フォーマルハウトの姫君 ④
「お、お、お……お腹壊しちゃいますよコルヴァスちゃーん!?」
「平気だ、いつも食ってる」
「いつも食べてるんですか!?」
私が驚いている間にもコルヴァスちゃんは黒っぽい人影から腕をもぎ取り、ジャーキーよろしく噛み千切ろうとしている。
お世辞にも美味しそうには見えない、なにより人じゃないとしても人型の塊から肉を千切るというのはとてもダメなことをしている気がする。
「間違っても君は食べるなよ、あれを接触できるのは彼女の呪詛耐性あってこそだろう」
「食べませんよ! って師匠、いつから!?」
「今飛んできたところだ。 君も飛び越えるならそう言え、彼女がいなければ死んでいたぞ」
「ご、ごめんなさぁい……」
水球を構えながらいつの間にか隣に立っていた師匠は、額に血管を浮かべて怒っている。
たしかに師匠の言うとおりだ、ここが幽霊船の呪いに侵された場所だということを忘れていた。
「ウ゛ー……ちっこいの、酷いこと言うなお前!」
「良いんですコルヴァスちゃん、今回は私が完全に悪いので……」
「お前、でっかいのが危なくて怖い顔してすぐ飛んできた! なのになんで酷いことばかりワブァゴバー!?」
「コルヴァスちゃーん!?」
「失礼、手が滑った」
犬歯をむき出しにして怒るコルヴァスちゃんの顔面に、先ほどから師匠の手元に浮かんでいた水球が投げつけられる。
何か喋ろうとしていた気がするけど、それも水音にかき消されてよく聞き取れなかった。
「うぅ゛ー!! シュワシュワする!!」
「えっ、炭酸水ですか?」
「ああ、たぶん聖水を混ぜたからだろ。 呪いが浸透した身体なら多少染みるか」
「ちっこいの、やっぱりお前嫌い!!」
「まあまあ、仲よくしましょうって……それで師匠、聖水とは?」
「読んで字のごとくだ、魔法使いによって清められた水だよ。 多少の気休めになると思ってレグルスで用意した」
すると師匠が肩掛けバッグから取り出したのは、藁のクッションが巻かれた手のひらサイズのガラス瓶だ。
青いガラスが透ける中には液体が満たされているのが見える。 1本1本の量は少ないけど、バッグの中はすべて同じガラス瓶が詰め込まれていた。
「師匠……重くないんですか、それ?」
「もちろん重いし今にも肩が千切れそうだ、だから普段は必ずダイゴロウに預けるようにしている」
さりげなく私には預けてくれないと言われた気がする。
だけど私が持つと全部割ってしまいそうだから何も言えない、師匠は賢いなぁ。
「ついでだ、念のため君も一本飲んでおけ。 触れなかったとしても呪詛の塊が危うい距離まで近づいたんだ」
「飲んでいいんですかこれ?」
「呪いを受けた場所に振りかけるより効果が持続する、予防としてはこちらの方が都合がいいんだ」
「なるほど、なんとなくわかりました。 では遠慮なく」
飲み干した聖水は当然だけど水だ、味はない。
それでもこののど越しや軽い口当たりは、レグルスで王様に振舞ってもらった水と同じだ。
もしかして王様もこれを見越して聖水を飲ませてくれたんだろうか?
「うーん、美味しい! もう一杯!」
「貴重な聖水を無駄遣いできるか、これ一本で金貨1枚だぞ」
「グルルゥー……! でっかいの、ヤな雰囲気になった!」
「ああ、コルヴァスちゃんに嫌われた!」
「聖気を纏っている証拠だ。 ついでに少し試すか」
次に師匠は新しい聖水のフタを空け、ほんの一滴だけを黒い人型へと垂らす。
表面に触れた途端に「ジュッ」と音を立てて蒸発する聖水、だけどそれ以上の変化は特になかった。
「……やはり呪詛が濃いな、聖水を飲んでも触らない方が賢明だろう」
「ひええ、本当にありがとうねコルヴァスちゃん……」
「うぅ゛ー……!」
聖水を飲んだせいでコルヴァスちゃんとの距離が遠い、せっかくできた妹みたいな子に嫌われるのはちょっとショックだ。
時間が過ぎれば効果は切れるかな、仕方ないから今は我慢しよう。
「不運な出会いだが得られた情報も多いな、まずコルヴァスの耐性は信用できる。 それとフォーマルハウトに近づくにつれてこれと同じやつがわらわら湧いてくるだろう」
「も、もともとは人間だったんですかね……?」
動いているところを見たのはほんの数秒だ、それでも今目の前で横たわっている黒い影は間違いなく人の形をしている。
立体感がないのっぺりとした黒はまるで黒い折り紙を切り抜いただけの人型だけど、サルやチンパンジーよりそのシルエットはやっぱり人間に近い。
「今となっては知る由もないが、どのみち呪いに侵された時点でもう人とは呼べないな。 それに人間ならコルヴァスは人肉を食らったことになる」
「…………あまり考えないようにします」
「賢明だな。 まあ、せめて汚染が広がらないように始末は付けるか」
師匠が指先に魔力を灯して空中に何かを描くと、横たわる人型が突然燃え上がる。
火の手は魔術を唱えた気配もないのにあっという間に広がり、人型の全身を包み込んだ。
「詠唱ではなく術印による発動だ、手間はかかるが持続的に魔術を行使できる。 念のため煙は吸うなよ」
「ほあー、師匠って本当に器用ですね」
臭いはしない、煙もほとんどない。 だけど炎で焼かれた人型はどんどん小さくなっていく。
特に示し合わせたわけでもないのに、私は消えていく人型に向けて両手を合わせていた。
「……渡来人の弔い方か、懐かしいな」
「知ってるんですか?」
「ああ、僕の師を名乗っていた不審者もよく同じような所作を行っていたよ。 手に小さな球を束ねたブレスレットを着けながらな」
「ブレスレット……? ああ、たぶん数珠です! たしかお経を何度唱えたか数える道具ですよ」
「ジュズ……ジュズか、へえ。 はじめてあれの名前を知ったよ」
師匠は両手を合わせる私と燃える人型を見ながら、何度も小さく覚えた名前をつぶやく。
少しだけ嬉しそうなその横顔を見ると、なんだか胸の中に小さいモヤモヤが浮かんできた。
「……さ、そろそろ先に進もうか。 その前に向こう岸のダイゴロウを回収しないとな」
『わおおぉーん……』
「ああ、師匠だけ飛んできたから置き去りになっちゃったんだ……コルヴァスちゃん、待たせてごめんね?」
「うぅ゛ー……肉……」
「……えーと、干し肉食べる?」
「でっかいの、良い奴!!」
聖水を嫌うコルヴァスちゃんの機嫌は、お肉一枚で何とかなった。
ただこのあと、向こう岸から戻ってきた師匠に食料を無駄遣いしたなと怒られることになるけど、仲直りするには安い代償だ。




