、人間と竜族が入り混じって暮らす近未来都市――グリュム・シティ。空には巨大な浮遊島がいくつも浮かび、その下を銀色のリニア地下鉄が滑るように走っている。俺、レガルドは、そんな街を見下ろす丘の上で、ごくりと唾を飲み込んだ。
見た目は人間の壮年ってとこだが、正体は齢三百を超える古代竜。まあ、竜としてはまだ若造の部類だが、色々あって大老竜なんて役職はとっくにリタイアしてる。今はただの、ちょっとデカいトカゲ……いや、夢見る料理人だ。
「始めるか、俺の城……いや、俺の厨房づくりを」
胸に秘めるのは、遠い昔、若き日の龍王と交わした「炉辺の約束」。
『いつか、種族も立場も関係なく、誰もが心から笑い合える場所を――』
あの吹雪の夜、震える声で理想を語った友の顔が、今も鮮明に蘇る。だが同時に、脳裏をよぎるのは、炎と絶叫に包まれた戦場の記憶。守れなかった命、力の限界……。
ズキリ、と古傷が痛むような感覚に、俺は力強く首を振った。
「今度こそ、だ」
グリュム・シティの喧騒の中、俺は一つの物件と出会った。龍族居住区の片隅、打ち捨てられた地下洞窟。煤けた岩肌、ひんやりとした空気。だが、ここなら俺の「炎」を存分に振るえる。天井をぶち抜き、巨大な排気ダクトを通し、岩盤を削って巨大な炉と厨房を誂えた。店の名は「炎の一献」。龍族専用、心ゆくまで故郷の味と炎の料理を楽しめる居酒屋だ。
開店準備も大詰めのある日、ドタドタと騒がしい足音が洞窟に響いた。
「レガルドおじさーん!手伝いに来たよー!」
現れたのは、まだ人間の子供くらいの背丈しかない小さな炎竜、甥のキルヴァン。ぴょこぴょこ揺れる二本の角が、あどけなさを際立たせている。
「おう、キルヴァンか。よく来たな」
「任せてよ!僕の炎、最近すっごく強くなったんだから!」
言葉と共に、キルヴァンの口からボッと小さな火球が飛び出した。……のはいいが、狙いが逸れて仕込み用の乾燥ハーブの束に見事命中。あっという間に黒焦げだ。
「あわわわわ!」
「こらキルヴァン!料理は力だけじゃないと言ってるだろうが!」
慌てて俺が巨大な手(竜の姿に戻るわけにもいかず、人型のままなので少々不格好だが)で火を叩き消す。キルヴァンはシュンと肩を落とし、尻尾の先の炎も心なしか小さくなった。
「ご、ごめんなさい……」
「はぁ……まあ、怪我がなくて何よりだ。だがな、炎ってのは繊細なんだ。お前の炎はまだ、じゃじゃ馬娘みたいなもんだからな」
そう諭しながらも、内心では自分の指導力のなさに溜息が出た。古代竜の知恵も、子供相手の教育にはあまり役立たないらしい。それでも、この甥っ子の「やりたい」って気持ちは、無下にしたくなかった。
そして、いよいよ「炎の一献」開店初日。
だだっ広い洞窟風のホールに、磨き上げられた岩のテーブルと頑丈な丸太の椅子。壁には俺が趣味で集めた各地の鉱石が埋め込まれ、ぼんやりと光を放っている。自慢の巨大暖炉には、パチパチと心地よい音を立てて炎が燃えていた。
だが――客は、ゼロ。
「……シーンとしてるね、おじさん」
キルヴァンがカウンター席で小さなグラスに入った果実水をちびちび飲みながら、所在なさげに呟いた。俺は黙々と、カウンターの向こうで巨大な肉塊を捌きながら答える。
「初日はこんなもんだ。焦るな」
内心では、「炉辺の約束」の重圧がズシリと肩にのしかかっていたが、顔には出さない。龍族専用とはいえ、こんなキワモノじみた店に、そうやすやすと客が来るわけもないか。
そんな重苦しい空気を破ったのは、日が傾きかけた頃だった。
ギィィ……と、店の古めかしい樫の扉が重々しく開いた。
現れたのは、ずんぐりむっくりとした体躯に、床まで届きそうな見事な赤茶色の髭をたくわえた男――ドワーフだ。その道何十年って感じの、いかつい職人の顔つきをしている。
「ほぅ、ここが噂の『龍の寝床』か。思ったより小綺麗じゃねえか」
ドワーフはギロリと店内を見渡し、カウンター席にどっかりと腰を下ろした。
「いらっしゃい。……『龍の寝床』ねぇ、言い得て妙だが、うちは居酒屋だ」
「細かいこたぁいいんだよ。とりあえず、一番強い酒と、テメェの自慢の料理をなんか出してみろや」
ふてぶてしい態度だが、その目には確かな探究心が宿っている。こいつは、本物を見抜く目を持っていそうだ。
俺は黙って、試作品の「ドラゴンエール」――ホップの代わりに火蜥蜴の鱗を使い、火山岩で濾過した黒ビール――と、炎で豪快に炙ったワイバーンのリブステーキを出した。
ドワーフはまずエールを一口。……ピクリと眉を動かした。
次にリブステーキにかぶりつき、むしゃむしゃと咀嚼する。
やがて、ふぅ、と息を吐くと、ニヤリと笑った。
「……酒は、まだまだだな。火蜥蜴の鱗の使い方がなってねえ。だがな、ドワーフの誇りにかけて、俺がちっと手を加えてやりゃあ、化けるかもしれん」
彼の名はシリウス。グリュム・シティで知る人ぞ知る、伝説のビール職人だった。
「だが、この肉は悪くねえ。炎の使い方は、ちいと荒っぽいが……魂を感じる。テメェ、名は何て言う?」
「レガルドだ」
「レガルド、か。覚えておくぜ。ま、このビールがマシになったら、また飲みに来てやるよ」
そう言って、シリウスは勘定を済ませ、風のように去っていった。
キルヴァンが目を丸くしている。
「おじさん、あのドワーフさん、なんだかすごそうだね!」
「ああ。手強いが、面白い客だ」
シリウスの言葉は辛辣だったが、不思議と不快ではなかった。むしろ、心のどこかで火がついたような感覚があった。
その夜、閉店間際。外はバケツをひっくり返したような激しい雨が降っていた。
もう客も来ないだろうと、キルヴァンと二人で片付けを始めた時、再び重い扉が開いた。
そこに立っていたのは、濡羽色の髪を肩まで伸ばした、人間……いや、どこか人間離れした雰囲気を持つ若い女だった。年は二十代後半だろうか。雨に濡れた外套からは、上質な生地の匂いがした。切れ長の瞳は、洞窟の薄暗がりの中でも理知的な光を宿している。
「……雨宿りを、お願いできますでしょうか」
透き通るような声だった。
「ああ、どうぞ。こんな店でよければ」
俺が応じると、彼女は静かに会釈して中に入り、カウンターの一番端の席に腰を下ろした。キルヴァンは珍しい人間の客に興味津々だが、どこか緊張している。
「何か温かいものでも?」
「お任せしますわ」
彼女の言葉遣いは丁寧で、気品があった。ただの雨宿りとは思えない。
俺が簡単なスープを準備しようとした、その時だった。
「お、おじさん、見て見て!僕、お客さんのために特別な炎を……!」
カウンターの隅で火遊び……いや、炎の練習をしていたキルヴァンが、いいところを見せようとしたのだろう。いつもより大きな炎をボッと出した瞬間――バランスを崩し、炎が近くの飾り布に燃え移った!
「あっ!」
「馬鹿者っ!」
布はあっという間に燃え広がり、木のカウンターにも火の手が上がろうとしている。まずい、このままでは大火事だ!
俺が慌てて水を汲もうとした瞬間、隣から凛とした声が響いた。
「そちらの棚の上にある砂を!それと、そこの厚手の敷物を!」
声の主は、さっきの女だった。彼女は少しも慌てず、的確に指示を飛ばす。
「キルヴァン君、あなたは下がって!」
俺は彼女の指示に従い、キルヴァンは怯えながらも素直に後ずさる。女は自ら濡れた外套を脱ぎ捨てると、それを巧みに使い、燃え広がる炎の勢いを抑え込もうとする。その動きには一切の無駄がない。
「レガルドさん、そちらの壁際の水を!」
俺は言われるままに水を用意し、彼女と二人で協力して炎にかけた。ジュワッという音と共に白い水蒸気が立ち上り、数分後、ようやく火の手は収まった。カウンターの一部は焦げてしまったが、大惨事は免れた。
「……助かった。あんた、一体何者なんだ?」
息を切らしながら尋ねると、彼女は煤で汚れた頬を拭いもせず、静かに答えた。
「ミレーユ、と申します。見ての通り、ただの通りすがり……のはずでしたが」
彼女の瞳には、先ほどまでの冷静さとは裏腹に、深い悲しみと、それでも消えない強い意志の色が浮かんでいた。
「私……両親を、竜族排斥を唱える者たちに殺されました。けれど、全ての竜族がそうではないと……信じたいのです。このお店に足を踏み入れた時、何か……温かいものを感じましたから」
その言葉に、俺はハッとした。彼女の過去と、この店に感じた「何か」。それは、俺が目指す「炉辺の約束」に繋がるものかもしれない。
古代竜の本能が告げていた。この出会いは、運命だと。
「ミレーユ殿。もし、あんたさえよければ……この『炎の一献』で、俺と一緒に働いてみないか?あんたのその知識と勇気、そしてその心が、この店には必要なんだ」
ミレーユは驚いたように目を見開いた。だが、すぐにその表情は深い思索の色に変わる。雨音だけが響く静寂の中、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……お受けいたします。レガルド様。私にできることがあるのなら」
その声は、震えていたが、確かだった。
こうして、龍族専用居酒屋「炎の一献」は、古代竜の店主と、人間の副店長、そして見習いの幼竜という、奇妙な取り合わせで、本当の意味での第一歩を踏み出したのだった。
まだ小さな灯火だが、この炎がいつか、グリュム・シティを照らす大きな光になることを夢見て。