051 犬も食わない3
「お疲れっ…、サナ」
「…」
ファミレスを退勤したサナが店の外に出ると、そこにカナタがいた。二階にある店舗エントランスから真っ直ぐ伸びる外階段。その正面のガードレールに腰を下ろして片手を上げている。
その装いは、お古の体操服。顎や前髪からポタポタと汗を滴らせ、足元は雨の降り始めのような斑模様だった。普通に喋ってはいるが、呼吸は盛大に荒れている。ハァハァとなかなかに喧しい。
あんまりなその様に、サナが思わず半眼になった。そのままの表情で階段を降る。
サナのその顔を見ながら、カナタがどっこいしょと立ち上がった。歩道に降り立った少女へと、数歩ほど歩み寄る。
「それで?今から、どこ、行くんだ?」
「家」
「えぇ!?出かけるんじゃねーの!?」
「そんな有様で試着ができるか!シャワー浴びて着替えなさい馬鹿!」
仰天しているカナタを睨みつけ、サナは強気な口調で諌めた。「えー」と口を尖らせているカナタを「えーじゃないの!もう!」と叱りつけている。
そこには、余所行きの取り繕った澄まし顔はない。呆れの感情を素直に表現するそれは、歳相応な少女の姿だった。
「ほら!いっぺん帰るわよ!」
「せっかく辿り着けたのに!?」
カナタの後ろに回ったサナは、汗でベチャベチャの背中を躊躇いなく押した。滲み出したカナタの汗が、サナの腕を伝う。
それに嫌な顔一つせず、サナは心配げな表情で少年の体調を案じた。
「…水分補給は?」
「したよ。今日はすげぇ余裕ある」
「ならいいけど…」
そうは言いつつも、サナの眉間にはシワが寄っていた。その口もへの字になっている。
余裕があると、カナタは言った。事実、声色に違和感はなく、足取りもしっかりしている。だが、それでもなお、この汗の量だ。無茶はしていないとしても、それはカナタ基準での話である。あくまでリスクが下がっただけで、一般的に見たその鍛錬量が常軌を逸していない保証など無いのだ。
「…今日は何キロ走ったの?」
「ん?ゆったりペースで賞味6時間くらいだから、80キロってとこか?」
「ごめん。聞きたくなかった」
「自分で聞いといて!?」
なんで涼しい顔してられるのこの人、と。サナは戦慄する。
それはカナタにとって当たり前の距離なのだろう。だが、一般的に見れば、明らかに尋常ではない。
(何を浮ついてたのよ…、私は…っ)
カナタがそんな距離を走っている間、デートだなんだと考えていた自分が情けなくて、サナは俯いた。
きっとカナタには、そんな認識はなかっただろう。体操服のまま、鍛錬直後に合流したのがいい証拠だ。身なりを整えると言う意識すらない。
それも当然だと、サナは歯を食いしばった。
カナタにとって、今から行う事はあくまで戦闘準備の一環なのだから。
(文字通り命がかかっているのに、何がデートよ…!)
相変わらず考えの甘い自分を、サナは盛大に恥じていた。
その様子を、背中を押されるがままになっていたカナタが、肩越しにチラチラと覗き見る。しかし、カナタからはサナの頭頂部しか見えない位置関係だ。その内心を図り切れず、おずおずと口を開いた。
「…ブーメランって知ってるか?」
「え?」
唐突過ぎる話題に、サナが眉根を寄せたまま思わず顔を上げる。しかし、その時カナタは既に視線を前へと戻していた。サナの視界に、汗を散らせる後頭部が映る。
「投げたら戻ってくるっていう都市伝説なんだけどな」
「…100均で売ってるわよ?」
「玩具の話じゃねぇよ。ネットでよく見るヤツ」
「さっきから何言ってるの?」
意味の分からない内容に反し、カナタの声は真剣だ。相も変わらずチグハグな様に、サナが首を傾げる。
「お前ほど人の機微に聡いわけじゃねぇから、勘違いだったらそう言ってくれ」
首だけで後ろを振り向いたカナタの顔は、なんか困っていた。
「無理、してるよな」
その一言に、サナが目を見開いた。思わず、その足が止まる。
それを見たカナタが同じく足を止め、体ごと振り返り苦笑した。
「まーたクソ真面目拗らせて、些細な事抱え込んでねぇ?」
そういう時の顔してたぜ、と。そう続いたカナタの言葉に反論もなく、サナは呆けている。
その様子に確信を得たカナタは、悪戯っぽく口角を上げた。目の前の間抜け面に向け、右手の人差し指を伸ばす。
「"無理しないで"って言ったのお前だろ?その時の綺麗な顔はどこ行ったよ?眉間に皺寄せちゃってまぁ」
「ちょ、やめ」
うりうりと、自身の眉根をこねくり回すカナタの指に、サナが思わず目を瞑る。
わたわたと慌てるサナの手。それを見たカナタは指を離し、歯を見せて笑った。
「何でもない時くらい気ぃ抜けよ」
太陽みたいなその顔に、サナの頬が染まる。
そのまま、上目遣いで可愛らしくカナタを睨みつけた。
「…80キロも走った人に言われたくない…」
「俺は気ぃ抜いて走ってたぞ?青看に夢中で迷子になったくらいだ」
「変な性癖」
「ハァハァしてたわけじゃねーよ!?」
「してたじゃない。さっきまで」
いきりたつカナタに、サナはクスクスと楽しげに笑いながら、再び歩き出した。
その様子に、無理は感じられない。抱えたものを吐き出したわけではないが、少しは楽になったのだろう。
横に並んだサナに合わせ、カナタも頬を緩めて歩き出した。
「今気づいたけど、青姦にハァハァするのはおかしくねぇよな?」
「その口閉じなさい、ど変態」
気を張らない、ささやかな時間。
雑踏に紛れ、二人並んで帰路に着く。
「んで?サナはどんな無理してたんだ?言ってみ?」
「恥ずかしいからカナタには言わない」
「まぁ、言わなくても分かってるけどな」
「え!?な、なんで…!?」
「上から72、53、77と見た」
俺に無理など通じぬと、ドヤ顔を見せたカナタ。その頬に紅葉が咲き、汗と悲鳴が飛び散った。
大通りを曲がり、見慣れた住宅街に入る。大分傾いてはいるが、まだまだ日は高い。じりじりと肌を焼く陽光に目を細めたサナは、「スミマセン、3㎝までは誤差と認めます」と良く分からない謝り方をするカナタの耳を抓っていた。
「いつから迷子してたのよ?」
「15時から1時間ちょいくらいだな」
「…良く私の上がりに間に合ったわね」
「当然だろ」
半眼で呆れるサナの顔を横目に見て、耳をつねられ続ける涙目のカナタが、キメ顔でサムズアップした。
「デートで女を待たせたらスケベが廃る」
サナが再び立ち止まり、カナタの耳から思わず手を離した。大きな目を見開き、その中心で瞳を潤ませている。想定外に大きな反応をした少女の顔を、耳を擦るカナタが訝し気に覗き込んだ
「なんだよ?変なこと言ったか?俺」
「…カナタが変じゃなかったことなんて、一度も無いかな?」
「辛辣過ぎねぇ!?」
不意に目を細めて口角を上げたサナは、見惚れるほど情動豊かに悪口を言った。笑顔のまま目を伏せて、跳ねる心臓を無理矢理に抑え込む。
(カナタには分からないだろうなぁ…)
たった数秒のやり取りで、サナは抱えていた"無理"を吐き出すことなく消化した。それでいいんだと、カナタは何も分かっていないまま示してくれたのだ。
目を開けたサナは、カナタの肩を軽く叩き、再び歩き出す。
(何気ない一言に、私がどれだけ一喜一憂してるかなんて、さ)
遠目に見えてきたアパート。こんなに晴れやかな気分で家路につくのは、いつぶりだろうか。
今が、嵐の前の静けさであることは理解している。この先、身の凍るような危機に、カナタを送り出し続けねばならない。
最優先で考えるべきはカナタの生還。それでも、それだけに思考を縛られていては、直ぐに心が参ってしまうだろう。
穏やかなときは、穏やかなままでいい。
そう思えたサナは、後ろ腰に手を組みながら満面の笑顔でカナタを返り見た。
「間に合ったのは褒めてあげる。でも、着替えに戻らされる時点で失格ね」
「うっせーな!気づいたら15時だったんだよ!超焦ったんだぞ!」
どうせ走るのに夢中だったんだろうなぁ、と。どうにもカナタらしい状況に、サナがクスクスと笑う。別に遅れたところで怒りはしないが、間に合わせようと必死になってくれたことは素直に嬉しかった。
一方カナタは、ニコニコと機嫌のいいサナに内心で首を傾げる。ファミレスを出てしばらくは何やら気を揉んでいる様子だったが、その気配がいつの間にか完全に失せていた。
カナタには、ブーメランを指摘した以外に特段何かをした自覚はない。それでも、会話を重ねる度に柔らかくなる彼女の表情が、無意識に記憶へと焼き付いていく。
理由なんかどうでも良くなるくらい、思わずにはいられなかった。
ずっとその顔で居てくれねーかな、と。
「そ、そういえば、カナタ…」
「なんだよ?」
そう思った矢先、またもや少女の表情が変化する。モジモジと言葉に詰まる様。彼女らしくはないが、これはこれで好ましかった。
「さっき、その、き、きき綺麗って…っ」
「今朝のお前の表情の話か?女神かと思ったわ」
「〜〜〜っ!!」
素直過ぎる物言いに、アパートの敷地に入って早々、サナが赤面して顔を逸らした。表情筋の制御に苦心し、無意識に歩みが遅くなる。
その横顔を流し見ながらサナを追い抜いたカナタ。「また面白い顔してんな」と、口角を上げながら玄関を開けた。
「ただいま、オミ!」
「胸焼け!」
「"おかえり"みたいに言うんじゃないよ!」
出迎えたオミが、奥間で背中を向けたまま砂糖を吐いた。