第一話 破談宣告
しっとりとした緩やかなテンポの弦楽と、集まった賓客たちの歓談する声。
テーブル上に所狭しと並ぶ料理の数々。
それに、ボーイの捧げ持った盆の上で照明を反射してきらめくカクテルグラス。
窓際には一族の財力と商才を象徴する、ビリジアンと金刺繍の綿布のカーテン。
ホールの高い天井の中心に吊り下がる、豪奢なシャンデリア。
精緻な加工を施されたクリスタルのきらめきが、メルトリア王国随一の商才と謳われたウェリス侯爵家の影響力を誇示している。
その煌々とした輝きから逃げるように、彼女は、ホールの隅で身を潜めて立ち尽くしていた。
「…………」
誰にも声をかけられないように。誰の目にも留まらぬように。誰の邪魔にもならないように。
それを惨めに思う気持ちは、とうの昔に手放していた。“壁の花”に徹しているのこそが、最大の“美徳”であると教えられたから。
まもなくして、ホールの最奥、ウェリス侯爵家の紋章が掲げられた小高い壇上に人影が現れる。今宵の主役のご登場だ。
それは平均的な背丈で少し痩せ型の身体に、上下別仕立ての夜会服を纏った青年だった。
少し服に着られているような印象を与えるのは、彼が十八歳で成人の年齢に達してから、まだ一日と経っていないからであろう。
けれども、その栗色の瞳は自信に満ち溢れ、豪奢なシャンデリアの光を受けてキラキラと輝いていた。
「皆さん、今日は俺の誕生パーティーに集まっていただき感謝する。宴もたけなわだが、今日はここで一つ重大発表をさせてもらおうと思う」
その青年こそは、五年前の今日から今に至るまで、“硝子の令嬢”ことリディシア・ドゥ・ロペスの婚約者であり、
「この俺、ローレン・ドゥ・ウェリスは───リディシア・ドゥ・ロペス伯爵令嬢との婚約を破棄させてもらう!」
───たった今、その関係を公の前で破り捨てたところだった。
*
(この方は何を仰っているのかしら)
リディシアは、最初、彼女自身の耳を疑った。
“婚約破棄”とは、文字通り彼女と、かのローレンとの婚約を解消するということに他あるまい。
だが、そんな話は今日この日までただの一度も聞かされていない。
だいいち、本来貴族の家同士の縁談とはデリケートなもの。
こんなところで藪から棒に宣言するようなものでもないはずだ。
今宵の夜会は、リディシアの婚約者であるローレン・ドゥ・ウェリスの誕生会も兼ねている。
リディシアは彼のパートナーとして強制的に出席させられながら、
『お前は会場にいるだけでいい。誰と喋る必要もないし、俺を差し置いて誰かと踊ることも勿論認めない。ただ目立たないように、壁際でじっとしているんだぞ』
ときつく言い付けられていた。
仮にも婚約者である女性に、なんとも酷い扱いだ。
だが、今年で十七歳、ローレンの婚約者として仕え始めてから実に五年になるリディシアにとって、もはやそれはお馴染みのことだった。
薄情な婚約者ローレンは、自分のパートナーから美しい盛装も楽しいおしゃべりも取り上げておいて、ダンスの相手もせずほったらかしておきながら、自分ばかりは男友達や他の令嬢たちとの交流に花を咲かせるのだ。
もう長いこと、ずっとそうしてきた。慣れっこだった。
だから今さら「私に構え」「尊重しろ」などと騒ぎ立てるつもりも毛頭なかった。
だが、もはや“槍が降っても動かじ“の境地に達しつつあったリディシアでも、流石にこの場面でだけは、その沈黙を破らざるを得なかった。
いくら一方的に取り付けられた縁談でも、目の前で一方的に反故にされて黙っていては、リディシアの父……当代ロペス伯爵の沽券に関わる。
「いったい、どういう事でしょうか。ローレン様」
徐々に壇上のローレンを取り囲むようにできつつあった賓客の群れから一歩前に踏み出して問い質す。すると、ローレンはリディシアを見下ろしながら、露骨なまでの蔑みがこもった声でこう返してきた。
「出たな、稀代の悪女め。どういうことも何も、たった今宣言した通りだよ。今この瞬間をもって、お前は俺の婚約者ではなくなったんだ。もうこれ以上俺に……“俺たち”に付き纏うのはやめてもらおうか」
「……はい?」
全く返答になっていないどころか更なる疑問を巻き起こすローレンの答えに、リディシアは思わず首を傾げた。
“稀代の悪女”と呼ばれるような大それたことをした覚えはないし、まして婚約破棄される謂れもない。
それに、婚約者のリディシアを五年間にわたってほぼ無視してきたのはローレンの方だ。
それを、一体いつリディシアが彼に……“彼ら”とやらに付き纏ったというのだろうか。
困惑して言葉に詰まるリディシアを見て、ローレンは何を思ったか得意げにこう続けた。
「俺も“彼女”も、いいかげん迷惑してるんだよ。なあ、そうだよな? マリヤ!」
「その通りですわぁ、ローレン様。あたし、ずっと我慢してたのよぉ」
その時、どこからともなく壇上に姿を表したのは、全身をきらきらしく飾り立てた薄桃色のドレス姿の娘だった。
見るに年の頃は十五、六ほど。リディシアよりほんの少し年下くらいだろうか。
彼女のドレスはリディシアの質素な夜会着が霞んで見えるほど華美である。言葉を選ばなければ、派手すぎと言ってもいいくらいだ。
メルトリア貴族の夜会では、女性の参加者は主役のパートナーたる女性より目立った格好は出来ないのが暗黙のルールである。はずだ。
が、驚くべきことにローレンもまた、その娘の目に余る不遜をまるで気にも留めていない様子なのであった。
「リディシア様、ごめんなさいねぇ。婚約者を奪っちゃうことになるなんて、思ってなかったの。でも、あなたのしたことに比べたら……このくらい、どうってことないわよね?」
「おお、マリヤ! お前が気に病む必要はないさ。どっちみち俺たちの婚約はとっくに限界だったんだ。むしろ胸を張ってくれ。マリヤが勇気をくれたおかげで、やっと俺は今日、自由になれるんだからな……!」
「うふふ、ローレン様のお役に立ててぇ、マリヤ嬉しいですぅ」
くねくねと体を揺らしながらローレンの腕に両腕を絡めてべったりと組み付いているこの娘、向こうはこちらを知っている様子だが、リディシアはまるで見たことがなかった。
こんなどぎつい存在感を放つご令嬢だったら、どこかであいさつの一つでも交わしていれば嫌でも思い出すだろう。
だが、その大きな目にも派手な化粧にも見覚えはない。
一方的に認識されているというのも気持ちが悪く、
「ローレン様、こちらの方は?」
リディシアがそう誰何すると、ローレンはおもいきり顔をしかめて怪訝な声を上げた。
「あ? 何を言っているんだ? お前がマリヤを知らないわけないだろ」
「へ……?」
「王立魔法学院一年、クレール男爵家のマリヤ・ヅー・クレールだ! まさか相手の名前も知らないで嫌がらせしてたとはな。これから一生謝罪し続ける相手の名前だ、よく覚えとけ!」
「はぁ……??」
突然意味のわからないことを捲し立てる婚約者、もとい、“元”婚約者にリディシアは思わず間の抜けた声を上げてしまった。
今日、今、この瞬間まで名前も顔も存在も知らなかった女に、リディシアがどうやって嫌がらせしたというのだろうか。
リディシアは思わず眉を顰めてマリヤと呼ばれた女のほうに目をやる。
その視線に気がついたのだろう。女はリディシアに見せつけるようにローレンの身体に擦り寄って、甘えた声で言った。
「仕方ありませんわ、ローレン様ぁ。あたしが女のくせに火炎の【祝福】なんか持ってるからいけないんですう。でも、そのせいであんなにいじめられるなんて……【無祝福】の人ってみんなこんなに嫉妬深いんですか? マリヤ怖ぁい……」
「……はぁ」
どうやらマリヤの方も、リディシアから“いじめられた”という主張がしたいようだ。
いったい、どこの“リディシア”が公開処刑同然の破談宣告を貰うほどの悪意をぶつけたというのだろう。
ここまでくると、お人好しのリディシアも理解しつつあった。
明らかに事実無根の糾弾を受けていること。
それに、そこに多大な侮辱が織り交ぜられていることを。
だが、それに対する憤りや不快感よりもなおリディシアの頭をいっぱいにしていたのは、とにかく事の仔細をハッキリさせたい、という探究心にも似た場違いな欲求だった。
「恥ずかしながら、私はまだ事態が全く掴めておりません。どうか私にも納得のいく説明を頂けませんでしょうか」
リディシアが請うと、ローレンたちはにやりと嫌な笑みを浮かべた。喋りたいことが山ほどある、そんな顔だ。
そこにリディシアを次期ウェリス侯爵夫人として尊重する気持ちは微塵も感じられない。
ただ捨てられた哀れな女を慰み者にする絶好の機会がやって来たことへの下卑た喜びがあるばかりだった。
それを目にして、フウ、とリディシアは小さいため息を漏らす。
一生涯仕える婚約者としてローレンに遠慮して生きてきたが、どうやら、これ以上遠慮する必要はないらしい。
(ずっと目立たないように気をつけてきたものを、わざわざ舞台の上に引きずり出したのはあちら様のほうですものね)
丸めた背をスッと伸ばして、真正面から“元”婚約者を見据える。
いかなる侮辱にも耐えられるように、リディシアはきつく両拳を握りしめた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価等していただけると大変励みになります。