053 カナタ支援システム概論(前)
「どう?カナタ」
「すげぇ…、後ろが見える…」
「視界の邪魔になってない?」
「違和感はあるけど大丈夫」
火曜日の夜、カナタとサナが帰宅して早々のこと。3人で暮らすアパートの和室で、男二人が新装備と言う名の心踊る玩具に夢中になっていた。カナタの髪はまだ湿っており、シャワーを浴びたばかりであることが見て取れる。
キッチンに背を向けるカナタの目元は、黒いスモークゴーグルで覆われていた。ゴーグルと言っても、両横はフレームレスで視界は180度近くある。隙間なく目元を覆いながらも一切視界を遮っていないそれは、スポーツグラスに近い形状だ。それだけでも、スキーゴーグルよりは余程使い易い。
一方、座卓の奥側に座っていたオミは、真新しいノートPCを操作していた。その首にはヘッドホンとマイクがセットになった簡単なヘッドセットがかけられている。
「ウェアラブルグラスと360度カメラを組み合わせたんだ。前後左右にカメラがついてて、その映像を視界の隅に表示させてる」
「すっげぇな。確かにこれなら銃撃の瞬間が見える。オミ、お前天才か?」
「やめてよ、カナタ。機材さえ揃えちゃえば10歳児でも2日で組める程度のものだよ」
「10歳児のハードルが上がり過ぎてるぞ」
玩具などと言っても、それはオミが全霊をかけてセッティングした、カナタのための実践的な支援システムだ。到底、普通の10歳児が組めるような代物ではなかった。
感心しきりといったカナタの様子に、組み上げたオミもニコニコと上機嫌だ。謙遜に随分と無茶があることに気付いていない。
「じゃあ、いくつかテストするよ。ちょっと洗面所まで行ってくれる?」
「おう」
ヘッドセットをつけながら画面にチェックリストを表示したオミの指示で、カナタが和室を出ていった。キッチンで夕飯の支度をしていたサナの後ろを通って、洗面所に入る。
ちなみに、サナは二人の方へチラチラと視線を向けていた。一人混ざれなくて寂しいらしい。
『聞こえる?カナタ』
「おお!聞こえる!何これ!?イヤホン入れてねぇよ!?」
『骨伝導だよ。耳塞がるの邪魔でしょ?』
「助かる!周りの音が聞こえないのは確かに怖い!」
『あと声小さくして。普通に聞こえてくるから』
「おお、悪い。このくらいか?」
『うん。何か喋ってみて』
「乳輪」
『音声良好。戻っていいよ』
「了解」
「それ私が突っ込まなきゃいけないの?」
ジト目になったサナの後ろを通って、カナタが再び和室へ戻る。漂ってくるいい匂いに、カナタの腹の虫は鳴りっぱなしだ。
しかし、カナタの意識はそちらに向かない。鍛錬後だというのに、目元を覆うそれを触りながら、忙しなくソワソワしている。唯一表情を伺える口元は、明確に弧を描いていた。その様にサナが少し嫉妬しているのは内緒の話だ。
戻ったカナタに、オミがパソコンを操作しながら説明を続ける。
「ちなみに、カナタの装備がやってるのは映像と音声の送受信だけ。システムの本体はこっちのパソコンなんだ」
「どゆこと?」
「携帯端末に映像4つを同時処理させるのは不安でね。このPCに送って、適切なレイアウトに統合してから再度送り返してるんだよ」
「なるほど分からん」
「扱えれば別にいいよ。タイムラグはある?」
「全く感じない。リアルタイムで首の動きに連動してるよ」
体操服と黒いスモークゴーグル姿でキョロキョロする様は、怪し過ぎてちょっと他所様には見せられない。
ちなみに、オミのPCにも、カナタが見ているのと同じ映像が表示されている。バックモニタには、ちょうど和室に入ってくるサナが映っていた。その手元にはお盆に乗せられた夕飯が見える。
「後ろの見え方はどう?鮮明?」
「いや、どうだろう。サナの胸も見えねぇし。あ、ごめん。元から無かったわ」
あっはっはと笑うカナタの真後ろへ、サナがピタリと張り付いた。
「夕飯抜きが希望なのね?」
「ごめんなさい。調子乗りました。可愛らしいお顔に浮いた青筋までくっきり見えてます」
ヒクつく口角を吊り上げた黒い笑顔に、ぐうぐうお腹を鳴かせるカナタは秒で無条件降伏する。
それを聞いたサナは「まったく…」と言いつつも、やや緩んだ頬が朱に染まっていた。しゃがんで卓上に肉ジャガとご飯を並べながら、半目で視線を泳がせ、小声で何かを呟いている。
「…か、かわいいとか…っ、なんでこう…、あーもぅ…っ」
(姉ちゃんチョロ過ぎ…)
その様子を、対面に座るオミが糸目で眺めていた。一方、カナタは物理的なお咎めが無かったことに首を傾げている。
そりゃ、あんな些細な一言で機嫌直すとか普通思わないよね、と。溜め息を一つ挟んで気を取り直したオミは、カナタを見上げてチェック項目の消化に戻った。
「付け心地は?外れない?」
「問題ねぇ。全くズレないよ」
「あ、こら。跳ねないでよ。埃立つじゃない」
ピョンピョンとその場でジャンプしていたカナタは、ご飯抜きが怖いのか、空中からダイレクトで正座した。
そんなカナタの様子に、オミは半眼で冷や汗をかいていた。何せオミは、軽く跳ねただけに見えたカナタの足の裏を遥か上に見上げたのだ。普通に1mは跳んでいる。どんな身体能力してるんだと、思わず溜息をついた。
とりあえず動作確認はできたし、残りは後にしようとオミが提案。そのまま「いただきます」を唱和して、遅めの夕食が始まった。
「カナタ、ご飯の時はゴーグル外しなさい」
「えー!」
「は・ず・し・て!」
「へーい…」
眉間に皺を寄せるサナに、カナタが渋々ゴーグルを外して横に置く。数分ぶりに見えたカナタの顔を上目づかいで見やったサナは、徐にそっぽを向いてボソッと呟いた。
「…そんなの付けてたら、食べてる時の顔が見れないじゃない…」
「なんか言ったか?」
「何でもない!」
行儀とかじゃなく、ただ顔が見たいだけだった。そんなこととはつゆ知らず、夢中になっていた玩具を取り上げられたカナタが、ぶー垂れたまま肉じゃがを口にする。
瞬間、カナタの顔が綻んだ。その変化を見ていたサナが満足そうに微笑み、オミは半目で砂糖を吐いた。
勢いよく夕飯を掻っ込むカナタと、いつの間にかニコニコと幸せそうにそれを眺めている姉。
食べ終わらないと話にならないな、と。オミは説明を諦め苦笑する。ため息をつきながら箸を運んだ10歳児が、どうにも一番大人だった。
◆
米粒一つどころか、肉じゃがの出汁一滴すら残さなかった夕食の後、オミは再び説明を始めた。今度はサナも参加している。
カナタの前には先ほどのゴーグルとスマホが置かれていた。ブルートゥースで接続されていて、これがワンセットになっている。一方、オミの前にはノートPCとヘッドセットとスマホがあった。こちらはUSBで接続され、ヘッドセットも有線だ。
最後にサナの前。そこにもヘッドセットとスマホが置かれていた。
「カナタのゴーグルはスマホを介して通信してるんだ。僕のPCもそう。そっちは姉ちゃんの分ね」
「私も?」
オミのヘッドセットは有線のヘッドホン式だが、サナのヘッドセットは骨伝導の耳掛けネックホンだ。接続はブルートゥースで、つけたまま移動することが想定されている。
「3台のスマホだけで完結する通信網を作ったんだ。このシステム専用だから、他の通信は一切できなくしてある」
「通信できない?電話もネットもか?」
「そのとおり。この3台以外には何処にも繋がらないなら、情報流出も起きようがないでしょ」
「おー、なるほど」
このシステムが取り扱うデータは、劇物に近い機密情報だ。操作に慎重を期すより、そもそも最悪の事故が起き得ないようにというコンセプトのもとで構築されている。
「それから、GPSでカナタの現在地も分かるようになってる。作戦終了後はそれを使ってカナタを回収しよう」
「回収?」
「迎えに行くの。姉ちゃんが」
「え?私?」
オミに水を向けられたサナが、キョトンとして自分を指さした。それに頷いたオミが、真剣な目で指を立てた。
「聞く限り、過去2回のカナタの死因は"迷子"なんだ」
「死んでねーよ」
カナタが眉をハの字にした。しかしそれ以上の言葉は続かない。迷いに迷った挙げ句に脱水症状で死にかけたのは間違いないのだ。
「カナタが泣いちゃう前に回収してあげて」
「うん。わかった」
「…GPSあるなら流石に一人で帰れるぞ?」
「もちろんそれだけじゃないよ」
事実、その状況で泣きそうになっていた覚えがあるカナタは、弱々しく自立を主張する。その情けない声の主に目を向けたオミは、真剣な顔を崩さず補足を入れた。
「カナタの戦い方じゃ、換えの服だってデッドウェイトなんだ。作戦中に普段着を持って走るのは避けたい。とはいえ、着替えを隠したところで、その場所に毎回辿り着けるとも限らないでしょ」
「そう、だな」
オミの考えに頷くカナタ。それを確認したオミは、改めて姉を見る。サナはサナでその理由に思い至っていたのか、オミと目を合わせて軽く頷き、自身の役割を口にした。
「私が、着替えを配達すれば良いのね?」
「そういうこと。パートナー特価の電動自転車と配達用のバックパックがあれば適任でしょ」
ついでに水分も持っていってあげて、と。オミが悪戯っぽく締めた。結論を携え、姉弟がカナタを見やる。
「姉ちゃんの送迎付きだよ?不満?」
「…いや、めちゃくちゃ有り難い」
どう考えても反論の余地がなかった。オミの頭の良さに、カナタは改めて感心する。
真剣な顔で頷いたカナタに、オミとサナが微笑んだ。
「ちなみに、カナタのそれは最悪壊しても大丈夫だから」
「なんでだよ?撮った動画はどうすんだ?」
「言ったでしょ。カナタの機材でやってるのは動画と音声の送受信だけ。保存はこのPCでやってるから、カナタの端末には何のデータも残らない」
「へぇ~」
オミのそのセリフに、カナタはゴーグルを手に取ってまじまじと眺めた。
「…最悪、俺が死んでも下手人の証拠は残るわけだ」
両脇から同時に平手が飛び、カナタの顔がサンドイッチになった。
「取り消しなさい。今すぐに」
「刺し違えてもなんて考えてるなら本気でキレるからね」
「はい。すみませんでした」
もとより死ぬ気はない。ただ、ふざけた振る舞いの多いカナタとて、現状の絶望感はその心を蝕んでいる。故に、ふと思いついた最悪の事態に対する保険が、ぽろっと零れてしまっただけなのだ。
しかし、身を乗り出したサナは、その言葉だけで涙目になっていた。それを正面から見たカナタはすぐさま意識を切り替える。
「大丈夫。元々自分が助かるために始めた戦いだ。死ぬ気なんかねぇ。お前らの安全を確保するまで負けやしねぇよ」
そう言って不敵に笑ったカナタ。しかし、サナの渋面は変わらない。
「それはそれで不安なのよ…」
その思いが強ければ強い程、カナタがどんな無茶をするか全くもって読めないのだ。しっかり手綱を握らなければ、と。サナは改めて気を引き締めた。
一方で、オミは眉間に皺を寄せ、溜め息をついていた。
「そう思うなら、今使ってるマスクは没収ね」
「ん?」
唐突な話題の転換に、カナタが右へ首を傾げた。その様子に、やっぱり知らなかったんだ、と。オミは呆れ顔だ。その表情のまま、カナタが変装に使っていた、メタリックグレーの模様輝くダサマスクを卓上に置いた。それを見下ろしたカナタとサナは、揃って疑問符を浮かべている。
その様子を半目で眺めながら、マスクを指さしオミが言った。
「これ、トレーニングマスク。呼吸を制限するヤツ」
それを聞いたサナまで、カナタにジト目を向けだした。
姉よりも頭の回転が速いはずなのに、未だポケっとしているカナタ。その様に、オミが深々と溜息をつく。
「"富士山頂と同等の環境を約束します"って、サイトに書いてあったよ」
商品番号から検索して紹介ページを見つけたとき、オミは心底呆然とした。もちろん、そのキャッチコピー通りの性能があるとは思っていないが、それでも相当に苦しい思いをするのは間違いない。
「こんなの付けて、よくあんな距離走れたよね」
「…ん?」
オミの声に、口が弧を描いた無理解の顔で、カナタは左へ首を傾げた。右にいるオミを見て、次いで正面のサナを見る。ようやくその意味を理解すると、冷や汗を流しながら、震える声で呟いた。
「…もしかして、本番で妙に消耗が速かったのって…」
「これのせいでしょ。どう考えても」
夜の和室に静寂が満ちる。呆れに呆れた目が二対。
それもそのはず。何せカナタは、今の今までそれに気づかず、気づかないまま耐えられる体作りをしようとし、付けたままでも抜群の運動能力とスタミナを見せつけたのだ。
それは、考えれば考えるほど凄いことではあった。だが、どうしようもなくアホでもある。
ようやく状況を飲み込んだカナタは、顔を覆って座卓に突っ伏した。
「脳筋かっ!!!」
自分で言う少年に、姉弟が微妙な視線を向けていた。




