038 ちゃんと言うよ
昨日の感触をある程度再現できたカナタは、鍛錬を切り上げた。体力は回復していたが、筋肉はまだ損傷しているのだ。コンディションを整えるためには、生活リズムを崩し過ぎるわけにもいかない。細かな調整は明日にして、今日は早めに寝るべきだと、カナタは帰宅の途に就いた。
クールダウンを兼ねて、ゆっくりとしたジョギングで体をほぐしながらアパートに至る道を行く。ただ、ゆっくりとは言ってもカナタのそれは50mを10秒かからず駆け抜ける。オミに言わせれば頭がおかしいペースだった。
しかし、カナタは息一つ切らさず上機嫌だ。何せ、体は重くとも心が軽い。自然とカナタの表情は緩んでいた。これだけ走ることに集中できたのは、東京に来て初めてだったかもしれない。
胸を張って帰れるところがある。
ただそれだけで、ここまで心が晴れるとは思いもしなかった。
足の指にかかる荷重をコントロールし、速度を勘案しながら重心を傾ける。腕の振りをコンパクトにまとめ、左右別々に歩幅を調整。遠心力を利用し最大効率で角を曲がり、少し先にサナとオミがいるアパートが見えた。
同時に、視界に飛び込んできた景色に違和感を覚える。
「ん?………ひいっ!!」
目を凝らしたカナタは、その理由に気付き悲鳴を上げた。思わず急ブレーキをかける。
アパートの目の前にある電柱。仄暗く明滅するその街灯の下には、蹲る人影があった。
時刻は深夜0時を回ったばかり。真っ暗闇の中で淡い街灯が照らす三角錐の小さな世界。背景は2階建ての鄙びた木造アパート。虫の声しか聞こえない静けさ。
取り巻く情景も相まって、その人影は完全にホラーだった。
立ち止ったカナタは、怯えた目でその人影を凝視する。
肩甲骨程まである栗毛の髪が毛先に向かうにつれ緩くウェーブし、華奢な骨格を白いノースリーブパーカーに包んでいる。膝を抱え込み、顔は腕で隠れているが、全体的に見慣れた印象を受けた。
その正体に気づいたカナタは、盛大に溜め息をつく。
「…なんだサナかよ。びっくりしたぁ…。何してんだよ?そんなところで」
そう声を掛けながら近づいて来たカナタに、サナは顔を俯かせたまま立ち上がった。そのまま、少年に体だけ向き直る。しかし顔は上がらない。口を引き結んだままのサナは、首を傾げながら目の前までやってきたカナタの様子を一瞥すらせず。
その頭をポカリと叩いた。
「いて!何すん…え、ちょ!やめ、何!?何だよ!?俺なんかした!?」
それも一度や二度ではない、困惑するカナタを何度も何度も叩いた。しかし、その力はさして強くなく、その上段々と弱くなる。叩く位置も徐々に下がり、終いにはカナタの肩に拳を押し付けて動かなくなった。
「サナ?マジでどうした?」
「…こ行……たのよ…」
「え?」
カナタの問いかけに、サナは掠れる声で何かを呟いた。その言葉が聞き取れず、カナタは思わず聞き返す。すっとぼけた声に反応したサナは、目に涙を湛えたまま歯を食いしばって顔を上げた。
「こんな時間に、どこ行ってたのよっ!」
弱々しく眉をしかめるサナの様子に、カナタは目を見開いた。
そのまま固まったカナタをしばし睨みつけたサナは、不意に涙を零す。自分の頬を伝うそれに気づき、思わず顔を逸らした。
グシグシと手の甲で目尻を拭いながら、サナは涙の理由を自白する。
「出て行ったのかと、思ったじゃない…っ!」
転寝をして、目が覚めたらカナタがいなかった。それは、数時間前に届いた絆が夢だったのではないかと、そう思うほどにあっけない喪失で。焦燥に駆られ外に飛び出すも、探す当てなど有る筈も無く。結局何処にも向かう事が出来ず、そのまま家の前で途方に暮れるしかなかったのだ。
そこへ飄々と現れた間抜け面に、サナは涙を耐えきれなかった。
「…く、あははははははは」
「な、なにがおかしいのよ!?」
カナタは、自分に対する彼女の情が異様に強いとは思っていた。だが、それでも未だ低く見積もっていたらしい。それが妙に嬉しくて、カナタは腹を抱えてしまう。
その反応がお気に召さなかったのだろう。涙目のまま膨れっ面になったサナが、上目遣いで再びカナタを睨んだ。しかし、威圧感が全くない。年上の筈の彼女のそんな様が、カナタは可愛くて仕方なかった。
止まないカナタの笑い声。睨むだけでは足りないと、サナは唸りながらカナタの胸をぽかぽか叩いた。
「悪い悪い。今日一日寝たきりだったからさ、ちょっと体をほぐしに走ってきただけだって」
カナタは苦笑しながら、サナの拳を手のひらでパシパシ受けた。その感触に、叩くのをやめたサナは鼻を啜る。
「ぐすっ…、2時間も?」
「お前何時から起き…、いや待て。何時からそこに居た?」
「…22時くらい」
「うん。マジでスマン」
それはカナタが出かけた直後ということだ。流石に笑っていられる待ち時間ではなかった。その間不安にさせ続けていたことを申し訳なく思ったカナタは、笑みを引っ込めた顔の前で右手を立てる。
僅かに高いカナタの眼。自分をまっすぐに見るそれを、サナは釣り上げた目で睨みつける。しかし、優し気な眼差しが急に気恥ずかしくなり、思わず顔を下に逸らした。暗くてわかり難いが、その頬は真っ赤に染まっている。
「…汗、かきすぎ」
「走ってきたって言ったろ」
「…こんな時間に出かけるなんて非常識よ」
「深夜徘徊ってワクワクするよな」
「…行って来ますくらい言いなさい」
「お前ら寝てたじゃねーか」
「…書置きくらい残せるでしょ」
「そりゃまぁ確かに」
悪態をつくサナに軽口を返すカナタ。どちらも声色に勢いはない。サナは弱々しく、カナタは穏やかだった。
一言零す度にきちんと帰ってくる少年の声に、サナの心を鷲掴んでいた不安が急速に和らぐ。
しかし、ほんの数時間前までカナタが抱えていた焦燥と恐怖は、こんな物では無かった筈だ。それでもなお、差し伸べられた手を振り払おうと必死だった少年の内心を思うと、サナは再び込み上げてくるものを抑えられなかった。
「…カナタ…」
「なんだ?」
一層深く俯いたサナの呼びかけ。それに訊ね返したカナタの手を取り、少女が顔を上げて言った。
「…居て、いいからね…」
自分の眼をまっすぐ見つめる涙に濡れた瞳。それに一瞬キョトンとしたカナタは、すぐに朗らかに笑った。そのまま、サナの頭を優しくなでる。
「心配すんな。どこにも行かねーよ」
「……うん…」
優しい手つきに、サナの眼が細まる。ずっとへの字だった口から、ようやく力が抜けた。
「必ずここに帰ってくるから」
「…うん」
「何も言わずに居なくなったりしない」
「うん」
「お前の貧乳は欠かさずいじるよ。約束す」
ノーモーションの張り手に、カナタはみなまで言えなかった。
「…反応速くね?」
「絶対なにか言うと思ってたからよ!この変態!!」
季節外れの紅葉を頬に咲かせたカナタが、紅葉と同じ色で顔を染めたサナに背中を押される。
「ほら!早く家入る!」
「分かった、分かったって」
玄関を開けて敷居を跨いだ二人。そのままサナは、カナタを洗面所に押し込んだ。
「はい!バスタオルと替えの体操服!あとパンツ!さっさとシャワー浴びてきなさい!」
「おす」
そう言って、テキパキと必要なものをカナタに押し付けたサナは、次いで冷蔵庫を指さした。
「そこに作り置きのスポーツドリンクあるから!ちゃんと水分補給すること!」
「はい」
まくし立てるサナに律儀に返事を返す。というより、間髪入れないサナの指示に、2文字で済む了解の言葉以外を差し挟む隙が無かった。
「髪乾かして歯を磨いてから寝なさいよ!おやすみ!!」
「サナ」
「何よ!?」
ただ、文字数の同じ彼女の名前を呼ぶ隙はあったらしい。その声に反応したサナが、洗面所のドアをくぐりながら勢いよく振り向いた。
「ただいま」
眉を吊り上げる彼女に向かって、カナタはようやく、一番言いたいことを言えたのだった。
歯を見せて笑うカナタにサナは目を見開く。今までの口調で何かを返そうとするも、言葉が出てこない。しばし口をパクパクさせた後、諦めたサナは溜息を一つ挟んだ。
そうやって気を落ち着けてしまえば、今できる返事なんて、一つしか浮かんでこなかった。
「…うん。おかえり」
自然と笑顔になった彼女は、それだけ言って、ドアをゆっくりと閉じるのだった。
「…あーもう…。何なのよ…、あの変態…」
洗面所から続くキッチンで、サナが真っ赤な顔を抑えて蹲る。
「まったく。世話を焼かずには居れんのか?あの貧乳」
浴室でシャワーを浴びながら、カナタが楽しそうに苦笑する。
「……胸焼け…」
和室で座卓に突っ伏しながら一部始終に耳をそばだてていたオミが、虚空を見上げて砂糖を吐いた。




