第六話 政略結婚の終わり
今回は主人公のお父さん視点になります。
「まことに、申し訳ございませんでした」
意気消沈した声音でそう謝罪して深々と頭を下げる愛娘を、男は直視することができなかった。
男はグレーのスラックスをサスペンダーで吊り、白いシャツの襟元に革紐と青石のループ・タイをあしらって、左手の薬指には銀細工の細い指輪をひとつ着けている。
強めに撫で付けたオールバックの髪を後頭部でさっぱりと漉いた短髪に、銀縁の小ぶりな丸眼鏡は知的でありながらどこか抜けたような印象を与える。
男の名はマルセル・キース・ドゥ・ロペス。
ロペス侯爵家の現当主である彼は、娘の縁談を決めたのがあまりに軽率だったことを今更ながらに深く悔いていた。
(縁談を持ってきたウェリス侯爵は、この愛らしいリディシアの姿も、金貨の詰まった皮袋にしか見えていなかったのだろうか)
当初、彼はウェリス侯爵家との縁談が必ずや娘の為になると信じて疑わなかった。それが多少「ワケあり」の婚約だったとしても、だ。
ワケというのは、早い話が“資金援助”のことである。
五年前のちょうど今頃、十二歳のリディシアのもとに突然縁談が舞い込んできた。相手はメルトリアでも有数の富豪であるウェリス侯爵家だ。
素朴な学術家一族のロペス伯爵家に、ウェリス侯爵は、
『ロペス伯爵令嬢リディシアに侯爵夫人の地位を与える代わりに、“嫁入り道具”にまとまったお金を上乗せしてくれないか』
という打診をしてきたのである。
要求の額はウェリス侯爵家から贈られる結納金の倍額以上にもなる、そこそこの大金。一体何に使うのかと聞けば、『今手掛けている大事業の最後のひと押しのためだ』と。
それが成功すれば投資した金は何倍にもなって返ってくるし、そうなれば嫁いでくるリディシアにも、いずれ産むであろう子供にもたっぷりお返しができる、好きなものを食べ、好きな本を読み、のびのびとした暮らしを約束できる……というのである。
マルセルは迷った。まだ十六のお披露目も迎えていない幼い娘に、婚約者など作ってしまっていいのだろうか、と。
だが、ただでさえリディシアは、“【無祝福】”に生まれて小さい頃から何かと不自由してきた。大きくなっても、下手をすれば結婚相手に恵まれず、一生涯寂しく肩身の狭い思いをするかもしれない。
そう思うと、少しでも爵位が高く、少しでも影響力の強い力のある家に嫁ぐことができれば、奥様として大切に守られ、安心して日々を過ごせるようになるはずではないか、とも思えてしまうのだった。まして、それが富豪のウェリス侯爵家とあらば、なおのこと。
結局、リディシアのことが可愛くて仕方のないマルセルはウェリス侯爵の甘い言葉に惹かれて、この縁談を承諾してしまったのだった。
だが、それから五年。五年もの長い間忠実に仕えてきた婚約者リディシアに対して、ローレン・フォン・ウェリスはあまりにも非情で身勝手だった。
婚約当時十二才だったリディシアは家庭教師による基礎学習を終え、“年少学校“と呼ばれる若年の貴族子女向けの学校に通っていた。
生徒会に所属し、精力的に学校の生徒たちのために働いていたが、同じ学校に通うローレンはこれに目をつけると、
『婚約者としてほかの男がいる組織に所属させるわけにいかない』
と難癖をつけてリディシアを無理やり生徒会から脱退させたのである。
この時、大人しく言うことを聞いてしまったのが良くなかったのだろうか。それ以来、ローレンによる束縛はさらにエスカレートしていった。
男子と喋るな、常に婚約者のローレンを褒め称えろ、宿題の手伝いをしろ、……等々。
最終的にリディシアは友人との外出の時にも、逐一いつどこへ誰と向かうかローレンに報告して許可を取るよう要求され、少なくない希望が正当な理由なく跳ね除けられ、リディシアは自由を奪われていったのだという。
今思えば、要求を簡単に通さず、行動を制限して支配することこそが目的だったに違いない。そうやって小さい頃から婚約者の顔色を伺う従順な女に躾けておけば、妻になっても扱いやすくて楽だからだ。
ほんの子供だったローレンが自分で考えたとは思いたくないこのやり口は、おそらく彼の父、ウェリス侯爵の入れ知恵であるはずだ。……そうでなければ、マルセルは恐怖で正気を失ってしまうだろう。
あまりに酷い扱いをされているということは、十二歳のリディシアもすぐに理解したらしい。ローレンの婚約者となって以来、リディシアは屋敷にいるときも部屋にこもって塞ぎ込みがちになっていった。
一方で、自分がどうしてこんな目に遭わされなくてはならないのか、リディシアはまだ十分に理解できていないようだった。
スクールの内外でローレンから受けた仕打ちの数々については一言も言わず、ただ、
「わたしがこんなに苦しいのも、わたしがこんなに悲しいのも、わたしが【祝福】をお母様のお腹の中に忘れてきちゃったからなの。だから、お父様も、ローレンさまも、だれも悪くないの。ぜんぶ、……っぜん、ぶっ、わたしがっ……だめ、だから……うっ……うぇ……っく……」
そうとだけ言って、言い切る前から震え出した声を押し殺して啜り泣く娘を、当時のマルセルは「ごめんよ」と繰り返しながらただ抱きしめることしか出来なかった。
一緒に泣いている父親に気がつくと、リディシアはまだあとからあとから溢れてくる涙を袖で何度も拭いながら、ぐしゃぐしゃの顔で無理やり笑って、
『なかないで』
と背中を叩いてくれたっけ。
あの時のリディシアの泣き笑いのような顔は、今もマルセルの胸の奥底に焼き付いている。
今思えば、あの時、さっさとこちらから破談を申し入れていればよかったのだ。
いくら分別のない子供だからといって、自分より年下の幼い少女に自責の涙を流させるような男が、それを咎めることもない家が、大きくなった彼女が嫁いできたところで幸福な結婚生活を約束してくれるとは到底考えにくい。
冷静に事情を聞き出し、分析すればすぐにでも辿り着けるはずの結論だった。
だが、当時、最愛の妻が病に倒れ、妹リディシアの面倒をよくみてくれていた長男も全寮制の学院に上がって、家を空けたばかりだった。
その頃まだ三〇代に差し掛かったばかりで、毎日の宮仕えを急いでこなして家に帰り、メイドたちに助けられながら男だてらに小さな女の子の父親をやることに精一杯だったマルセルには、自分の決断の是非を省みる余裕すらなかったのだ。
ロペス伯爵家の父子が涙を飲んで耐え忍ぶ間も、ローレンの婚約者として無責任な振る舞いは止まるところを知らなかった。
もうすぐ“年少学校“も卒業という頃、ローレンはあちこちの夜会に顔を出して遊びまわるようになった。
メルトリア貴族の慣わしでは、婚約者がいる場合、自分や相手が成人前の若者でもパートナーとして同伴するのが礼儀となる。多くの婚約者はそのまま結婚し夫婦となるので、トラブルを避けるため両人の関係を広く知らしめておくのは早い方が良い、と言う考えだ。
するとローレンは、自分が行きたい夜会には必ずリディシアを呼び付けておきながら、本人は彼女ををほったらかして男友達同士でつるんだり他所の令嬢にちょっかいをかけて回ったり、というやり方をし始めた。
ウェリス家の世話になっている貴族は多く、ローレンの傍若無人にも表立って抗議できるものはだれも居ない。
一方で婚約者のある令嬢に他の男が声をかける訳にもゆかず、リディシアは自然と舞踏会で踊る相手のない「壁の花」に徹することを強いられた。
しかも一度や二度のことではない。ローレンの婚約者として同伴させられたすべての夜会でリディシアはそのような扱いをされ、周囲の哀れみや奇異の眼差しに、知らぬ顔をして耐えねばならなかった。
初めの一年くらいまではリディシアも不満を募らせて落ち込んだり泣いたりしていたが、二年、三年とそういう扱いをされ続けるにつれ、婚約者に対する一切の期待を捨てて人形に徹することに慣れていったらしかった。
ごく数名の親しい女友達以外には滅多に笑顔も見せず、浮いた振る舞いも目立った自己主張も一切せず、何かから逃げるように学業に打ち込んだリディシアは“年少学校“を主席で修了するほどの力をつけた。
さらに魔法学院に進学して最初の定期試験で歴代最高の成績をおさめ、その年の最終試験にも抜群の好成績を挙げてついに【徒弟】のローブを授与されるのだった。
勉強に夢中になっている時のリディシアはそれまでとは打って変わっていきいきしていたが、ローレンはそうやって自分の顔色を顧みなくなったリディシアにとうとう飽きたのだろう。
結局、別に女を作って婚約破棄を突きつけてきたのだった。
酷い、あまりにもひどい婚約者だった。もはや体良く厄介払いができたと思う方がいいかもしれない。
申し訳なさそうに俯いて重ねた手をぎゅっと握る娘の肩にそっと手を置いて、マルセルはつとめて優しい声音で話した。
「……これで良かったんだよ、リディ。謝るのはわたしのほうだ。今まで、辛い目に遭っているお前をちっとも守ってやれなかった。本当に、申し訳ない。許してくれとは言えないが、どうか謝らないでおくれ、リディ。お前は何も、なんにも悪くないんだから」
「……っ……勿体ない、お言葉っ、です」
「これからは自由に生きなさい。もともと向こうが要求してきた婚約だ、先方には改めて私からお断りの手紙を認めておくよ」
俯いたまま小さく肩を震わせる娘を、そっと抱き締める。いつかの頃よりずっと大きくなった娘は、何も言わずすっぽりとマルセルの腕の中に収まってしまった。
いつか娘がしてくれたように、背中を優しくぽんぽんとたたく。
「楽しい話をしよう、リディ。もうあの面倒なお坊ちゃんの束縛を気にする必要もない。好きな服を着て、好きなところへ行っていいんだ。そうだ、せっかくだし、たまには勉強を休んでどこかへ遊びにいってもいいんだぞ。父さんが連れてってやる」
ずっとどこかの侯爵家に遠慮して言えなかったことを言ってやると、腕の中の娘はもぞもぞと身じろぎしてむくりと顔を上げた。
目の縁がちょっとだけ赤くなっているが、憑き物が落ちたようなすっきりとした顔をしている。愛おしい。
「もうすぐ魔法師資格の二次があると申し上げたはずですよ。お出かけはそれまでお預けです。……それに、実はまだお話は終わっていないのです、お父様」
スルリと気まぐれな猫のように父の腕から抜け出すと、リディシアはかしこまってもう一つの“お話”をし始めた。
オールバックメガネは良い文明です。