竜の寝床 ⑦
「な、なんで……」
この山と海への距離は近い、しかし隣接しているほどのものじゃない。 そもそも海とは高い岩壁に遮られているはずだ。
それに竜だって馬鹿じゃない、幽霊船と接触するようなリスクを冒すはずがない。
頭の中であらゆる願望が飛び交うが、そのことごとくが目の前の現実に砕け散る。
目の前の竜は、間違いなく幽霊船に肉体を乗っ取られているのだから。
『アア゛ア゛……』
「ひっ……!?」
目の前に迫る触手に震えた声しか出せない。 この血に住まうものなら皆知っている、あれに触れたら終わりだと。
この世全ての悪意を煮詰めて形を成したような呪詛の塊、人間のような脆い肉体など一瞬で捻じ曲げられる。
生きるか死ぬかじゃない、そのまま死ねたならまだマシという域の話なのだ。
その「終わり」が目の前まで迫っているというのに、震える喉は詠唱の一つも口ずさめない。
初めて知ったが、人間恐怖の限界を超えると、死ぬ気の足掻きすらできないらしい。 強張る身体は逃走すら拒んでいる。
ああ、私の人生はここで終わりなのか。 こんなことなら最後のチャンスなんて要らなかったんだ、あのまま死ねばよかったのに―――――
「――――“爆ぜろ”ォ!!」
「へっ……きゃっ!?」
怒号混じりの乱暴な詠唱とともに、私に迫る触手ごと目の前の空間が炸裂する。
竜の皮膚には焦げ跡一つ付かないが、それでも一瞬の隙は生まれた。
「今だ嬢ちゃん、逃げるぞ!!」
「OKです! 口閉じてしっかり捕まってくださいクスフさん、舌噛みますよ!」
「おま、お前ら!? なんで―――ヴっ!?」
爆炎に紛れて現れたピンクに襟首を掴まれ、そのまま一瞬で視界が彼方へ吹っ飛んだ。
緊急事態なので仕方ないが、咄嗟に魔力で首の保護が間に合わなければ窒息していたところだ。 このアホピンク覚えておけよ。
「ゲホゲホごほうぇっほ!! お、お前ら死んでなかったのか……!」
「師匠のおかげで理不尽なトラブルの対処には慣れました! けど何ですかあれ!?」
「俺も分かんねえ! ただ異常事態ってことはたしかだ、俺たちだけじゃ手に負えねえ!」
「同感だ! アルデバランに知らせる必要がある、竜が幽霊船に取り込まれた!!」
『グオオオオオオオオオアアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!』
潰れた喉に無理矢理空気を通したような絶叫が鼓膜を劈く。
同時に四方八方の地面が隆起し、私達を抱えたピンクへ襲い掛かる。
魔術などではない。 ただ鳴き声に自然と魔力が籠り、竜の意志に大地が応えてしまっただけだ。
悍ましい事に、たとえ竜としての尊厳を失おうとも、その生態は変わってはいない。
幽霊船はこの山から私達を逃がす気が一切ないようだ。
「おい構えろガキィ!! “爆ぜろ”!!」
「言われなくたってェ!! “射貫け疾き一番風”!!」
おっさんと分担し、必死に迫る土の牙を迎撃する。 幸いにも一つ一つは簡単な詠唱で壊せる程度の強度だ。
だがまずい、この山にいる限り足場はすべてあの化け物のテリトリーだ。 今のところは拮抗しているが、このまま続けばこちらの魔力が先に枯渇してしまう。
一度でも捕まってしまえばおしまいだ、全員仲良くあの呪いに飲み込まれる。 それだけは絶対に避けなければ。
「ピンク、お前は逃げることだけに専念しろ! 後ろはおっさんと私が何とかする!!」
「で、でもこれ……どんどん逃げ場なくなってきてます!」
四方八方から襲い掛かる大地の猛攻は、二人掛かりでも押し込めず……むしろ段々と数が増えている。
単純に私達の手数と練度が足りていない。 短縮や無詠唱でこれ以上の連射は無理だ。
「おい、押し込まれるぞ!? さっきみたいに潜れねえのか!?」
「無理だ、3人分運ぶにはもう魔力が……!」
「じゃあ2人なら問題ないですね!!」
瞬間、ピンクはその場に急停止し、抱えていた私達を全力でぶん投げた。
隆起した大地の包囲網が出来上がる寸前、僅かな隙間を通した見事な投擲だった。 投げられたのが自分でなければ拍手していたところだ。
「おま、何を……!?」
「私は私で何とかしますので! クスフさんたちは街にこのことを知らせてください、ご武運を!」
それが土の壁が閉じる寸前、ピンクが残した最後の言葉だった。
まさに間一髪、もう少しでも判断が遅れていたら全員壁の内側に取り残されていただろう。
それでもあの少女は、自分を犠牲にする選択肢を迷うことなく選び取ったのだ。
「――――“皆、底に沈む”ッ!!」
本日二度目の詠唱を遂げ、私とおっさんの身体が地面の下へと潜航する。
今の魔力量から逆算しても、安全圏まで逃げるならギリギリだ。 迷っている暇はない。
「おい、何やってんだ!? 嬢ちゃん置いてく気かよお前!!」
「無理だ、あれはもう私達じゃ助けられない。 分かるだろ」
「だからって見捨てて……!」
「お前が戻ればあのバカが振り絞った勇気は無駄になるんだぞ! それでもいいなら戻れ、二人仲良く犬死してこい!!」
「テメェ!!」
「こうやって無駄口叩く時間も惜しいんだ、早く決めろ……!!」
この固有魔術は他人を運ぶことも、一日に何度も使うことも想定していない。
呼吸するための空気を確保するだけでもどんどん魔力を消費する、無駄話を重ねるほどに私達の生存率は下がって行くのだ。
「偽善者面するなよ、同類がッ!! 死にたきゃ一人で死ね、私を巻き込むな!!」
「っ……!!」
おっさんが怒りのままに拳を振り上げるが、振り抜く前に収める程度の理性は残っていたらしい。
もし私を殴っていたのなら、この男も見捨てて地上へ放り出していたところだ。
誰だって自分の命は惜しい、わざわざアストアエラの連中に恩赦を願うようなやつならなおさらだ。
だからあのピンクの犠牲は喜ぶべきなのだ、「ああ自分じゃなくてよかったな」と。
「……行くぞ、あのバカの遺言ぐらい聞いてやらなきゃな」
「…………クソッ」
そこから先は無駄な空気を消費することも惜しく、ただ無言で私達は必死に山から逃げ出した。
幸運にも無事だった馬車を走らせ、街に戻ったのはそれから3時間後の事だった。




