045 遠い背中
「カナタ。手、出して」
「ん?」
日曜の朝。寝ぼけ眼のオミの横で、サナがカナタへ何かを差し出した。それを見て、体操服姿で立ったままストレッチをしていたカナタが、サナに向けて腕を伸ばす。
互いの手が一瞬触れ合い、カナタの掌の上に小さな金属が乗せられた。
「何これ?」
「合鍵。無くさないでね」
カナタはきゅんとした。
「馬鹿たれこういうのポンと渡すんじゃねぇよ不用心だろうがお前らの留守中に俺が下着を漁ったらどうすんだ責任取れるのかこの貧乳!!」
きゅんとしたまま混乱し、一息に変なことを口走る。そのセリフに半眼になったサナは、詰まりつつもカナタを睨んだ。
「……その責任は流石に自分で取ってよ」
サナは「警察に突き出すよ」と返そうとしたが、現状それがブラックジョークにも程があることに気付いて飲み込んだ。そのせいで貧乳を聞き逃すあたり、どうにもヘッポコである。
「そもそも、スマホ預けてるカナタが言う?」
「お前なら何も気にならねぇよ」
腰に手を当て言い切ったカナタに、今度はサナがきゅんとした。嬉しそうに頬を緩めたと思うと、それに気づいて必死に口元を引き締める。結果、緩むと締めるが拮抗し、ヒクヒクと小刻みに引きつる歪な顔になった。
自覚があったサナは勢いよく顔を背け、その様にカナタが首を傾げる。
「わ、私だって、カナタなら別に…」
「どうした?顔キモいぞ?」
「回り込んでくるな馬鹿ぁ!!」
「あだっ!なんでっ!?」
「…胸焼け…」
デリカシーのないカナタに、サナが大して怒りの籠もっていない癇癪をぶつけ、甘ったるい追いかけっこが始まる。
結果、とばっちりを食ったオミが、遠い目をして砂糖を吐いた。
ひとしきりカナタの頭を叩いて落ち着いたサナは、仕事に出る支度を整え、玄関に向かう。そこでは、一足先にカナタが靴紐を結んでいた。
「あ、待ってカナタ。あとコレも」
「今度はなんだよ?」
頭を摩りながら立ち上がったカナタの手を取って、サナは500円玉を一つ握らせた。
「お小遣い」
「なんて嬉しくも情けない響き」
同年代の女子にお小遣いをもらうという珍妙な状況に、カナタは眉をハの字にしてぼやく。
反面、サナは真剣な顔を崩さなかった。その表情のまま、腰に手を当て身を乗り出す。
「変なプライド要らないから。トレーニング中の水分補給に使いなさい」
「へーい」
小さなポケットへ鍵と一緒にしまうカナタを見ていたサナは、不意に眦を下げ、カナタの顔を弱々しく見つめた。
「…脱水、起こさないようにね」
心底心配していると分かるサナの声色。そんなサナと目を合わせたカナタは、微かに笑って言った。
「それは約束できねぇな」
その返答は、明確なNOだった。理解が及ばなかったサナが、一瞬呆ける。
「…な、なんで…?」
「今日は脱水起こすまで走るからな」
2秒ほどかけてどうにか訊ね返したものの、間髪入れずに帰ってきた言葉が全く飲み込めなかった。
元々よくわからないヤツではある。だが、今回の意味不明さは全く質が違う。ともすれば、得体の知れない不気味さを感じるほどだった。
真夏の日中に行う鍛錬だ。コンディションの調整を誤れば本当に死にかねないのだ。それでもなお、サナの忠告に頷けない理由が何かあるのか。板間のキッチンで立ち尽くすサナには、全く思い当たらなかった。
しかし、カナタとて何の考えもなくそんな真似をする訳ではない。正直、あの苦しさは二度と味わいたくないとも思っている。
しかしそれでも、と。カナタは意を決してドアノブに手をかけた。
「作戦行動中に、水分補給ができるとは限らねぇ」
「…っ」
そのセリフに、サナは己の甘さを思い知った。
確かに、状況は多勢に無勢。一人二人躱し切って終わりではない。何人も、何十人も。誰の手も届かないところまで逃げ切らなければ、カナタは負けるのだ。
それも、一度に襲い掛かってくるとは限らない。敵の規模も、誰が敵かも分からない。断続的に襲い掛かられた時、カナタは一体何連戦することになるのだろうか。
「脱水状態に体を慣らせる。あの状況でも足掻けるように。…動けなくなったら、終わりなんだ」
それは、初めてここに来た日と、初めて銃を向けられた日。あの時と同じコンディションを、意図的に再現するということだ。そう口にしたカナタの真剣な横顔に、サナは何も言えなくなった。
"銃弾を躱して逃げ切る。そのための準備だ"
カナタの現状を始めて聞かされた夜。カナタが言った己の役割を、サナは反芻する。その"準備"を、サナは甘く見ていた。ただ一人カナタだけが、次元違いの所で戦いに備えていたのだ。
あまりにも無茶なその方針に、サナは顔を歪めた。常に極限まで自身を追い込むその姿勢が、堪らなく不安だったのだ。
しかし、否定もできない。今現在の状況は、それすら容認せねばならない程に切羽詰まっていると、サナはようやく理解した。
そんなサナの心境を把握しつつも、あの状況でこそ動けなければならないと考えているカナタは、苦笑いしながら玄関を開ける。
「ぶっ倒れてたらゴメン」
流し目でそう告げながら、カナタは部屋を出て行った。
無理しないで、と。そう言いたかった。サナは、これまで何度か、その言葉をカナタに向けて口にしている。
けれど言えなかった。こんな綱渡りすら霞む戦いの場では、その言葉は緩みでしかない。完遂するまで口にしてはならないと、そう思ってしまったのだ。
眉根を寄せて目を瞑る。サナは、より一層、自分のことが嫌いになった。
「……馬鹿だ、私……」
「良いんだと思うよ。姉ちゃんはそのままで」
苦し気なサナの声に、後ろから緩やかな肯定が呟かれる。振り向くと、朝食の空食器を抱えた弟がいた。
声はサナへと向けつつも、オミの目はサナを見ていなかった。カナタが出て行った扉を、じっと見つめている。
「カナタ言ってたじゃん。貧乳いじりは癒されるって。姉ちゃんの料理が生命線だって」
それは、今後の方針を定めた時に、カナタがサナに望んだことだった。ややふざけたようにも思えるそのセリフ。しかし、それを口にした時のカナタの顔は、冗談を言うような表情だっただろうか。
「何の他意も無い。ふざけたわけでもない。…本心なんだよ、アレは」
そう言ったオミは、泣きそうな顔で下唇を噛んでいた。その手が震え、食器がカタカタと音を立てている。それに気づいたオミは、取り急ぎ食器を流しへ置き、玄関へと体を向けた。
そこに、カナタの残影を見る。先ほど見た彼の表情は、微かに強張っていた。
「…持つはずないよ。あんな精神状態」
「オミ…」
二人は一頻り、戦いに出て行ったカナタを想った。並んでドアを見つめたまま、数分の無言に押し潰されそうになる。それでも、思考だけは、先ほどの覚悟を固めたカナタの背中を追っていた。
戦い。そう、これも戦いなのだ。命に関わるような鍛錬が日常であってたまるものか。
「きっとカナタは、姉ちゃんがいないと休まらない」
無力感を振り払い、オミが姉へと言の葉を向ける。
「…普段通りでいよう。ここにいる間くらいは気が抜けるように。姉ちゃんまでギスギスしたら、カナタ潰れちゃうよ」
「…うん」
そう言った二人の目には、涙が浮かんでいた。
カナタが抱えているもの。それを、自分たちでどこまで減らせるだろうか。
そんなことに悩んでしまう自分が、サナは堪らなく情けなかった。
「あと、姉ちゃん。仕事の時間大丈夫?」
「……あ」




