044 【幕間】裏社会の苦悩1(後)
「…間違いねぇ。あの黒づくめです…!」
「あの野郎…っ。なんて神経してやがる…!」
「ムササビだぁ?ふざけやがって…!!」
雑居ビルの一室で、執務机の前に集った男たちが顔をしかめて驚愕している。拳を握り締め、歯を剥き、眉間に寄せたシワをヒクつかせていた。その様を見ながら、モリタも同様の憤慨を抱いている。
数秒。たった数秒だ。動画の中の黒づくめは、25メートルの高所から地上へ無事着地するまで10秒もかかっていない。
もともと気にはなっていた。あの黒づくめが、如何な手段を用いてビルから降りたのか。距離を離され過ぎて、誰もその挙動を見ていなかったのだ。
ミズグチがわざわざ赴いてまで見せたモノ。それはまさに、コンクリートのジャングルを駆け抜ける、黒づくめ視点の動画だった。
出窓に着地し、ノータイムで次の足場へと飛ぶ。ビルに設置された看板を蹴ったかと思うと、柱分の僅かな垂直の出っ張りで三角飛びを敢行。次いで、常に背後にあった壁面を強かに蹴りつけると、数メートル離れた信号のポールを掴み、そのまま横向きに大車輪ときた。落下の速度を遠心力に変えた途端、すぐさま手を離して地表に降り立っている。その着地点も、人が居ない場所を狙ったのだろう。何ら危なげの無い完璧さだった。
確かに、自由落下よりは幾分時間はかかっているだろう。だが、そんなもの誤差でしかない。あんな鮮やかに25mの縦移動を行われては、多少時間がかかろうと誰も追えないのだ。
これまでに見たヤツの身体能力から、地上に降りたことそのものは、すんなりと受け入れていた。だが、それでもなお、直に見せつけられると、その手段の荒唐無稽さに開いた口が塞がらない。
「事情は知らないんですけどね。この動画の撮影者と何か揉めてるんですか?」
そう言ったミズグチは、床に散るガラス片をそのままに、ソファーでくつろいでいた。その言から、若頭から大した情報は開示されていないという事が見て取れる。
取引を任されている自分たちは仕方がない。これは従事する者たちのミスだ。だが、この男はそうではない。ミズグチは、取引の詳細を何も知らないまま、この件に関わらされているのだ。
即ち、この男は切り捨てて構わない側の人員だと。部下達3人はそう解釈し、僅かに留飲を下げた。
確かに、その認識は一部正しいだろう。しかし、モリタはそれだけとは思わなかった。それは、この男の実力を知るが故。若頭は、切り捨てて構わない人材であると同時、対処にはこの男が必要だと判断したのだ。でなければ、動画のURL一つ伝えるためだけに、わざわざこの男を寄越す道理がない。ただ切り捨てるだけの人材など、他にいくらでもいるのだから。
「…若頭からの伝言はそれだけか?」
「モリタさんから要望があれば指揮下に入れと言われました。情報開示のレベルはあなたに一任するとのことです」
それはモリタの予想通りだった。若頭はこの件を、相当に重く見ている。あるいは、この動画を見たことで認識を改めたか。
「俺たちが何を任されてるか知っているのか?」
「さぁ?僕の立場じゃ、ろくすっぽ情報なんて降りてきませんからね。ただまぁ、パシらされてる中で聞きかじった噂だけならいくつか。薬か臓器か…」
あるいは銃か、と。
そのセリフに食えない奴だと眉間に皺を寄せながらも、モリタは脳内でミズグチの配置を一頻り検討する。
この男は、極端に武闘派寄りの組員だ。クゼ、サカキ、サワムラに自分を含めた武闘派四幹部。その立場に最も近い。
能力は高水準のバランス型。射撃、近接格闘、身体能力。全ての能力が満遍なく高い。特に運動神経は群を抜いている。サカキは毛色が違い過ぎるため比較できないが、近接でサワムラに、銃の扱いでクゼに次ぐ。万能性にかけては、組の中ではクゼに並ぶだろう。
(接近戦での読みと力なら俺の方が上だ。だが、単純な運動能力と銃の腕ならこいつが上…)
ミズグチと無手でやりあったなら、モリタはまず負けはしない。だが、"ムササビ"を名乗る黒づくめを追う事を考えた時、どちらに分があるかは自明だった。
「…ミズグチ。テメェなら、こいつに付いて行けるか?」
予想外だったのか、矛先を向けられたミズグチは僅かに目を見開いた後、顎に手を当て思案顔になる。
「…どうでしょう?後を追いながらルートを見せてもらえば真似事はできると思いますが、最終的には置いてかれるんじゃないですか?手本を見るにも時間が必要ですから。必然、距離は開いていくでしょうね」
その見解を聞いたモリタは、強面を忌々し気に歪めた。
「…貴様でも難しいか」
「僕でも?ははっ。モリタさん、その動画のコメント見ました?」
「コメントだと?」
ミズグチの薄ら笑いに腹を立てつつも、モリタはその言葉に画面をスクロールさせた。
ひとしきり眺めるも、その挙動に対する賛辞や、ふざけた編集に対する揶揄がほとんどだ。しかし、その中に一つ、目を引くコメントがあった。そのコメントには最も多くの同意が寄せられ、既に多数ついているファンの間では、チャンネル名の頭にそれを冠するのが通例となっている。
曰く。
「…忍者」
その声に、ミズグチが僅かに真剣な顔をして頷く。
"忍者ムササビ"。
それが、視聴者の間で呼び交わされる投稿主の愛称だった。
「僕でも難しい?認識が甘いですよ、モリタさん」
そう言って、ミズグチは気の重さを表現するかのように深々とソファーへ背を預け、天井を仰ぐ。そのまま、お手上げとばかりに溜息をついた。
「それについていける奴が、日本に何人いるんでしょうね?」
ミズグチの見解を聞いて、モリタが唸る。その音に顔だけ起こしたミズグチが、目を細めながらモリタを見やった。
「全く同じルートを何度も通ってくれれば、いずれ付いて行けるかもしれません。で?そんなに甘い相手なんですか?」
そのセリフに、モリタだけでなく部下達も顔をしかめざるを得なかった。
しかし、これまでのやり取りから察するに、ミズグチはこの動画を既に見ていた筈だ。それは若頭も同じだろう。そう容易くは付いて行けないと分かっていた筈だ。その上でなお、この男を寄越したのはどういう意図か。
「…奴の進路をコントロールすることはできるか?」
「…銃でもあれば」
訝しげに応えたミズグチに、モリタは一つ策を思いついた。目の前の男と、自身の戦力があれば、生け捕りが出来るかもしれない。
(組最強の鉄砲玉であるクゼは殺しに特化し過ぎている。生け捕りは気質的に向いていない。フィールドを鑑みればサカキは悪目立ちが過ぎる。サワムラはそもそも不意打ち専門で、受け身の今は使い難い。そして自分は抗争と護衛が専門。向かってこない相手では用を成さん)
一頻り武闘派メンバーの特徴を思い返し、モリタが眉を顰めた。
(なるほど。ミズグチを使うわけだ)
得心したモリタは、当面の方針を固める。そのままミズグチを見やり、口を開いた。
「銃を支給する。指示に従え」
「うへぇ…」
そう命じたモリタに、ミズグチは面倒くさそうに眉をしかめ、部下の3人は忌々し気に顔を歪めるのだった。




