052 今だけでいいから
カナタを浴室に放り込んだサナは、赤い顔を隠しながら自身も着替えた。ベージュの膝丈フレアスカートにフリル袖の幅広ネックシャツ。普段はしない、動きやすさよりも女性らしさを重視したコーデだった。
その格好を見たオミが、奥間からニヤニヤと流し目を向ける。
「…何よ?」
「別にー?」
眉間に皺を寄せるサナから視線を切ったオミは、再び手元の作業に集中する。しかし、その表情は変わっていない。笑いをこらえる音も漏れていた。
そんな弟の後ろ姿を、髪ゴムを咥えたサナが髪を結い上げながら弱々しく睨みつけている。
と、そこへシャワーを終えたカナタが、頭を拭きながら和室に入ってきた。足音に気づいて、姉弟が入口を向く。
そうして視界に入ったその姿に、オミは愕然とした。
白の半袖に紺の短パン。胸元に光る校章。その下には"有澤"の字。
「お待たせ。行くか」
「カナタ馬鹿なの?」
その装いは、またもや体操服だった。
「せめてこっちでしょ!?なんで体操服から体操服に着替えるのさ!?」
「え?駄目なの?」
「駄目に決まってるじゃん!見なよ!姉ちゃんのあの顔!!」
GパンとTシャツを持って駆け寄ってきたオミの指摘に首を傾げるカナタ。しかし、促されてサナを見た途端、冷や汗が流れた。
長い髪を後頭部で纏めて項を露わにしたサナが、綺麗に整えた身なりにそぐわない死んだ目で、カナタを見つめていたからだ。
「カナタ着替えて!ほら早く!!」
「あ、はい」
慌てたオミがカナタの背中を押して和室を出る。洗面所で手早く着替えさせ、不機嫌な姉と一緒に玄関から追い出した。
「世話の焼ける…」
脱ぎたての体操服を抱えた10歳児が、閉じたドアの前で項垂れて、深い深いため息をついた。
オミに締め出された二人は、僅かに前に出たサナが案内する形で再び街を歩いていた。ぶつくさと文句を言うサナが、ジト目で前を睨みつけている。
「デートって言ったくせに…」
「ごめんて。アレでの外出に慣れちまって違和感なかったわ」
アホな言い訳をしながら、その後ろをついて行くカナタ。先行く少女とは違い、その表情は弾んでいる。鼻歌でも歌いそうな程だった。
「ご機嫌斜めなとこ悪いけど、俺はご機嫌だわ」
「なんでよ?」
「女子と二人で出かけんの初めてだもんよ」
前を向いたまま、サナは目を丸くした。
この少年は、いったい何度この軟い心を揺るがせば気が済むのだろうか。ただ二人で出かけるだけで、そんな楽しそうな声をあげられては、些細なことで不貞腐れているのがバカらしくなってしまう。
一気に機嫌が直ったサナは、目を細めて微笑した。
自分のような破綻した人間関係しか持たない女でも、その程度の経験は有った。しかし、後ろを歩く少年には、それすらも無いという。
確かに、彼はパルクールだけでなく陸上と体操をやっていると言っていた。普段のストイックさを思うに、その全てで能う限りの研鑽をし、自分の能力を高め続けたのだろう。充てられる時間の全てを費やしてきたことは想像に難くない。
そんな人に、初めてのデートだと喜んでもらえているのだ。震える胸が苦しいくらいだった。
しかし。
「男女何人かでってんなら毎週の事だったけどなぁ」
続く言葉は、跳ね回るサナの感情を凍り付かせた。心臓が締めつけられ、その目から色が抜け落ちる。
「…友、達?」
「あぁ。だいたいクラスメイトだな。時々陸上部。俺のパルクールに付き合ってくれてさ」
「…そう、なんだ」
それはそうだ、と。サナは俯いた。
どう見てもこの少年は人好きする。その上で、あれほどストイックに自身の能力を高めようと努力を重ねられるのだ。きっと周りの人たちに、可愛がられたり心配されたりしたのだろう。多くの友達に囲まれている様子が、容易く想像できる。
それにふさわしい相手なんて、いくらでもいただろう。多いからこそ、たまたま一対一の機会が無かっただけなのだ。
綺麗な世界に居たんだろうと思った。
同時に、自分の世界の冷たさを思い知った。
住む世界が違うんだ、と。そう、思ってしまったのだ。
歓喜から一転。サナは、申し訳なさに心の裡で謝った。
"初めてのデートが、こんな穢れた女でごめんなさい"と。
カナタを取り巻くであろう遥か雲上の世界。その眩しさに、サナは顔を伏せた。
嫌われ者の孤独で仄暗い地の底の世界からでは、見上げる気力すら湧いてこない。
――それでも…。
「すっげぇ!たっけぇ!あっははっ!」
「カナタ、ほらこっち」
辿り着いた大型の商業ビルを、きょろきょろと楽し気に見上げるカナタ。あっちへフラフラこっちへフラフラと、どうにも忙しない。声はかけたものの、聞こえているかは怪しいものだ。
そんな浮かれた少年が迷子にならないよう、その手を取ろうとサナが手を伸ばし。
触れるのを、躊躇った。
これまでも事あるごとに触れていたのに。それを自然と出来ていたのに。それが、とても楽しかったのに。
己の醜さを思い返した途端、何もかもが怖くなってしまったのだ。
この手を取ったらきっと、自分の方が浮かれてしまう。離したくなくなってしまう。しかし、自分にそんな資格は無い。こんな穢れた手で、この人に触れていいはずがない。
そんな葛藤に、記憶の奥底へと仕舞い込んだはずの悪夢が、フラッシュバックした。
半年前。一月に満たない間に犯した、浅はかな罪の連鎖。
その果てに得た、この世で最も純粋な諦念。
カナタが来てから鳴りを潜めていたそれが再燃し、不意に涙が滲んだ。揺れる瞳の先には、伸ばしたまま固まった自分の左手がある。
そこに巻かれたリストバンド。
涙目の弟に貰ったそれから、目を離すことが出来ない。
そんな僅かな逡巡の間にも、カナタは次々と目移りを起こしていた。目に映る全てに興味を抱き、当て所なく歩を進め始める。
少年のその仕草にハッとなったサナは、慌てて顔を上げた。
カナタの背中が、離れていく。
理解できない程の強烈な寂寥感。己の過去以上に胸を締め付けてくるその感覚に、少女は耐えられなかった。
無意識に過去を振り払ったサナは、意を決してその手を取り。
華奢なその手を、カナタがしかと握り返した。
肩越しに振り返った少年の顔に、サナの目が光を取り戻す。
投げかけられた笑みに、頬が赤らむ。
そんなささやかな温もりだけで、何もかも諦めたはずの少女の心に、褪せない色が焼き付いていく。
上っ面ではない、芯から染まる熱。
その熱に抗えず、サナは思った。
"このままでいたい"、と。
今日の目的は、非常に逼迫したものだとわかっている。これ以上を望む資格も、自分にはない。
ただそれでも、今この瞬間に、心踊ることだけは許してください、と。
サナは泣きそうな表情で頬を染めて、カナタの手を引いたのだった。
「こっち!こっちの黒かグレーにしなさい!」
「ヤダよ!どう見てもこっちのほうがカッコいいじゃねーか!」
「黄緑の蛍光色はダサいってば!目立ち過ぎて実用性もないじゃない!」
「じゃあこっちはどうだ!!黒ならいいだろ!!」
「変なプリントがいらないのよ!何なの『仮性包茎』って!漢字に憧れる外国人か!!」
「お前、とことん趣味が合わねーな!!」
「カナタのセンスがおかし過ぎるのよ!!」
こんななんでもない喧嘩が、サナは幸せで仕方なかった。
 




