039 オミの秘策
「生活費が足りない…」
寝ぼけたオミが本格的に目を覚まし始めた頃。朝の家事を終え、外出の準備を整えたサナがお茶を飲みながら呟いた。その手には通帳が開かれている。
肩幅に足を開いて腰を横に折り曲げながら、頭の後ろで腕を組んでストレッチする体操服が、眉間に皺を寄せるサナの横で首を傾げた。
「配達の仕事再開できたから大丈夫って言ってなかったか?」
「そうなんだけど、今週は月木とやらなかったから、いつもより2日分少ないのよ。先週分も1日少ないし。考慮はしていたつもりだったけど…」
「珍しいね。姉ちゃんがそういう計算間違うの」
一人遅れて朝食をとっていたオミが、食べ終わった食器を流しへ持って行きながら横目で姉を見た。
そんな二人の様子に、サナは申し訳なさそうに目を伏せる。
「…食費が足りなかったの…。カナタの分が、思った以上に…」
「サーセン!!!」
衝撃を受けたカナタが、ストレッチを崩した態勢で固まった。
「ううん。私が加減間違えただけだから。カナタは遠慮しちゃダメよ。ちゃんと健康とトレーニング効果考えて作るから、しっかり食べて」
真剣に考え込むサナの言は慈愛に満ち溢れ、その横顔は無頓着なカナタをして美しいと思わせるほどだった。その感想が思わず口をついて出る。
「貧しい女神…」
「ぅえ!?あ、えと…。その、ごめんね。稼ぎ足りなくて…」
「いや、そっちに不満なんかねぇよ。貧しいのは胸の話」
目の前にあったカナタの太ももを、サナは思いっきり引っ叩いた。ひぎい、という声と共に、大きな紅葉が咲く。
カナタは敵前に出る唯一の戦力だ。その体調は最重要事項。戯言に突っ込みながらも、サナは自分の分も丸々カナタに食べさせるという、戦時下の母親レベルで対応を考えていた。
太ももの痛みに蹲るカナタの腰を踏みつけ、オミがその横に座る。そのままタブレットを操作し始め、先日アップした動画を開いた。
「ってオミ、それでインターネットして大丈夫なのか?動画上げたのと同じ端末が何度も繋げてたら、この辺が拠点だってバレるんじゃ…」
「MACアドレス変えてるから大丈夫。記録上は別の端末がWi-Fiに繋げたことになってるよ」
「あ、そう」
「とはいえログインするとMACアドレス変えても管理者ってバレるから気を付けてね」
「ごめん。何言ってんのか全然分かんねぇ」
眉間に皺を寄せながら首を傾げたカナタだが、太ももをさすりながらオミのタブレットを見て一つ気が付いた。
「あれ?この動画の金は?使えねーの?」
「月末締めの翌月末払い」
「ん?」
カナタの疑問に、オミが妙な呪文を呟いた。社会人なら馴染み深い言葉だが、流石にただの中学生には聞きなれないだろう。理解できていないカナタの様子に、サナが補足した。
「金額が確定するのは7月末で、それが支払われるのは8月末ってことよ」
「使えねーじゃん!!」
「世の中だいたいそんなモノよ?」
「貧乳の先輩面うぜぐえぇ」
言い切る前に、後ろからチョークスリーパーホールドを掛けられた。眉を吊り上げながら締めあげてくるサナの細腕を、カナタが必死にタップする。
そんな年長者を意にも介さず、オミが不敵に笑った。
「ところがどっこい。そのお金を、前倒しで使える魔法がある」
重要そうな話に、サナは渋々カナタの拘束を解いた。そのままオミに視線を向け耳を傾ける。
一方、背中に当たった感触に「マジで無ぇなコイツ」と呟いたカナタは、サナに耳を引っ張られていた。涙目で謝っている。
そんなイチャつく二人を尻目に、オミはギンギラギンに輝く、手のひら大の長方形の板を取り出した。
「そ、それは…?」
見たことのない代物に、カナタが開放された耳を抑えながら慄いた。そのリアクションに得意になったオミは、人差し指と中指でそれを挟み、年長者二人へ見せつける。
そのまま、口の端を弧に歪めながら、満を持してその魔法の名を唱えた。
「クレジットカード。母さんの」
「なんでオミが持ってるの?」
そのドヤ顔は、姉の怒りを買った。
意図的に無視し、オミは続ける。
「今日時点で再生数は65万を突破した。広告収入も10万円は固い。生活費への補充を差し引いても、十分に余裕がある」
腰に手を当て、胸を張るオミ。一拍溜めると、真剣な目で二人へ告げた。
「装備を整えよう」
「何その心踊る響き」
「オミ。ちょっとそこに直りなさい」
目をキラキラさせたカナタとは真逆。誤魔化されなかったサナの据わった眼に、オミは大量の冷や汗をかいた。
◆
オミを問い詰める時間が無かったサナは、帰ったら覚えてなさいと捨て台詞を残して出勤。命拾いしたオミは、トレーニングに出かけるカナタに「夕方付き合って」と伝え、動画の編集を始めた。
日中は、3人それぞれ役割を熟す。夕方になり、カナタとオミが合流。汗だくのカナタが、シャワーを浴びてGパンとTシャツに着替え、そのまま二人で街へと繰り出した。
時刻は19時前。二人は、地下鉄の駅からほど近い繁華街の一角にやってきた。華の金曜日ということもあり、一帯には飲みに繰り出すサラリーマンが非常に多い。飲食店は賑わい、中には既に酒に呑まれている者たちもいる。
そんな人込みの隙間を縫って、二人はある建物にやってきた。カラフルなネオンと看板で彩られた8階建てのビル。看板には“カプセル&スパ”と書かれている。大都会特有の銭湯併設型カプセルホテルだ。
「…風呂入りに来たの?俺シャワー派なんだけど」
「人の話聞いてた?」
キョトンとした顔で首を傾げたカナタを、オミがジト目で睨んだ。
「装備を整えるって言ったじゃん。上澄みに用はないよ。あるのはこっち」
そう言ってオミは、シックで明るいカプセルホテルの入口の脇、細く仄暗い、地の底へ続くような下り階段へ足を踏み入れた。
「あれか?東京にあるって言う噂の武器屋か?伝説の剣とか鎧とか売ってる?」
「それあるの秋葉原。コスプレの域を出ないレプリカだよ。身軽さが武器のカナタにそんな重石いるの?」
「じゃ刀!銃弾を斬るとか憧れるよな!」
「頼むからやろうとしないでね」
外観とは全くそぐわない、ひび割れたコンクリートむき出しの鄙びた階段。ロクな灯りも無いそこをゆっくり下りながら、妙にワクワクしているカナタをオミがあしらっていた。
程なくして地下2階に辿り着く。所々塗装の禿げた鉄扉。何ら装飾は無く、無骨な印象を受ける。その上には申し訳程度の看板があり、“電気屋”とだけ書かれていた。
どう見ても、小学生が手慣れた様子で訪れる店構えではない。
眉間に皺を寄せたカナタを尻目に、オミは躊躇いなくその扉を開けた。
「ゲンさん、いる?」
扉の先は、一言で言えば雑多だった。20畳ほどのスペースの中央に、大きなパソコンとモニターが5台ほど円状に置かれていた。左右の壁際には天井まで続く棚があり、何に使うか分からない電子機器が所狭しと並べられている。天井には裸電球が一つ垂れており、部屋の広さに対して明らかに光量が足りていない。奥にはカウンターがあり、その中には暖簾で隔てられた奥間があった。
「…なんでぇ坊主。今日は授業の日じゃねぇだろ?」
その暖簾の向こうから、初老の男性が顔を覗かせた。鋭い目つきに、短い白髪。嗄れた声。歳は60半ばといったところだろうが、妙に猛々(たけだけ)しい気配で満ちている。
暖簾をくぐってきた老人の動きは軽い。中肉中背のしなやかな体を灰色の甚平に包み、カウンターの向こうにあるのであろう椅子に座る。
その一連の動きを見た瞬間。
カナタの背筋に怖気が走り、強制的に戦闘態勢を取らされた。




