氾濫 ④
「…………え?」
ノヴァさんが開けてくれた穴から逃げた直後、私が振り返って見たものは大きく開かれた竜の口だった。
私なんて100人ぐらい詰め込めそうなおっきな口は、歯も舌も見えないほどの真っ暗な闇に覆われている。
食べられたらどうなるか分からない暗闇……その中に一瞬、動く何かが見えた気がした。
「ひ、人……?」
いや、気のせいじゃない。 たしかにそれは人の手だ、それも赤ちゃんの。
私達以外に襲われた人がいたのか、だけど幽霊船に触れたならもう――――
―――――おぎゃあ
「……っ!!」
竜の大声でジンジンする耳でも、その産声を聞き逃すことは出来なかった。
「きっと師匠には小言を言われるんだろうな」なんて頭の中では分かっていても、気づいたら私はその暗闇に向かって飛び込んでいた。
――――――――…………
――――……
――…
「バ~~~~~カか君は! バーカバーカ、十中八九罠だよ罠!!」
「だって本当に赤ちゃんだったら困るじゃないですかぁ! それに間違ってなかったので私の勘は正しいです、ホラ!」
「ほらと言われても見えないし聞こえないんだよこちとら! 忙しいんだから余計な情報を投げかけるな!!」
四方八方から飛んでくる必殺の一撃を掻い潜りながら、モモ君のバカ話に耳を傾けるのは至難の業だ。
正直話を聞いているだけでいくらでも小言が浮かんでくるが、言葉に出力する手間すら惜しいのが現状だ。
「状況を確認するぞ。 君は竜の口内に赤子の姿を確認し、救助のために飛び込んだ! ここまでは良いな!?」
「はい!! ちゃんと保護できました!!」
「君の手元に赤子も存在する、と……モモ君、君自身の自己認識は今どうなっている? ちゃんと肉体の輪郭は保っているか?」
「よく分かんないです! ここ灯りも無いから全然周りが見えないです!!」
「…………そうか」
モモ君の状況が把握できない以上、立てられる仮説はいくつかある。
まず第一にすべてが罠である可能性。 モモ君はとっくに死亡し、会話しているのは幽霊船が操る骸か何かで、僕を引きこもうとしている。
第二に赤子だけが罠である可能性。 いわば正直者だけがバカを見る疑似餌だ、だがわざわざそんな遠回しな真似をするか?
第三の可能性として、本当にモモ君が奇跡的に生存し、幽霊船内部から生存者をサルベージしている可能性。
「……さすがに希望的な観測が過ぎるか」
『やあ、ライカ。 君のメッセージ確かに受け取ったよ、これはその返信だ』
今後の方針を決めあぐねていると、先ほど街へ射出した言霊がちょうど帰ってきた。
流石は当主様、この程度の魔術は難なくこなせる。 これはシュテル君も将来有望だな。
『こちらの方針が決まった。 非戦闘員の避難が完了次第、残存する魔術師・魔法遣いによる総攻撃を仕掛ける』
「…………そうか」
風魔術による音信は一方的なものだ、相槌を打ったところで返事はないことは分かっている。
アルデバランに存在する戦力による一斉砲火、竜に対してどれほど通じるかは不明だが、ある程度の勝算はある作戦だろう。
なにせ魔法遣いの中には聖女も含まれているはずだ。 もし攻撃が開始されれば、竜はともかく内部のモモ君まで余波が及びかねない。
「……あー、モモ君モモ君。 聞こえているか?」
「聞こえてますよー! どうかしましたかー!?」
「アルデバランから連絡があった。 街に向かって侵攻する竜に対し、魔力攻撃を仕掛けるつもりだ」
「えっ、何かずっと動いてるなと思ってたけど街に向かっているんですか!? 止めなきゃダメですねそりゃあ!!」
「そうだとも、竜を滅せられるか分からないが……少なくとも体内にいる君達に危険が及ぶのは確かだ」
「えっ!? じゃあ師匠、せめてこの子だけでもなんとかしたいのでもう少しだけ粘ってくれませんか!!」
「…………」
ああ、余計な心配だった。 この子は間違いなく本物だ。
ずうずうしくも師匠の力を過信し、あわよくば自分よりも他人だけでも助けようとする度し難い強欲。
他人をおびき寄せるための罠には到底真似できない阿呆だ。
「…………打開策を練るために時間を貰うぞ、それまで君も君で何か行動を起こせ」
「ありがとうございます、大好きです師匠!」
「好きに言ってろ、街の攻撃が始まるまで間に合う保証もないからな」
竜と街までの距離、進行速度、そして魔法や魔術の有効射程を考えればまだ時間はある。
攻撃が始まれば巻き添えを喰らう前に逃げるしかない、僕だけなら魔力の予兆を察知して逃げることは十分可能だ。
「……さて、1000年ぶりの竜退治か。 万策尽きるまで付き合ってもらうぞ」
『グオオオオ……!!』
――――――――…………
――――……
――…
「うーん、師匠には何とか頑張れって言われたけど……どうしよう」
自分の掌すら見えない暗闇の中、私は悩んでいた。
脱出しようにも右も左も分からない、今の私が分かっているのは腰から下が水に浸かっているような感覚と、赤ちゃんらしき何かを抱えているということだけだ。
こんなことならスマホを持ってくればよかった、ずっと電源を切って宿に置いたカバンに入れたままだ。
「灯り、灯り……って、そうだ。 私も魔術使えるんだ」
この世界に来て覚えたたった二つのこと。
一つは指さした人がどこにいるか何となくわかる魔法、そしてもう一つがこの世界に来て初めて覚えた小さな魔術。
赤ちゃんに燃え移らないように注意しながら、人差し指の先に意識を集中させる。
「む、むむむむむ……火よ~出ろっ!」
念じて、念じて、たっぷり念じておよそ5秒。
マッチを擦るよりも面倒な時間をかけ、ようやく指先にろうそく程度の火が灯った。
吹けば消えてしまいそうなすごく頼りない灯りだけど、今は何よりも心強い。
「やった、点いた! うわー嬉しいな……って赤ちゃん赤ちゃん!」
明かりが点いて確認したかったのは、まず赤ちゃんの安否だ。
私が抱きかかえたものを明かりで照らすと、それはたしかに赤ちゃん……の形をした、黒い影のような「なにか」だった。
全身を墨汁に浸したような真っ黒が、時折手足を動かしながらぐずったり唸ったりしている。
「あー……うぅー……」
「い、生きてる……のかな?」
これも幽霊船というものの影響だろうか? だけど、以前とは違って赤ちゃんからはなんとなく生きている温もりが感じられる。
見た目はすごく不気味だけど大丈夫だ、この子はまだ取り返しがつく。
「だ、大丈夫ですよー。 私が付いてますからねー……でもどこなんだろうなぁ、ここ」
ザブザブと水をかき分けながら、その場を移動する。 どっちに進んでいるのかなんて分からないが、まず行動しなきゃ何も始まらない。
この水も何なんだろう。 胃液……だったらたぶんとっくに私も溶けているはずなので、多分違うと思いたい。
とにかく小さな明かりを頼りに、壁を探しながら歩いていると、すぐにそれは見つかった。
「――――――あれ、これって……?」
腕に触れたものは、少なくとも体内の柔らかい感触ではなかった。
むしろ堅い、ざらざらとした木の感触だ。 明かりを近づけてみると、ぼんやりと木で組まれたものの正体が照らし出される。
「これって、船……かな?」
私が触れたのは、どこもかしこもボロボロに壊れて朽ち果てた、まさしく「幽霊船」と呼べるような船だった。




