第8話 ナンパ師の原点…思い違いの大失恋
誰にだって、忘れ去りたい苦い過去があると思う。
俺、兼満トオルにとっては、まさに三十年前のあの出来事全てが消し去りたい過去だった。
俺の初恋相手は滋味美緒という同い年の高校生。
出会いは雨の日の帰り道、特急電車の中。
発車間際に乗り込んだ美緒が運悪く傘をドアに挟みこんで身動き出来なくなっているのを見かねた俺が助けたのがきっかけだ。
その時、家が同じ駅であるとわかり、その後、気づけば朝、学校に行く電車を合わせて一緒に登校するようになった。
当時は学校に親しい友だちも少ない上に男子校で異性との会話自体少なった俺にとっては、すべてが新鮮だった。
いつしか毎朝、電車で彼女に会えることが俺の唯一の楽しみになっていった。
だが、そんな楽しい日々も実家の引っ越しによって終わりを告げることになった。
このまま彼女とそれきりになりたくなかった。
この時、俺はあらためて滋味美緒という女性のことをもっと知りたい、親しくなりたいと強く願っていることに気付いたのだ。
そう、俺は彼女に恋をしていた。
俺にとっての初恋だったのだ。
だからこのまま終わらせたくなかった。
俺は勇気を振り絞って、電車以外で会おうと彼女を誘ってみた。
もしかして断られたり、嫌われるのではないかと、内心びくびくしていたが彼女は驚きながらも快諾してくれた。
俺にとって生まれて初めてのデート、もしかしたら彼女にとっても、そうかもしれない。
その後、引っ越しでバタバタする中、彼女と会えることのみを楽しみにしていた。
そして待ちに待った初デートの約束の日、俺は待ち合わせ時間の30分以上も前から新宿駅西口の交番前にいた。
だが、待ち合わせ時間になっても彼女は現れなった。
更に30分、1時間待っても彼女は来ない。
駅の改札口まで行き、電車が遅れていないかを確認したり、伝言板に何か書かれていないかを確認したが、何も手掛かりがなかった。
こんな事なら、彼女の連絡先を聞いておくべきだったのだが、電話番号を聞き出す勇気まで俺は持ち合わせていなかった。
当時、シャイでナイーブでヘタレだった俺にはデートの約束が出来ただけでも奇跡だったのだ。
それに俺はこの時まで彼女が必ず現れると信じて疑っていなかった。
そして夕方まで待ち続けて俺は、ついに諦めた…その日は。
だが翌日から、なぜ彼女が現れなかったのか、その真意を俺はどうしても確かめたくなった。
そのため新宿駅や最寄り駅を中心に彼女の姿を探して徘徊する日々を過ごした。
時には学校を休んでまで。
だが一日中、駅や彼女が立ち回りそうな場所に張り込んでも彼女に会うことがついにできなかった。
そうして1学期が終わる頃、学校から俺の行動が”不良行為”に該当するとみなされ、強い指導が入った。
それがきっかけで俺はようやく終わりのない、彼女探しの不毛な状況から脱出することが出来た。
そして彼女の事は二度と探さないと心に誓ったのだ。
夏休みに入ると、俺は彼女への未練を断ち切るために旅に出た。
学割で買った周遊券を手に北海道への一人旅。
この旅で気持ちの整理をして、二度と女性に興味を持たずに、ひたすら勉強に打ち込もうと。
そんな中で慣れない列車に乗り、ぼんやりと車窓を眺めながら、ひたすら彼女以外のことを考えようと必死になっている俺のことを向かい側に座った綺麗な若い女性が興味深そうに覗き込んだ。
「え?なんですか??」
焦る俺。
「君、なんでそんなに辛い顔してるの?」
エリと名乗る女は俺と同じように北海道を一人旅しているとのことだった。
最初は警戒していた俺だったが、話しているうちにエリと自然に打ち解けて、いつの間にか失恋話を打ち明ける羽目になったのだ。
だが、もう二度と恋なんてせず、勉強だけに集中すると主張する俺にエリが反論した。
「ダメよ、恋愛こそが人を成長させる原動力になるのよ、一度の失恋で負けたらダメ!」
「でも結局のところ僕って、なんの取柄もないことを自覚しているんです、だから正直、もう恋なんて諦めているんです…あ!」
いつの間にか俺の頬を伝っていた涙をエリがそっと手で拭った。
「君、十分、魅力的だな…って私は思うよ。きっと、その子は、そのことに気付く前に会うのが怖くなっちゃったのかもね」
「え?」
「だって、お互いに男子校、女子校で異性に慣れていなかったんでしょ?よくある話よ、親か友だちに相談したら、そんな危ないことやめておけとか言われちゃって、会いに行けなくなったんだよ」
「そんな…でも、そうなのかも」
「お互いが若すぎたんだよ、だからさ、君ももっと大人にならないと」
「大人?…なれるでしょうか?こんな僕が…」
俺はこの時、エリが言うことを全て鵜呑みにしていた。
あとから考えたら、会ったことすらない美緒のことをエリがわかる事なんてなかったのに。
だが女性に全く免疫のなかった俺は、こんな魅力的な美人が親身になって言うことなら、きっと間違いないと思い込んでいた。
「君、もっと自分に自信持ちなさい…そうだ、私がさ、全部消してあげるよ、君の悪い思い出を」
「え?どうやって?」
「大丈夫、私を信じて、ついてきて!」
エリの手がいつの間にか俺の手に添えられていた。
「目、つぶってごらん」
「はい…」
目を瞑った俺の唇に柔らかな感触が触れた。
それが俺にとってのファーストキスだと理解するまでには、少し時間がかかった。
…こうして俺は見事に騙され、エリが俺にとっての初めての女性となった。
だが当時の俺は年上の大人の恋人ができたことで有頂天になっていた。
美緒との淡い思い出が消し飛んでしまうくらい、あまりにも刺激の強い毎日だったからだ。
東京に戻ってからも、エリの暮らすアパートに入り浸り、大人の世界を堪能し続けた。
そして将来は、このままエリと結婚して家庭を築くんだろうな、と勝手に思い込み始めていた。
だが結局のところ、俺はエリに、いいように若い肉体を弄ばれただけだったのだが…
夏休みが終わりに近づいたある日、俺はエリに呼び出された。
場所は有楽町付近にあった高級ホテルのラウンジ。
「どうしたんですか?こんな場所で」
「君との最後の思い出は素敵な場所で終わらせたかったから」
「え?どういうことですか??」
「今日で別れてくれないかな?私たちは、これでお終い」
俺はエリが何を言いだしたのかを理解できなかった。
「僕たちって付き合ってますよね?」
「そうね…今の時点ではね」
「…結婚してくれるものだとばかり…」
俺の顔を一瞬、呆けたように眺めるエリ。
「何、言ってるのかな?君、アタマ大丈夫??」
「だって僕たち、あれだけ愛し合えたのに!」
「は?」
エリは蔑むように微笑むと、
「違うわよ。私、本当の事言うとね、誰でも良かったの」
「なにが?」
「この夏、私と一緒に時間を潰してくれる人よ。君でなくても良かったのよ」
「そんな…」
「私の本当の事、これから話すから最後まで聞いてよね」
エリは俺がそれまで聞いたこともない昔話を始めた。
地方でそこそこ優秀な進学校から都内の名門私立大学に合格し上京したこと。
地元では優秀だと思い込んでいたけど、自分程度に勉強ができる子なんて東京にはゴマンといること、など。
「それでね、落ち込んでいる時に声をかけてくれたサークルの先輩と、成り行きで付き合いだした訳…だけどそいつ、どうしようもないクズでね」
エリのアパートに転がり込んだ先輩は大学にもロクに行かずに、仲間たちと遊び呆けて、ついにはエリの貯金にまで手を出した挙句、エリ名義で借金まで作られたのだ。
「だからさ、そのクズをアパートから追い出して別れた後、借金返済と生活費を工面するために働くしかなかったんだよね」
昼間は学生、夜は銀座でホステスとして懸命に働き、ようやく借金を返し貯金まで出来たエリだったが、気づけば大学生活も残り少ないことに気付いた。
「それでね、学生最後の夏休み、想い出作りのために思いっきり遊びたかったの…で、出会いを求めて北海道に行ったわけ」
「はあ…」
「でもまさか君のような、こんな若くて魅力的な子と知り合えるなんて思ってなかったよ、これだけは本当」
「いえ、別にいいですよ」
「君、もっと自信持ちなよ…前も言ったけど、そのメガネをやめてコンタクトに変えれば、かなりモテるようになるよ」
俺は最初の方こそ落ち込んだり、腹も立ったが、いつの間にか、エリの話す武勇伝に聞き惚れていた。
世の中、勉強が出来ただけでは決して乗り越えられない壁があること、エリが夜の街で出会った数々の客である男たちの魅力的な日常など。
そうか、そんな世界がこの世の中にあったのだ、と。
地道にコツコツ努力をするだけでは決して辿り着けない世界…
「で、君はそんな彼らと対等な立場で私と付き合える…なんて、まさか思っている?」
「…思っていません」
悔しかったが、エリの言うとおりだった。
俺には大人の男たちに比べると、経験も知識も、そして財力も無い。
若さしか取柄がなかった。
「そう、君のいいところは、その頭の良さと切り替えの早さ、だよ」
「でも、エリさんにとって、僕と付き合っていた時間って実は退屈だったんじゃないですか?」
エリはちょっぴり驚いた顔をしたが、少し頬を赤らめ、目を逸らしながら言った。
「君と一緒にいるとね、私の高校の頃までの純粋だった気持ちを思い出せて…本当に素敵な時間だったよ…でもね、私の夏休みはこれで終わり!今日からはまた、大人の男たちとの面倒くさいけど刺激的な恋の駆け引きの世界に戻っていくの!」
気のせいか、少し寂しそうな顔をするエリだったが、傍らのバッグからポケベルが鳴ると慌てて止めた。
「時間ね、同伴のお客さんが迎えに来たわ」
そのまま俺の見ている前で、長い髪を持ち上げて器用に整えると、メイクを始めるエリ。
健康的で知的な学生から夜の街のホステスへと変身していく。
俺はそんなエリの姿をただ見つめ続けるしかなかった。
「じゃあ行こうか?」
会計を終わらせたエリの後に付いていく俺。
ホテル入り口にある車寄せには、ピカピカに磨かれた真っ赤なフェ〇ーリが止まっていた。
「あれが、エリさんのお客さんの…?」
「そう小さいけど、結構儲かっている会社を経営している人、これから軽くドライブしてから、ね…」
俺は自分がとても小さく惨めに思えてきた。
「そうだ、トオル君…私と過ごした夏の間で君の悪い思い出を忘れることは出来たのかな?」
言われてみれば、エリとのあまりに刺激的な毎日で、あの初恋と失恋の辛い出来事など、はるか昔のことのように思えた、だが。
「はい、辛い思い出は、遠い記憶にはなりました…だけど今は、やっぱりなんだか、とても辛いんです」
突然エリから告げられた別れをまだ自分の中で整理できていなかった。
エリは寂しく微笑んだ。
「そう、それは良かった」
「え?」
「それって、私が君の初恋の思い出を上書き出来た、ってことなんだよね!」
「確かに…」
「やった!私の勝ち!!」
急にエリが拳を上げてガッツポーズをした。
「何にですか?」
「これでもずっとさ、見たこともない君の初恋相手に結構、嫉妬していたんだよね…なんてね」
エリが小さく溜息をついた。
「じゃあ、行くね」
「もうこれで、エリさんとは会えないんですよね?」
落ち込む俺にエリが微笑みかけた。
「たぶんいつか、きっとまた会えるよ…早く大人になって私のお客さんたちに負けないくらいの魅力的な男になったらね!待ってるから」
そう言ってエリは手を振り、フェ〇ーリに乗り込むと腹に響くようなエンジン音を残して走り去っていった。
エリが去り、まるで映画のワンシーンのような光景を見せられていた俺は、徐々に我に返った。
え、でもこれってつまり世間知らずの高校生が大学生のホステスに、さんざん弄ばれた挙句に捨てられただけってことなんじゃないか…
客観的に考えると俺は、ただただ惨めになった。
くそっ、あの〇ッチ女め、よくも俺の事を弄びやがって…最初はそう思っていたが、そもそも俺がエリに出会ってしまった原因はなんだったか?失恋による傷心を癒すための北海道を旅行したからではないのか?
つまりは俺がこんなにボロボロになった全ての原因は、デートをすっぽかした美緒であった。
悔しかった、俺を弄んだ挙句に捨てた美緒もエリも…
もう二度と恋なんてしないと同時に女に対する復讐を心に誓った…俺を弄んだように俺も大勢の女たちを弄んでやろう、できればエリのように相手から文句が出ないようスマートにやりたかった。
そのためには、女たちにモテるような外見やコミュニケーションスキルをまず身に着けた。
同時に高学歴、高収入、社会的地位という女性に対しての最強の武器を手に入れるための猛勉強をした。
幸い国内ナンバーワンの進学校で学んでいた俺にとって、国立大学トップ校に合格することは容易かったので、あとは並行して効率よく財力を稼ぎ出す方法を学んでいけば良いだけだった。
こうして俺はカリスマ起業家の仮面を被った、史上最低のナンパ師に成り下がった訳だが、その前提となっていた初恋の相手、美緒は俺との初デートをすっぽかしたので無く、直前に不慮の事故で亡くなっていただけという事実を知りえた今、酷い自己嫌悪に陥った。
結局のところ、俺は自分が傷ついたことだけを恨み、美緒の身に何が起こったのかについては思いすら及ばなかった。
本当に最低な俺は、最悪な人生を送っていた、と。
そして、不本意にも三十年前に転生してしまった俺は今、初恋相手、美緒の中に入って当時の俺自身に会いに行こうとしている…