057 【幕間】裏社会の苦悩2
「…冗談でしょう?」
金髪の優男が、そう言って頬をヒクつかせた。
ヤクザ達が拠点としている雑居ビルの6階。その部屋の中央にある応接用ソファに浅く腰掛けたミズグチが、卓上に置かれたパソコンの画面を身を乗り出すようにして覗き込んでいた。
部屋にいる人間は彼の他にもう一人。奥にある木製の執務机で、筋骨隆々のヤクザ然とした大男が、タバコを吹かせながらその渋い横顔をねめつけている。
ミズグチが見ているのは、ムササビを名乗る目下最大脅威が、昨日アップした新しい動画だった。マウスを操作し、同じシーンを何度も繰り返し魅入っている。
それは、ムササビが逃げ切りを確定させた神業的跳躍の瞬間だった。7m以上は離れた隣のビルの、僅かな幅しかない手摺へのダイレクトランディング。その一連の挙動を、ミズグチは眉を寄せながら何度も何度も確認していた。
モリタはモリタで、ミズグチ以上に深い皺を眉間に刻んでいる。体格と強面も相まって、相当に凶暴な空気を醸していた。
ムササビと同じことが出来るとすれば、武闘派4幹部の筆頭であるクゼか、もしくは目の前のこの男しかありえない。そう考えているモリタは、薄々答えを予期しながらも重い口を開いた。
「…真似できるか?ミズグチ」
「無理です」
問われたミズグチは、問うたモリタを一瞥すらせず、苦々しい声で間髪入れずに否定した。眉間に皺を寄せながら、一つ息を吐く。
「奥行20cm、幅10cm」
力の籠るミズグチの口が僅かに開き、唐突に数字が零れた。その意味が理解できず、モリタは眉を吊り上げる。そんな大男の様子にミズグチが顔を上げ、ようやくモリタへと目を向けた。
「このジャンプを成功させるために許容できる着地点の、凡その範囲ですよ」
だいたい掌くらいですね、と。冗談めかしてミズグチが左手を振った。理解が及んでいないであろう上役へ、その理由をミズグチが重ねて説明する。
「横と後ろにずれたら落ちるのは当たり前ですけど、これ、跳び過ぎても落ちます」
「なに?」
「上階に頭が当たるんですよ」
モリタの疑問に答えたミズグチは、もう一度マウスを操作し、着地の直前から再生した。撮影者視点の映像だからこそ感じる臨場感。それを遺漏なく発揮しているそのシーンでは、確かに着地直前まで上階の壁面が視界に映っていた。
画面で見ても迫る壁面の迫力は相当なものだ。だと言うのに、ムササビは避ける素振りすら見せなかった。それは、この跳躍に何ら不備などない、想定通りの軌道を辿っていると言う確信があったからに他ならない。
改めて見てもなお理解できないその所作に、ミズグチは盛大にため息をついた。
「…全力で跳んで届くか届かないかという距離に、そんな正確な微調整。僕には不可能です」
何度見てもその結論しか出てこないミズグチは、諦めて背もたれへと身を預けた。そのまま天井を眺める。
「前の動画の壁下りは、方向さえあってれば距離はそこまで考えなくてよかった。方向も距離が短い分、多少ズレたところで、その後の修正は効く」
その脳裏に過るのは、このチャンネルがアップした一つ前の動画。何度か見ればマネできると考えた、ムササビを名乗る敵の挙動。
「けど、今回のこれは踏切が全てだ。たった1モーションで成否が決まる」
しかし、新しい動画のメインディッシュは、その本質がまるっきり異なっていた。ゲームのように残機があるのならば試してみてもいいだろう。しかし、現実にそんなものは無い。失敗すれば死ぬ、一回限りの大博打だ。
それを危なげなく成功させたムササビに、ミズグチは鳥肌が止まらなかった。
「他に誰ができるんですか?こんな命知らずな暴挙…」
弱々しく呟いたミズグチは、ため息一つ吐き捨てて身を起こした。そのまま再度マウスを操作し、肝心のシーンをもう一度再生する。
「もちろん、着地後も大概信じられないですけどね。なんでノータイムで危なげなく走りだせるんでしょう?とんでもない体幹してるなぁ、この人…」
そう言ったミズグチは、顎を撫でながらそのシーンを見返していた。
ムササビは、その神業的な跳躍後でも全く重心がブレていない。ほんの一瞬たりとも硬直せず、すぐさま狭い手摺の上を駆け出したのだ。
(…何をどうしたらそうなるんだい?全く…)
化け物じみたその所業に、ミズグチは普段の飄々(ひょうひょう)とした態度を無意識に崩し、真剣な目で冷や汗を流し続けている。その裏で、ムササビという降って湧いたようなイレギュラーをどう活用するか、真剣に謀略を巡らせていた。
一方で、一連の御業を生で見ていたモリタの焦燥は、ミズグチの比ではない。それでも、紡がれた考察に何ら反論できず、タバコを一つ深く吸い込むと、目を伏せて紫煙を吐き出した。
「逃げられると思ってください」
不意に、真剣に動画を見続ける優男が呟いた。片目を開けたモリタが、その横顔を見やる。
あまりにも理不尽過ぎる敵の能力。それに辟易していたモリタの内心を知ってか知らずか、ミズグチは目線も動かさず所感だけを告げた。
「断言します。何度追おうと、僕じゃ付いて行けません」
それは、端的に言って敗北宣言だった。一度も対峙していないミズグチが、自ら兜を脱いだのだ。この男の能力を知るモリタとしては、それなりに衝撃も受けた。しかし、然もあらんと。納得してしまう部分もある。それほどに、ムササビの身体能力は理不尽の一言に尽きたのだ。敵の厄介さは、当方の認識よりも更に一段上手である。それが結論だった。
その一言を最後に、二人の間に沈黙が満ちた。ムササビの動画から流れるBGMと、モリタが紫煙を吐き出す音だけが部屋を支配する。
「モリタさん!!」
その静寂の中、勢いよく開けられたドアから入ってきた部下が、慌てた様子で上司の名を叫んだ。その切羽詰まった様子に、二人は意識を切り替え入口へと目を向ける。
「出ました!恐らく奴です!!」
現状己の指揮するチームが慌てるとすれば、その用件は一つしかない。しかし、その報告の仕方が、モリタには不可解だった。
「…"恐らく"、だと?」
「様相が違うんです!なんというか…、その…」
妙に言葉に詰まる部下を、モリタは眉間に皺を寄せて眼光鋭く睨みつけた。その威圧感に、飛び込んできた部下が背筋を震わせる。彼は、己の言が上役の機嫌を損ねると理解していた。耳に入れた瞬間、怒号が飛んでくる確信があったのだ。
だが、他に言いようが思いつかない。結局、この報告を滞らせることこそが、目の前の偉丈夫の機嫌にとっても、自身の進退にとっても、最も益の無い行為だと思い至る。
意を決した部下は、震える口で叫んだ。
「ふ、ふざけてないんです!!」
ヤケクソ気味な言葉。それが何を言っているのか理解できなかったモリタは、眉間の皺を吊り上げながら口角を引きつらせ、報告した部下を蔑んだ目で見下したのだった。
 




