氾濫 ⑥
「始まり……?」
『ああ、眼をそらさぬように』
短い返事だけを残して、お爺ちゃんの声が聞こえなくなる。
残されたのは私と、部屋いっぱいに敷き詰められた死に掛けの人たちだけだ。
せめてなにかできることはないかと手を伸ばしても、触れることは出来ずにすり抜ける。
「……お爺ちゃんと一緒だ」
たぶん、この部屋は全部過去の映像なんだ。
「どうして幽霊船が生まれてしまったのか」を見せるための幻で、私から干渉することはできない。
この光景も、これから起きることも、ただ見ているだけしかできないのだ。
『……仕方がないが、臭うな』
歯がゆい思いを噛み締めていると、誰かが扉を開けて部屋に入ってきた。
お爺ちゃんとは違う。 腐臭に備えてか、カラスみたいなマスクを装着しているので顔は分からない。
この世界の軍人なのか、腰に剣を装着したその人は、横たわる人たちを一瞬だけ見下ろして小さく舌打ちをした。
『クソッ、昼飯前だってのに食欲が失せる光景だ。 臭いが染みたらどうしてくれるんだ』
『う、ぅ……ぁ……』
軍人は足元でうめく人を足で退けると、部屋の中央部まで進み、床に何かを差し込む。
それは赤い石がくっついた針のように見えた。 師匠ならなにか分かるかもしれないが、私じゃ何の作業をしているのかさっぱり分からない。
『こちらD-4部屋、設置完了。 5分以内に退避は完了する。 ……うえぇ、靴は買い替えだな』
ひとしきり作業を終えると、軍人は転ばないように慎重な足取りで部屋から出て行った。
部屋の中央に刺さった針に近づいてもう一度よく観察してみるが、やっぱりなんのための道具なのかはさっぱりだ。
見た目だけで例えるなら真っ赤な石が乗ったゴルフのピンだ。 宝石のようにカットされた赤い石は、内部に描かれている魔法陣が透けて見える。
「うーん、師匠ならどういう魔法陣なのか分かりそうですけど」
以前に師匠が水のゴーレムを作る時に書いた魔法陣よりずっと複雑だ。 とてもじゃないが私の頭じゃ覚えておけない。
スマホが持ち込めたらパっと写真を撮って保存できたのに……なんて考えていると、突然赤い石が発光し始めた。
「うわー!? なになになに、何か弄っちゃった!?」
慌てて発光を止めようとするが、やはりすり抜けるばかりで石に触れることはできない。
そうこうしている間にも光はどんどん強くなり、あっという間に部屋全体が赤く照らされる。
『う……ぁ……ぁ、あ……ああああああああああああああああ!!!!!?!?』
「わっ!? だ、大丈夫ですか!?」
眩しくて石を直視できないほどに明るさが増すと、今度は横たわった人たちが苦しみ始めた。
激しく痙攣し、大きく見開いた目は血走ってギョロギョロ動き、口からは泡を吹きながら叫び声を上げている。
どう考えても普通じゃない、このままじゃみんな死んでしまう。 原因は間違いなくこの石だ。
『やめ、やべて……お、おおお俺を俺を俺俺俺を奪うなうばうううううななななああああああああ!!!!』
『死、死ぬ、死なせ死しし死しな死なせて!!! ころ殺して!!!!』
「っ……」
手はすり抜ける。 震える人の手を握ることも、原因である石を止めることも出来ない。
すべては過去に終わった話だなんて分かっている。 でもそれならなんでこんなものを見せた。
何もできないのに、ただ黙ってこの仕打ちを眺めていろとでも言うのか!
『――――あ』
電池が切れたかのように悲鳴が途切れると、途端に苦しんでいた人たちが溶け始めた。
身体がみるみる黒ずみ、どろどろに溶けて人と人の境目が分からなくなっていく。
やがてそれは生きている人も、死んでいる人も、一つになって床面一杯に広がる黒い水たまりへと変わった。
「な、なに……これ……」
さっきまで命だったものはどこにもない、あるのは黒い液体だけだ。
言葉にできない惨状に、胸の奥からは吐き気がこみあげてくる。
『悍ましいな。 罪人に遺された善性をはく奪し、残された悪意を抽出したのがこの液体だ』
「……悪い人の悪い心を煮詰めた水ってことですか? なんのために、そんな……」
『呪いのためだ。 人の悪意を凝縮しより高純度の呪詛を成す、この時代の人類は何か目的があったようだな』
「目的とは……?」
『話はあとだ、続きが始まる』
またお爺ちゃんの声が聞こえなくなると、床の水たまりがボコボコ泡立ち始めた。
それは沸騰するようにどんどん激しくなり、水の中から何本もの細い触手が生まれ出す。
アルデバランの事件でも見覚えのある、幽霊船の触手だ。
『ころして』 『なんで』 『ゆるして』 『やだ』 『ころして』
『やめて』 『ころして』 『どうして』 『ゆるさない』
『くるしい』 『ころして』 『だめ』 『わたしだけ』 『ゆるして』 『おまえも』
『ころして』 『ころしてやる』 『ころして』 『やめて』 『どうして』
何かを求めるようにウネウネと動く触手に合わせて聞こえて来たのは、いなくなったはずの人たちの声。
年齢も性別もバラバラな声が、水の底から泡と一緒に浮かんでは消えていく。
『助けを求めるように聞こえるが、手を差し伸ばした人間は悉くが幽霊船へと取り込まれる。 人類の仲間意識に付け込んだ罠だ』
「……助ける方法は、ないんですか?」
『試行錯誤は人類の得意技ではないか? 現代まで解決策が無いということは、そういうこと――――だった』
「……だった?」
『ああ。 現代まで続いた悍ましい蟲毒の中で、ようやく見つかった小さな穴だ』
『――――ほぎゃあ』
『……そう、この声が導になる』
ぬるりと私の横に現れたお爺ちゃんが、泡立つ水たまりを指さす。
示された先には、泡と一緒に浮かんで来た小さな赤ちゃんの腕が見えた。




