050 余所行きのサナ
本日のファミレス勤務も、そろそろ終了の頃合い。バックヤードからフロアの補充品を持ってきたサナは、デシャップで仕分けをしていた。アイドルタイムに入り、客は疎ら。後はホールを回り、消耗品チェックだけで交代前の定例業務は終了だ。
だというのに、サナの手は完全に止まっていた。
普段、勤務中はキッチリ仕事に専念しているサナ。しかし、今は珍しく気もそぞろだった。頬を染めて唇を引き結び、やや潤んだ瞳を揺らしている。
その内心は、目の前の仕事ではなく、この後の事で一杯だったのだ。
(これって、デートかしら…?)
朝方決まった、カナタとの外出。その時はカナタの無茶を諌めることしか考えていなかったが、いざという段になって途端に気恥ずかしくなってしまったのだ。
カナタは今も常識外の鍛錬をしているため、そう長引かせるつもりはない。だが、異性と二人で買い物に出かけるなど、いつぶりだろうか。
(…小学校以来、…かな)
気を落ち着けるために、サナは薄い経験から類似の状況を探した。
それは、とても懐かしい記憶。中学時代、あんなことになる前まで、とても仲良くしてくれた一つ年上の幼なじみ。自分が勝手にデートだと思っていただけだが、それでもワクワクしたことは、よく覚えている。
ただ、その過去を回想するサナの表情は暗い。
何せ、その人とのことは、決して良い思い出ではないのだから。
(…嫌なこと思い出しちゃったな…)
人柄は決して悪くはないし、特別何かが有ったわけでもない。優しく、気が利いて、一般的にはしっかりした良い人なのだろう。
ただ、サナがそれを信じられなくなっただけなのだ。今も縁が切れたわけではないが、正直顔を合わせるのは億劫だった。
そういえば、一般的に見てカナタはどうだろうか、と。サナはふと考えを巡らせた。
恥ずかしげもなくスケベなことを言い、人のコンプレックスを息を吐くように弄り、自分のやりたいことに一心不乱で、命掛けの無茶を当たり前のようにする。
(あれ?割とロクでなしだ)
表面的なカナタを思って、サナは苦笑する。確かに、あの居候はスケベで子供っぽい。
ただ、サナから見れば、そんな表層が何らマイナスにならないくらい、彼の本質は好ましいものだったのだ。
信じた道に全霊をかけられる強さ。
逆境の中でも他人を慮れる優しさ。
震えるほどの恐怖に、凛とした顔で立ち向かえる勇気。
(厄介で、訳わかんなくて、妙に癖の強い奴だけど…)
命に関わる理不尽に晒されてなお、その在り方が揺らがないカナタに、サナは尊敬すら抱いていた。しかし、普段の彼は、そんな状況を全く感じさせない程に飄々(ひょうひょう)としている。気安く一緒に居られる、ちょっと意地悪なだけの普通の男の子だった。
貧乳をイジられても、スケベなことを言われても、一緒にいる時間が心地良くて仕方がない。
そんな人と、二人っきりでデパートを回るのだ。
「…楽しみだな」
暖かく脈打つ胸に手を当て、サナは無意識に呟く。その顔は、見惚れるほどに可愛らしかった。
「有澤さんも百面相するんだね!」
「ひゃあ!」
その柔らかい表情をがっつり覗き込もうと、横から誰かの顔がサナの目の前に差し込まれた。完全に自分の世界へ没頭していたサナが思わずのけ反り、対面のぱっちりした目がニコニコとそれを追いかける。
「楽しみって何?デート!?」
「み、三津谷さん?」
そこに居たのは、夏休みの間だけ短期でバイトに入っている同い年の女の子だった。制服の胸元には、「三津谷絵里」の名札の他に「研修中」の札がついている。
肩口丈の黒髪ボブカットに、スラリとした鼻梁と切れ長の目。サナより幾分長身ながら、均整の取れた女性らしい体躯。その全体のバランスが、美人と称して差し支えない印象を与えていた。
パートタイマーのサナと違って、彼女はシフトのタイミングがバラバラだ。高校で部活をやっているらしく、空いた時間で働いている。今日はサナと交代で、ディナーに入る予定だったはずだ。そろそろ居てもおかしくはないが、少し早くないだろうか。
訝しむサナを尻目に、彼女はウィンクを添えてサムズアップしている。
「気味悪いくらい平坦な笑顔しか見たことなかったけど、良いね!その表情!」
「…ミツヤさん、ディナーですよね?早くないですか?」
「ありゃりゃ。戻っちった」
シュンとする彼女に、サナは余所行きの取り繕った微笑を向ける。一瞬で普段どおりに戻ってしまったサナに、ミツヤは口をとがらせた。
「有澤さんが仕事上手って聞いたからさー。早く来て少し見ておこうかと思って。可愛く考え事してる姿しか見れなかったけどねー」
「…ごめんなさい。今からラウンドしますけど、一緒に来ますか?」
「ラウンド?」
「ホールを回ることです」
そう言って、仕分けた補充品を抱え、サナはミツヤを見た。へぇ~、と。手帳にメモを取り出した彼女に、この程度の用語はメモるようなことじゃないなぁと、その手元を流し見た。
走るペンが止まるのを見計らってから、サナはホールへと歩き出す。その後ろを、テンション高めのミツヤが付いてきた。
「しかし有澤さん口調硬いねー!同い年なんだから、もうちょっと砕けてもいいじゃーん!」
「すみません。難しいです」
「淡白だなー!仲良くしよーよー!」
「必要無いでしょう?」
「必要とか不要とか、そういう話じゃなくてさー!」
「ああ、すみません。私もそんな話はしてないです」
ドリンクバーの前で立ち止まったサナは、ミツヤを振り返る。真顔のまま彼女を見上げ、豊かな表情に反した冷たい目を見やった。
「ミツヤさん、私のこと嫌いでしょう?」
一瞬だけ顔から色をなくしたミツヤ。しかし、直ぐ様口元だけ弧を描く。変わらず笑っていない目で、変わらない軽い声を発した。
「うん。嫌いだよー?」
無機質と言うわけではなく、その瞳には明確に負の感情が浮かんでいた。
その様に、サナは目を細めて首を傾げる。
「なら、別の人に教わったほうがいいんじゃないですか?」
「仕事学ぶなら有澤さんだと思ってるのはホントーだよ?」
「そうですか。なら早速」
そう言ったサナは、ミツヤから視線を切って作業へと取り掛かる。
「ドリンクバーで交代前にしておくことですが、原液の残量とストックの確認、それから消耗品やカトラリー、グラスの補充ですね。原液はここを開けて容器を少し持ち上げてみてください。軽いものがあれば引き継ぎ票にメモを」
「…。はっ!ちょっと待ってー!」
急に始まったレクチャーにミツヤは一瞬呆けるも、急ぎ手帳を取り出した。しかし、その表情は呆れを飲み込みきれていない。
その顔を一瞥したサナは、言われたとおり少し待つ。彼女の準備が整ったのを見て、説明を続けた。
「このボンベは炭酸ガスです。残量はこのメーターで確認してください。メモリが赤になってたら交換です。今は満タンなので、交換方法はまた後日に」
いそいそとメモを取りつつも、変わらないサナの態度と丁寧な説明に、ミツヤは釈然としない面持ちだった。
「呆れるくらい平常運転だねー。何で嫌われてるのかとか、気にならないかなー?」
「一々確認するような事でもないかと」
「淡白にも程があるよー!?」
中学時代、嫌われるのが当たり前だったサナにとっては、さして特別なことではない。害意がないなら、気にしてもしょうがなかったのだ。理由に気を向けるくらいなら、降りかかる火の粉を防ぐ事に集中する方がよっぽど建設的だ。
ミツヤが手を止めて顔を上げたのを確認し、サナは次の仕事へ向かった。その後ろを、ミツヤがヒョコヒョコと付いてくる。
「最初はさ、私にだけかなって思ったんだー。新人だしねー」
「何がですか?」
前を行くサナの背中に、軽い調子でミツヤが声をかけた。その意味が分からず、サナは前を向いたまま訪ね返す。
「仕事の範疇だからかなー?お客さんとは柔軟に接するのにねー?」
ミツヤはサナの問いに答えない。ともすれば独り言のようなマイペースさで、ただ自分の言だけ連ねている。
しかし、その雰囲気が変わったことを、サナは察していた。
「お前さー、仕事仲間が相手だと、会話が超テキトーなんだよ」
幾分下がったトーンに、サナは足を止めてゆっくりと振り返る。先程までのヘラヘラしていた表情は、そこにはない。サナを見る目と同様、ミツヤの顔は能面のような冷たい様相に変わっていた。
「愛想笑いだけ貼り付けて、何も求めない。何も期待しない」
そうかもしれない、と。サナが内心で同意した直後。
苛立ちを孕む視線と共に、急所を貫かれた。
「最初っから交流を諦めるなよ。胸糞悪い」
その一言に、サナが僅かに目を細める。
疎らな客は、皆一様にスタッフの手を求めておらず、店内はとても静かだ。そんなホールのど真ん中で、年頃の少女が二人、歪な雰囲気で向かい合っていた。
「怒ったー?」
静寂を破ったのはミツヤだった。ニコニコと上っ面の笑みを浮かべ、首を傾げている。
それに対し、サナは目を伏せ、軽く息を吐いた。
「いえ。よく見てるなと感心しただけです」
「そういう有澤さんも、興味ないくせによく見てるよねー。入ったばっかの私に嫌われてるなんて、普通わかんないでしょー?」
サナがミツヤと会うのは、これが4度目。うち、シフトを共にしたのは初日と昨日、合わせても6時間ほどだけだった。
しかし、サナはその初日でミツヤの心境に気付いていた。初顔合わせで驚いた顔をされたのはよく分からないが、その日帰る頃には、既に嫌悪されていると確信していたのだ。
(私は、随分と彼女の価値観にそぐわないみたい)
そう結論づけて、サナは消耗品の補充を再開した。卓上の紙ナプキンを追加し、調味料の残量を確認する。
ミツヤの態度は、サナにとって何ら特別なことではない。理由を説明してくれるだけ、相当に誠実な部類だった。ともすれば好ましくも感じるくらいだ。
だからといって、歩み寄るような事でもない。
サナにとって、自分を取り巻く世界など、オミとカナタだけで十分なのだから。
「話戻すけどさ!」
「はい?」
「デート!?デートでしょ!?あの表情はそうに違いない!」
直前の雰囲気が一変。彼女の声は、妙に弾んでいた。
唐突なテンションの切り替えについていけなかったサナが、堪らず半眼になる。
「デートかどうかは分かりませんが、男の子と二人で出かけはします」
「ホントにデートだった!羨ましーなチクショー!」
歯を食いしばったミツヤが、天を仰いでクネクネと体を揺らしている。
先程見たサナの顔は、ミツヤの感じた有澤サナという人物像に全く合致しない。ただただ女の子らしい情動に溢れた、見惚れるほどに可愛らしいものだったのだ。
「この有澤さんにあんな顔させるなんてー!彼氏!?ねぇ彼氏!!?」
「そんなわけないじゃないですか」
「え!?違うの!?」
テンション高く騒いでいた少女が、想定外の返しに思わず仰け反った。
その様子に頓着せず、サナは仕事に戻る。
その手を忙しなく動かしながら、改めて自分を見限った。
「…あんな凄い人に、私なんかが釣り合うわけ無い」
小さく零したサナの顔は、寒気がするほど平坦だった。
その顔を見たミツヤは、サナの真後ろで顔を顰める。
(諦めてんのは自分自身もかー。私、やっぱりこの子嫌いだなー)
神経を逆撫でする少女の有様に、ミツヤは内心だけで深く溜息をついたのだった。