064 背水の覚悟
(その距離を跳ねて、着地で静止!?本当に…っ、どんな神経してるんだい…っ!?)
目の前でムササビが見せた、あまりに繊細すぎる挙動。その難易度を思い、ミズグチの頬が引き攣った。
この地形で、その距離に届くだけでも異常だ。だというのに、今この男は明らかに空中で姿勢を調整し、縁への着地に切り替えた。
(僅かでも着地点や角度を間違えたら、背中から真っ逆さまだよ…っ!?)
想定通りの状況に持ち込めはしたが、それでもなお想定の上を行くムササビの身体操作技術に、ミズグチは鳥肌を抑えることが出来なかった。
とは言え、現状に何ら不都合はない。アレはもうそう言う生き物だと無理矢理飲み込んだミズグチは、ビルの端までたどり着くなり、すぐさま銃を構えた。
若頭は、この男の生け捕りをご所望だ。背後関係が不明な以上、死人に口なしと言う状況は避けたいのだろう。故に、銃はあくまで支援。直接ムササビにぶつけるのであれば、モリタと言う接近戦の鬼が最も適切だった。
(その巨漢はね。存外素早い上に、読みも鋭いんだ)
仮の上司の能力を鑑みたミズグチは、知らず口角を上げる。
ムササビを名乗るこの忍者は、これまで地形対応力は散々に見せてきた。しかし、対人能力は未だ未知数。それを測る指標として、モリタは組が用意できる最上級の"物差し"だ。体躯、反応速度、読み。いずれもこの巨漢はミズグチ以上。向かい合っての接近戦なら、組最強と言えるのがモリタと言う男なのだ。
徹底的に接触を避けられたならば、確かにモリタは戦力外だ。機動力は一般組員にも劣る上に、銃の扱いもさしてうまくはない。だが、無手の間合いに引き込んだのなら、この男に敵うものはいないだろう。
モリタを真っ直ぐに踏破したならば、それは「直接的な交錯ではムササビを取り押さえられない」と言っても過言ではないのだ。
故に。
「是が非でもぶつかってもらうよ。ムササビ君」
小声でそう嘯いて、ミズグチは引き金に指をかけた。
狙いは、ムササビの前方。向かい合う二人のちょうど中間にあたる床面だ。
(横への進路は取らせない。さぁ、測らせてくれ。君の対人能力を)
微かな期待を胸に、ミズグチは一切の躊躇なく引き金を引き絞った。
火薬の炸裂音が間を置かず二発。ムササビの視界に映るよう、ギリギリ当てずに左右へ一発づつ着弾させる。僅かに破片と埃が舞い、銃口からは硝煙が立ち上った。左右を通り過ぎた風圧が、ムササビの服を僅かにはためかせる。
しかし、肝心のムササビは何ら反応を示さなかった。仁王立ちのまま、微かな身動ぎすらしない。
そのあまりにも泰然とした様子に、ミズグチが眉根を寄せて訝しむ。
(…当てる気がないと見切られた?)
敵の思考を考察したミズグチは、視線に剣呑な色を乗せた。
もしそうだとしたら、これまでの攻防でそこまで見抜いた洞察力は称賛に値する。その確信に身を委ねる胆力も、確かに素晴らしいだろう。
だが、ミズグチの内心は、落胆に満ちていた。
(その判断は甘いよ、ムササビ)
ほんの僅かな苛立ちとともに、ミズグチは銃口をずらす。
(もし本当にそうなら話にならない。前向きに検討する余地すらない。どれほど身体能力に優れていようと…)
致命にならないよう、狙いは脚。骨を避けて肉を抉ろうと、再び引き金に指をかけた。
「敵の都合に身を委ねるのは、ただの愚者だ」
指に力を込め、金属を擦る音と共に、火薬が炸裂する。
その直前。
『6時方向、右脚』
モリタを見たままのムササビが唐突に右足を引き、90度半身になった。
「な…っん…!?」
その挙動に、ミズグチが言葉を失い、全身を総毛立たせた。恐怖に等しい感情が肉体を駆け抜け、珍しく銃口がブレる。
ミズグチは、その一発を撃てなかった。撃たせてもらえなかったのだ。
何せ、撃つ前に躱されたのだから。
そう。今ムササビは避けたのだ。撃つ前の弾丸を。
こちらを見もせず。弾道を悟り。タイミングを見切り。最小の労力でもって躱してみせた。
引き金すら引けない、先の先たる完璧な回避。
(人間業じゃない…っ!!!)
そのありえない反応に、ミズグチが頬を引き攣らせて、堪らず戦慄いた。
◆
「ムササビ、と。呼べばいいか?」
「…」
対峙する巨躯からの問いかけ。しかし、カナタはそれに答えない。そんな義理も義務もないし、声から素性がバレることも考えられるのだ。会話なんぞに応じる筈が無かった。
それは当然モリタも承知している。故に、反応がないことに何ら頓着はない。ただ、己の用件を一方的に告げるだけだ。
「貴様の身体能力には心底舌を巻いている。可能であれば、こちらに引き入れたいくらいだ」
それは、手放しの称賛と勧誘だった。どのような背後があるかは未だ分からない。だがそれでも、これまで見せつけられた実績だけで、目の前の忍者は十分に戦力として魅力的だったのだ。
無論、応じるとは思っていない。あくまで物は試しという程度。それでも、モリタはそれなりに真剣だった。
「その気はあるか?」
「…」
その提案に、カナタは僅かに反応する。
提案内容そのものは、当然論外だ。一考にすら値しない。ただ、声をかけてくるというモリタの行動が、疲弊した今のカナタにとっては重要だったのだ。
その声を聞いた瞬間、カナタは敵が即座に始める気はないと悟った。ならば今しかない、と。徐に後ろ腰へと手を伸ばす。
唐突な敵の挙動を訝しむモリタとミズグチ。そんなヤクザ二人を他所に、ムササビはホルスターのストッパーを外し、筒状の何かを取り出した。
武器と考えて警戒した二人を他所に、カナタはそれを口元へと持って行く。
僅かに下を向き。
反対の手でマスクをつまんで浮かせ。
ちゅーっと吸った。
(大胆不敵か、この野郎…!!!)
すわ何事かと警戒していたモリタは、マイペースにも程がある敵の行動に、特大の青筋を立てた。ごくごくと鳴る喉の音が、無性に腹立たしい。
一方、ムササビの後ろ姿しか見えないミズグチは「モリタさん何でキレてんの?」と首を傾げている。
「…そうか。よく分かった」
そう零して、モリタは俯いた。苛立ちを抑えるために一つ息を吐く。
目の前の敵は、身体能力と度胸に加え、挑発にも長けている。そう考えたモリタは、努めて冷静さを保った。
ひとしきり落ち向きを取り戻し、その顔を上げた瞬間。
「 潰す 」
カナタの全身を、盛大な圧が貫いた。
ゲンにも負けず劣らずの強烈な殺意。先にあの老人から同種のそれを浴びていなければ、全身の震えを抑えることはできなかっただろう。それでも、決して慣れたというわけではない。ドリンクをホルスターへと戻すカナタの背中には、今までの比ではない汗が噴き出ていた。
「俺は学生時代、アメフトをやっていてな」
必死に耐えるカナタを尻目に、モリタはネクタイを緩めながら昔を語る。
同時に、足を肩幅に開き、腰を落とし、両手を緩く広げた。構えたと悟らせない程に滑らかな動き。姿勢も堂に入っている。アスリートであるという言葉に嘘偽りは無いであろう自然な所作だ。
「ポジションはラインバック。守備が専門だ」
アメリカンフットボールにおいて、ディフェンスは最も気性が荒いプレーだ。敵との接触を避けながらボールをゴールラインまで持って行くオフェンスに対し、ボールを持つ敵を殺す気で潰しにかかるのがディフェンスの仕事である。
攻めより守りの方がよほど攻撃的。アメフトとはそう言うスポーツだった。
無論、カナタにそんな知識はない。ラインと聞けば最初にヒップラインが出てくるし、バックと言えば後背位のことだ。ラインバックなどと得意げに言われても、お尻に腰を打ち付ける卑猥なイメージしか湧いてこなかった。
だが、戯けた連想とは裏腹に、カナタの集中に緩みはない。目の前で見せられた所作だけで、この巨漢の力量は十分に感じ取っている。全身全霊で逃げねば、鎧袖一触にされるだろう。
ゴーグルとマスクとフードで取り繕った、静かな立ち振る舞い。その裏で、カナタは全力で思考を回していた。
そんな少年の内心を知る由もないモリタは、殺気を全開にする。この先通ること罷りならぬ、と。
凶悪な相貌から覗く目が、カナタの全身を余さず捉えた。
「抜けて見せろ。ムササビ」
更に一段増した圧。もとから大層な巨漢だと言うのに、その体躯が二回りほど大きく見える。しかし、臆するわけにはいかない。強烈に過ぎるプレッシャーに耐え、カナタは歯を食いしばった。
ゴーグルの下で眼光鋭く敵を睨めつけ、その全身を隈なく、正確に把握する。
そうして一頻り戦術を組み立てると、半身のまま膝を曲げ、上半身を脱力させた。
弛緩した腕が、だらりと揺れる。
先手はムササビ。
後手はモリタ。
示し合わせたように、嚙み合った構えをとる二人。
必然。
決闘の口火を切ったのは、カナタが地を蹴る音だった。




