さくら【完結】
桜が満開に咲く四月の夜、男ふたりが神社の境内を歩いていた。
空に月はない。その代わりに満点の星空で、空は満月が出ているみたいに明るかった。
彼らは明かりを手にしていなくても星の光を頼りに颯爽と道を歩けた。
父親がヨーロッパ人である男の髪は茶色く、目は栗色をしている。血管が透けて見えるほどに青白い肌をした彼は灰色のスーツを着て、黒革のくつを履いていた。
もうひとりの男は黒髪に黒い目をした日本人だ。日に焼け、健康的な肌色をしている。若草色の着物に薄茶色の袴に下駄を履いている。
スーツ姿の男が前を歩き、その後ろを袴姿の男が歩く。袴姿の男の足取りは石のように重い。
「ここの桜は、いつ見てもきれいだね」
スーツの男が満開の桜の木を見上げる。
「昼の桜は薄紅色をしてバラや牡丹の花にも負けず劣らず可憐だけど、夜の桜はまるで白い雪のように儚げだ。きみもそう思わない?」
「仰る通りです、若様」
「不思議だね。朝と夜で、こんなにも花の印象が変わるなんて」
スーツ姿の男は、ソメイヨシノの白く小さな花の集まりを眺めた。
星のきれいな夜だからか、まるで桜の花そのものが光っているように見える。蛍の光や灯籠の明かりのように、白くぼんやりと光る花を、彼らは静かに見つめていた。
ふわりとやさしく夜風が吹く。少し肌寒い風が、体のほてりを冷ましてくれる。
かすかに甘く清涼な花の匂いが香った。
「どうしても、きみは行ってしまうの?」
「はい……弟たちも私の出兵を喜んでいます」
「死んでしまうかもしれないのに?」
「お国のために、この命を捧げます。戦場で儚く散ろうと構いません」
柔和な笑みを口元に浮かべ、袴姿の男は答えた。
「軍医として海外へ行き、負傷した兵を助ける。それが、本当にきみのやりたいことだったというの……? そうじゃないだろう?」
「おやめください、若様。真夜中で人がいないといえど、どこで誰が何を聞いているか、わかりません」
「構うものか。異国人の血を引き、肩身の狭い思いをしてきた。体の丈夫でないぼくの命など、そう長くはない」
そうしてスーツ姿の男は桜の幹へと手を置いた。冷たくざらつき、デコボコとした感触のある木肌をそっと撫でる。
「桜の下には死体が埋められているんだっけ? きみが見知らぬ土地で死んだり、捕虜として敵国の軍人や兵からひどい扱いを受け、拷問される可能性があるなら、いっそ……ここでふたり刺し違えるのは、どうだ?」
「どうか、そのようなことを仰らないでください」
袴を着た男が、何かを堪えるような苦渋に満ちた表情をして顔をうつむかせる。
「私とて、あなたや幼い弟たち、足腰の悪い母を置いていくことに後ろ髪を引かれる思いでいます。しかしながら、もうすべては決まってしまったのです。何があろうと私は、行かねばなりません」
「ならば、ふたりでどこか遠くへ逃げるのは、どうだい?」
「今、なんと仰られたのですか?」
袴姿の男は目を大きく見開いた。信じられないといわんばかりの顔をして訊き返す。
「憲兵の目が行き届かないところへ、どこか遠くの国へ行こう。今なら、まだ間に合う。戦争が終わるまで父の故郷や、その周辺国で過ごせばいい。父の友とは戦争が始まる直前まで交流があった。だから――」
瞳を揺らしながらスーツ姿の男が、袴姿の男の腕を掴んだ。
「若様、なりません」
スーツ姿の男の顔をまっすぐ見つめながら、袴姿の男は答えた。
「あなたにも、私にも守るべき者や、守るべき家があります。それに、これ以上あなたを危険な目にあわせることはできません。あなたを売国奴にし、命を危険にさらすくらいなら私はこの場で腹を切り、自刃します」
「駄目だ!」
男の叫び声が静謐な空気を震わせ、むなしく響いた。
「死ぬことは絶対に許さない! きみが死んだら、僕は……生きていけない……。怪我や病気をせずに元気でいてくれればいい。傷ついてほしくないんだよ。ただ……生きてさえいてくれれば、それでいい……」
袴姿の男は、スーツ姿の男の体を引き寄せ、抱きしめた。
「好きです」
スーツ姿の男は栗色の目を大きく見開き、息をするのを忘れた。
「あなたと出会えたことは、私にとって奇跡のようなものでした。あなたと心を通わせ、今日まで過ごしてきた日々を、ともにあれたことを一生涯忘れません」
スーツ姿の男は、ためらいながらも向き直り、袴姿の男の背に腕を回して厚い胸板へ顔を埋めた。
ざあっと風が強く吹き、白く小さな花びらが散っていく。
花吹雪の中で、男たちは互いの体をひしと抱きしめ合っていた。
「もし、私の存在が、あなたをこれ以上苦しめるのなら……どうか私と出会ってから今日までにあったできごとを、すべて悪い夢だったと思い、お忘れください」
「忘れない、忘れたくないよ。きみと過ごした日々は、僕にとってかけがえのない宝物のような日々だった。きみがそばにいてくれたから、僕は父様や母様が亡くなった後も孤独にならず、生きてこられたんだ」
「若様……」
「でも、そうだね。恋人として会うのは、今日で最後にしよう。明日からは、ただの主人と従者だ。幼い頃からともに過ごしてきた竹馬の友にしか見えないようにする。もう……別れよう」
「……そうですね。そうしましょう」
名残惜しむかのように彼らは互いの体を離した。
花明りの下で笑みを浮かべ、愛する人の顔を忘れないよう目に焼きつける。
「どうか、お体を大切にしてください。若様」
「ありがとう。きみが軍医として戦地で、がんばるのだから、僕も最期まで病と戦う。そう誓うよ」
「ええ、負けないでください。たとえ、この体が遠い異国の地へ行っても私の心は、この魂はあなたのもの。どうか私のぶんまで生きてください。……さようなら、若様。世界で一番、あなたのことを愛していました」
「僕もだよ、きみのことを誰よりも、何よりも愛していた。さようなら……」
彼らは断腸の思いで袂を分かつことになった。
桜の木の下で互いの体を抱きしめた日から、ふたりは二度と顔を合わせなかった。
そしてスーツ姿の男は治療の甲斐なく病死し、袴姿の男は敵地で敵国の爆撃を受け出血大量死したという。
桜の花があっという間に散ってしまうように、ふたりの命もあっけなく終わりを告げた。
それでも時計の針は進み、時は流れていく。
世界規模の戦争により東京は大空襲を受け、広島と長崎に原子爆弾が投下された。
終戦後には高度経済成長により都市開発が行われ、山が切り崩されていき、石だらけの道が舗装されて道路が開通・整備されていく。
新しいビルやアパート、ヨーロッパ風の住宅が、都市や町に次々と建っていく。
人口の少ない村は近隣の町や市に吸収合併され、名前を消していった。
人の来ない神社は撤去されるか、名前を忘れ去られてしまった。
だが――男たちが最後に別れ話をした神社は運よく残ったのだ。戦災による被害も受けず、都市開発の波にも合わないで、二十一世紀の今も彼らがいた当時と同じ場所に、同じ姿で存在していた。
高校受験を無事に終えた少年たちは小銭を賽銭箱に投げ入れ、無言のまま目を閉じ、静かに手を合わせる。
神社にいるのは少年ふたりと、日雇いの巫女だけ。境内は閑散としている。
天気は良好。ぽかぽかとした陽気で、ほどよく暖かい。
春の訪れを告げるウグイスの鳴き声が、どこからともなくする。
「よかったね、お互い第一志望の高校に受かって」
「そうだな。でも俺は受かるって信じてたぞ。おまえも、俺も同じ高校に行けるって」
彼らは桜並木の道をゆっくりと歩いた。
薄紅色の絨毯の上に足を運び、ひらひらと舞い落ちるやわらかな小雨を浴びる。
肩が触れてしまいそうな距離で、ふたりの歩く速度は同じだった。
「そういえば桜って夜になると光って見えるよな。あれって暗闇の中で光るキノコと同じなのか?」
背の高い少年が隣にいる少年に話しかける。
「ああ、あれはね、桜の花びらが紫外線を乱反射してるんだって」
「乱反射?」
「そう! 桜の花って、咲いてる時間が短いでしょ。でも受粉しないと翌年も花を咲かせられないから、虫の力を頼るんだ。僕たちの目には、ただ美しい花がそこに咲いているようにしか見えないけど、虫の目だと『ここにいるよ』っていう目印が見えるんだって。それで来年も花が咲く。キノコも昆虫を呼んで胞子を運んでもらうのが目的だって考えられてるんだよ」
「なるほどな。でも紫外線って夜は少なんじゃなかったっけ? それだと光っているのは太陽が出ている日中だけだろ」と少年が疑問を投げかける。
問いかけられた少年は困ったように、眉をへにょっと下げた。
「そうだよね。どうして、夜でも桜の花が光ってるように見えるんだろ?」とあごに手をやり、うーんとうなる。
まじめに考え込む恋人の姿をかわいいなと思いながら背の高い少年は、恋人の頭についていた桜の花弁を指先でとってやった。
彼らは澄みきった青空のように清々しい笑みを浮かべて互いの顔を見つめ合う。
「神様にお礼も言えたことだし、そろそろ行くか」
「うん、行こう!」
そうして少年たちは手をつなぎ、鳥居に向かって坂道を全速力で走った。
大人でも、幼い子どもでもない彼らの姿を、桜の花が静かに見守っていた。