048 脳筋に捧ぐ
ファミレス店でのバイト後、注文が途切れるまで配達に従事したサナは、急ぎ足で帰宅した。意図的に脱水症状を起こすと言っていたカナタが無事に帰っているかどうか、どうにも心配だったのだ。
完全に日が暮れた20時過ぎ。アパートに着いたサナは、部屋に灯りがないことに気付く。急いでドアを開けて仄暗い部屋に入り、不安げに声をかけた。
「ただいまっ。カナタ、帰ってる?」
「待ってたぜ…。ごはん…」
「…誰がご飯よ」
「待ってたぜ…。貧乳…」
「言い直さない方が良かったなぁ!それは!」
敷居を跨いですぐ目の前、板間のキッチンに寝転がる物体から返事があった。うつ伏せのカナタだった。会話ができることに安心したサナはため息を一つ。その傍にしゃがみ込んで様子を伺う。
「…大丈夫?」
「なんとか…」
「水分補給は?」
「済ませた…」
言葉の通り、頭の横には作り置いたスポーツドリンクの空容器があった。よく見ると、カナタの周りには水溜まりができている。多分、全部汗だ。
だから畳の方で寝なかったのか、と。サナは変な配慮をするカナタを半目で眺めた。
「シャワー、浴びておいでよ。そこ拭いとくから」
「イエス、マム。…そういや、オミが、帰ってこない、けど、大丈夫か…?」
「平気よ。日曜はいつも遅いの。ほら、手貸して」
つっかえつっかえ喋りながら、プルプルと四つん這いになるカナタ。サナがその腕を抱えて引き上げる。
「…ああ、あのジジイの、とこだっけ。あ、やべ。震えが…」
「…ホントに大丈夫?」
「前よりは大分楽…。二の腕に当たるお前の肋骨を楽しむ余裕くらいはある」
「それ楽しいの?」
「正直言えば横乳を楽しみたかった。何で無ぇんだよ」
「引っ叩くわよ?」
どうにか起き上がったカナタが、のそりと歩き出した。乳乳言いながら、フラフラと浴室へと向かう。
頬をヒクつかせながらそれを見送ったサナは、ため息を一つ。体力的にはギリギリっぽいが、精神的には余裕ありそうだ、と。思わずジト目になる。
そのまま床を見て、思わず歯を食いしばった。その視線の先は、カナタの汗で盛大に濡れている。
その量に、不意に涙が滲んだ。
「馬鹿…。余裕なんか、あるはずないでしょ…っ」
誰よりも追い詰められているのは、間違いなくカナタだ。普段は確かにスケベな事ばっかり言っていて、一見余裕があるように見える。だが、外でトレーニングをしている時のカナタを、サナは見てもいないのだ。
"自分から脱水症状を起こして、その状態から更に動けるように鍛錬する"
それはもう、正気の沙汰じゃない。
サナはタオルを取り出し、床に溜まったカナタの汗を拭いた。その量に、どれだけ走ってきたのかと不安が募る。
一頻り掃除を終えると、サナは空の容器を洗い、スポーツドリンクを作り直した。粉袋を開けるサナの眉間には、深々とシワが寄っている。
確かに、前と比べれば幾分余裕はあるだろう。それでも、ぶっ倒れて立ち上がることすらままならない事に変わりないのだ。作戦中にあんな状態になったら、勝ち目などない。いや、作戦中でなくとも、あんな状態にはならないほうが良いに決まっている。
そう。ならないほうが良いに決まっているのだ。
「…………ちょっと待って?」
粉末を溶いて蓋を閉め、ボトルをキッチンに置いたサナは、徐に呟いた。そのまま口元に手をやって、思考に耽る。
(動けなくなったら確かにお終いだけど、脱水起こしたらどうしたって動きは鈍るわよね…)
それは生き物として当然の話。脱水症状とは、イエローではなく既にレッドシグナルなのだ。そこからさらに走ろうという考え方に、そもそも無茶がないだろうか。
即ち、考えるべきは脱水後の話ではなく。
「…むしろ、脱水症状にならないようにする方が先じゃないかしら…?」
なぜ考えなかったのかと思うほどに、酷く当たり前の話だ。
水分補給ができるとは限らないと、カナタは言った。そして思い至ったのが、"脱水状態に慣れて、なお走れ"という、無茶にも程がある暴論。
脳筋か、と。サナは半目になった。
冷静に考えれば、脱水した後に動く鍛錬より、そもそも脱水を起こさない方法を考える方がよほど健全だ。
走りながらでも水分を補給する方法。それを、カナタは模索したのだろうか。
「…考えてないわね。多分」
そう呟いたサナは、浴室の方を流し見た。そこでシャワーを浴びている少年の性質を思い返す。
アホな言動に惑わされがちだが、カナタは頭の回転が非常に速い。それこそサナではついていけないほどだ。だというのに、何故か自分の体を張ったゴリ押しを好む。しかも、出来ないなら出来るようになるまで練習すると言う徹底っぷりだ。考える脳筋とは、またややこしい奴である。
かと言って、自分の力だけを頼みとするほど傲慢でもない。オミの知恵を求めたように、自分ではどうにもならないと思えば素直に人に頼るのだ。誰かの意見を取り入れ、即時思考に反映させられるだけの柔軟さもある。以前の頑なさは、ただ巻き込むことを恐れたに過ぎない。
恐らく、カナタの考察には明確な序列があるのだ。まず自分の能力での解決を図り、どうにもならなければ他で補う。その過程で何かしら結論が出れば、早々に実行へと移すのだろう。
そのスタンスそのものは決して悪いことではないと思う。だが、それは自分でどうにか出来そうだと思ったら、出来ないと分かるまで別のステップには進まないと言うことだ。
放っておいても、カナタはいずれ自力で気付くだろう。だが、そんな悠長なことを言っていられる状況ではない。何せカナタの命がかかっているのだ。そしてそれは、実戦以外にまで及んでいる。本人の試行を待つなど、愚の骨頂だった。
それに気づいた瞬間、サナの心に微かな光明が差した。それは鬱々(うつうつ)とした雲を僅かに晴らし、サナを奮い立たせる。
(カナタが結論を出したなら、それ以外の可能性を模索すればいいんだ。オミはそれを実践してる)
戦いの場ではカナタの力になれない。オミのように戦略面での助言もできない。求められる役割があるとは言え、サナは己の無力さに歯痒い思いをしていたのだ。
(余裕をなくしちゃダメ。カナタが一番追い詰められているのなら、私たちが補わないと…!)
そう決意を固めたサナの顔は、力強く笑んでいた。
早急に考えるべきは、"補給の簡略化"と"消耗の低減"。方針が定まれば、考慮すべきことはいくつも沸いてくる。
「私も、力になれる」
そう呟いたサナは、知らず拳を握っていた。
とはいえ、独りよがりになっても意味がない。今思いついたことを、まずは二人に相談しよう。
サナが気持ちを切り替えられたところで、さっぱりした顔のカナタが洗面所から出てきた。「ふぃ~」と、気の抜けた声を零しながら、サナの後ろをフラフラと通り過ぎ、和室で仰向けに寝転がる。
それを見送ったサナは、鳴りやまないカナタの腹の虫に思わず苦笑した。何より先に果たすべき役割があったと、いそいそとエプロンをつけて、夕飯の支度に取りかかる。
こうしてみると、出かける直前のカナタと今のカナタは、明確に表情が違う。ここに居ることで、本当に癒されているらしい。
その実感は、サナにとって何物にも勝る肯定だった。そうして余裕が出来てしまえば、知らず視野も広がってくる。
(そう言えば、アレルギーとかあるのかしら?)
冷蔵庫の中を見ながら夕食のメニューを考えていたサナは、ふと思いついたことをカナタに確認しようと、冷蔵庫を閉じた。そのまま、和室の中をひょこりと覗き込む。
「カナタ、何か食べられないものある?」
「貧乳」
「ぶっ飛ばすね」
にこやかに青筋を浮かべたサナが、仰向けのカナタへと襲い掛かった。
「ただい…」
「嘘です!冗談です!何でもおいしく食べられます!!貧乳以外は!!」
「どの辺が嘘だってのよ変態!!」
調達した機材を抱えて帰宅したオミは、ドアを開けてすぐさま半目になった。
真っ先に目にしたのは、仰向けのカナタとその腹に跨るサナ。和室で手四つに組み合っており、なんともスキンシップの激しい痴話喧嘩に興じている。
二人の言い合いから、何があったかは容易く想像できた。ただ、正直分かったところでイチャついているようにしか見えない。
いい加減慣れてきたオミは、悠々とその横を通り過ぎた。
「カナタ馬鹿だなぁ」
「え!?スルー!?お前の姉ちゃん乱心なんだけど!?」
「誰のせいよ!!人の気も知らないで貧乳貧乳って!!パッドでも入れれば満足かしら!?」
「諦めるなよ!!まだ希望はあるって!!」
「別に諦めてないわよコノヤロウ!!!」
気の済むまで楽しんでくれと、オミは半目のまま奥間へと引っ込んだ。
「あ、姉ちゃん」
「何よ!?」
その襖を閉じる直前、弟は顔だけ二人へと振り返り、姉に向かってこう言った。
「それ、シてるようにしか見えないから気を付けてね」
「え?」
「あ、騎乗位」
オミが放り込んだ導火線に、カナタがいそいそと火をつける。
腹上でカナタと目を合わせた爆弾は、みるみる赤くなり。
見事に爆発した。
「謀ったなぁオミー!!」
「ワザとかってくらい鮮やかに乗ってきたくせに」
「こっ、腰を動かすなぁこの変態!!!」
「逃げようとしてるだけっ…て、まさかのグー!!?」




