第7話 初デートに向かう
その日、美緒は朝早くから、ベッドでもぞもぞしていた。
いや正確には、昨晩からほとんど眠れていなかったらしい。
『大丈夫なのか?』
『うん、でも今日のこと考えると緊張しちゃって…』
今日…つまりは美緒にとっての人生初デートの日だった。
同時に美緒にとっては人生最期の日、にもなるはずだ。
俺は美緒との約束で今日一日、デートが終わるまでの間の主導権一切を美緒に委ねた。
だが、この日の五感は共有されっぱなし。
つまりは朝起きてのトイレからシャワー、着替えまでの間をすべて見せつけられ、居たたまれない気持ちになる俺だったが、そんな俺の存在すら気遣えないほど、今の美緒の精神状態はテンパっていた。
『緊張するな、もし会話が行き詰って気まずくなったら俺が代わって盛り上げるから』
初デートまでの残り一週間、俺と美緒は会話の途中で自然に入れ替わる練習を重ねてきた。
家では美緒の両親と。
学校ではクラスメートと。
『うん、ありがとう…でも、できる限り自分の力でこのデートを乗り切りたいの』
意気込みは伝わってくるが、恐らく美緒とその彼との初心者同士のコミュニケーションスキルでは限界は見えている。
とはいえ、ここは美緒を見守ってやることにした。
俺もちょうど三十年前、初めて親しくなった女の子とぎこちない会話をしながら、ようやく初デートの約束までとりつけた頃を思い出した。
結果は最悪だったが、誰しもが通る、ほろ苦い青春の思い出だ。
そうして皆、傷つき、戸惑い、苦しみながら成長していくのだ。
だが美緒にとってはこのデートは人生にとっての”成長”ではなく”卒業”のためのデート。
そう考えると俺まで辛くなってくる…
洗面所の鏡を何度も見直して髪型を整える美緒。
『これで大丈夫かな?』
『これで何度目だよ、いいからもう出かけろ!肝心のデートに間に合わなかったらどうする?』
『そ、そうだよね』
家を出てからも駅に向かう途中で何度もデート中の会話を頭の中でシミュレーションする美緒。
だから、デートでマニュアル通りの会話なんて成立しないから!…言っても無駄か。
そう思いながら、普段は視界を遮られていた駅周辺の風景を初めてみることができた。
…いや正確には初めて見る風景ではなかった。
『おい、今向かっているのは西○○駅か?』
『うん、よくわかったね』
『ああ昔、少しの間だけ、この辺に住んでいたから…』
そうだ、ここは高校の頃、実家のリフォームの関係で一時期、住んでいた場所だった。
『そうだったんだ。青年実業家さんの割に地味な場所に住んでいたんだね?』
『お前が言うな、だが懐かしい、全然変わっていないな』
駅に着いても三十年前と変わらない光景。
『この辺は東京なのに昔からド田舎って言われてきたからねー』
ホームに着くとちょうど各駅停車が入って来た。
クリーム色に塗られた赤い細帯のレトロな車両に驚く俺。
…あれ?こんな古い車両、まだ走っていたっけ?
確かこの鉄道は銀色の車両しか走っていなかったはずだけど。
『古い?まあ確かに古い方かもしれませんけど…』
そう答えて電車に乗る美緒の視線の先に反対側の下り電車が入って来た。
同じクリーム色に赤い細帯で塗られているが一回り小さく、片開きドアの電車だ。
『あ、あっちの方が古くてもうじき引退するみたいですよ』
そうだ、あっちの電車に来ると狭くて人が大勢乗り切れずに、高校時代は辟易としたものだった。
…いや、何かがおかしい。
あの車両は既に引退して今は全国各地のローカル私鉄に売却されて活躍している。
以前、河口湖を走るローカル私鉄であの塗装を再現した電車に乗った記憶があるくらい古いはずだ。
そう思っているうちに電車は新宿に向け発車して、次の駅に向かっていた。
確かそろそろ、地上から地下線に入るはずが…未だに地上を走っている。
また踏切で電車を待つ車がどれも一時代前のレトロな車ばかり、一体どうなっている?
『おじさま、どうしたんですか?』
『いや、すまんちょっと記憶が混乱して…』
『大丈夫ですか?』
『ああ、生まれ変わったときに何か手違いが起きたのかもしれない』
俺は必死に記憶を整理していた。
次の駅は特急停車駅で地下化され近代的な駅になっているはずだったが、俺の視界には地上にあった時代の懐かしい昭和時代からの駅前の風景が広がっている。
もしかすると過去の時代に俺は転生されたのではないか?
『おい、今日の日付を教えてくれないか?』
『え、6月13日ですよ、どうしたんですか?』
『今は平成…いや、それとも昭和何年だ』
『しっかりしてくださいよ、今は平成5年じゃないですか?』
『つまりは…今日は平成5年の6月13日、ってことだな?』
俺にとっては忘れもしない出来事があった日だった。
『はい、何かその日は、おじさまの生前に大事な予定でもあったんですか?』
そうだ、とても大切な予定があったのだ…ただし三十年も前のことだが。
乗り換えた特急電車は切り通しを抜けるため車内が暗くなり照明が付いた。
窓ガラスに映る美緒の顔をまじまじと見つめる俺。
そうか、そういうことか…三十年前の記憶を遡って、ようやくこの顔と名前を思い出した。
『美緒が今日、会おうとしている彼の名前ってまだ聞いていなかったよな?』
『そうでしたっけ…おじさまと同じ名前のトオル君ですよ』
間違いない、俺は最後の答え合わせを行った。
『フルネームは?』
『兼満トオル君、東大進学校の開明に通っているんですよ!』
俺は呆然とするしかなかった。
三十年前の高校時代の初恋相手だった女子高生の中に今、俺はいる。
そして、三十年前の俺の大失恋が、実はとんでもない思い違いだったという事実に今、気付いてしまったのだ。
なぜなら初デートの日、本来であれば美緒がこの世にはいなかったのだから。