037 光明の夜
「…あれ?」
3時間ほど話し合い、芯となる方針に細かな肉付けを行った後、カナタは固めた策に穴がないか考察していた。しかしふと、いつの間にか部屋が静かになっていることに気付く。
共に考えていたはずの二人はどうしたと。徐に上げた視界に、座卓に突っ伏すように眠る姉弟の姿が映った。
時刻は22時。サナは今日も早朝から仕事に行っていた筈だ。となると、二人が動画を見てカナタに対するスタンスを話し合ったのだとしたら、それは昨日の深夜、カナタが帰還した後しか無いだろう。夜更かししたことは想像に難くない。ぐーすか寝ていたのは自分だけだ。
二人の寝顔をひとしきり眺めたカナタは、彼らの存在の有難さを改めて噛み締めた。時間を割いて自分のことを深く考えてくれていた二人には感謝しかない。
「…ありがとう」
無意識に溢れた呟きと共に、カナタは思わず破顔した。
正直、何故こうも積極的に自分を受け入れてくれるのか、未だ不思議ではある。危険性は全て話したし、巻き込んだ自分を責めるくらいはしてもいい立場の筈だ。
だと言うのに、二人はそれを一度もしなかった。どうやら、逆に自分を逃がす気が無かったらしい。
「…泣かされるとは思わなかったな…」
二人の熱意に、カナタは負けた。完膚なきまでに意地を砕かれたのだ。それが気恥ずかしく、同時に嬉しくもあった。
頬杖をついて、対面のサナを見る。
「俺が来る前のサナ、か」
それは、オミが自分に向けて言った、カナタを受け入れる理由の一つだ。怒って、罵って、叩いて、そして笑う。そんな、カナタが見てきたサナの姿を、オミは見たことがないと言う。
確かに、カナタは二人のことを何も知らない。漏れ聞こえてくる僅かな過去だけでも、平凡に暮らしてきたカナタには想像もつかない状況だ。しかし、二人の様子からは、そんな苦労を感じることがほとんど無かった。
自分がいることで、サナに何かしらいい変化があったと、オミはそう言ってくれている。それはカナタにとっても嬉しいことではあった。
ただ一つ。
「…お前のどこが10歳だよ」
座卓の右側にいる、4つも歳下の男の子。その頭を撫でながら、カナタは思わず苦笑した。見た目に反した知性と精神性。姉が幸せなら何でもいいと言う振り切れた価値観。
「…シスコンって極まるとこうなるのか。俺には真似できん」
オミが聞いたら剥れそうなことを、カナタはボソリと呟いた。姉のためになるのなら、爆弾だろうと毒だろうと、この子は飲み干すのだろう。即ち”カナタはサナに必要だ”と、オミは思ってくれているのだ。
それはカナタにとって、涙が滲むほどの肯定だった。
とはいえ、自分がこの二人にもたらした物など、利より厄のほうが遥かに大きい。故に、自分には責任がある。こんな暴力に塗れた世界から、二人を連れて引き返さなければならないのだ。
緩やかな眼差しの中に決意を携え、カナタは立ち上がる。その表情のままソックスと靴だけ履き、二人を起こさないよう、そっと玄関を開けた。
「ちょっと行ってきます」
部屋の中を振り返ったカナタは、小声でそれだけ言う。僅かに身じろぐサナを見届けて、ゆっくりとドアを閉じた。
◆
カナタにとって、"ランニング"とは"思考"と同義である。
それは、ただ考え事をしながら走っている、という意味ではない。どの筋肉をどう動かすとどの関節に負荷がかかるのか、どこの部位をどういったタイミングで動かせば効率よく連動できるのか。そんなことを只管考えながら、カナタはランニングという行為を行っているのだ。
この在り方は、"肉体の精密操作"と"効率的な体力分配"と共に、異様なまでの"怪我の少なさ"をカナタにもたらした。効率よく体を鍛えるには、密度の濃い鍛錬を、しっかりと時間をかけて行うのが確実だ。しかし、その過程で怪我でもして、トレーニングができなくなっては本末転倒だった。
結果、鍛錬として必要十分な負荷をかけつつも、可能な限り怪我をしない走り方を模索し続けたのだ。それは、絶大なスタミナと柔軟で強靭な筋肉を身に着ける要因となる。
同時、カナタの能力に蓋をすることにも繋がってしまった。
ケガをしないために、過剰な負荷を掛けない走り方。それそのものは、成長期であるカナタの体に適切であったことは間違いない。一方で、能力をセーブしてしまうそれは、記録の停滞という形でカナタに挫折をもたらしている。特に陸上競技において、その傾向は顕著だった。
しかし、カナタにはその殻を破った感覚があった。それは昨日、パルクール中に銃を向けられた後のこと。ケガをしない適切な走り方をかなぐり捨てたカナタは、停滞していた記録を大きく塗り替えるであろう速度で走っていたのだ。
カナタ自身がそれに気づいたのはつい先ほど。二人と今後の方針について話し合っていた時に感じた体の痛みだった。
「…ふくらはぎと太もも、ケツ、それから腹筋も…。筋肉痛なんて久しぶりだな…」
体のあちこちに走る鈍い痛みで、ただ走ることにも難儀する。そんな、しっかりと負荷がかかった証拠となる心地よい達成感。久しく感じていない、成長の兆しだった。
毎日毎日、バカみたいな距離を走り続けていたカナタにとって、ただ走っただけで筋肉痛に苛まれるなど、ほとんど無かった。しかし、その理由には既に思い至っている。
それは意識の違い。
カナタは普段、“速く走る”と同時に、“負荷の調整”を心掛けている。しかし昨日は、走るという"思考"から後者を完全に切り捨てた。結果、ただ只管に速く走るためだけの体の使い方を実践したのだ。
それは、全身に過負荷というダメージを負わせたと同時、カナタの可能性を広げるきっかけともなった。
(あの走り…。アレは切り札になる)
今の自分のランには、自分以外に二人の命がかかっている。ケガの可能性をおしてでも速く走らねばならない時は必ず来る。その時までに、あの走り方を自分の体に最適化させる作業は必須だ。無意識に行うか、思考で以て備えるかでは、怪我の確率が大きく変わってくる。
(違う、もっと前傾だ。うおっ腹筋いてぇ!筋肉痛の原因はこの姿勢か?いや、上半身だけ傾けても腹にしか負荷がこねえ。重心ごと前へ。こうなると腿上げが必要に…。お、自然とストライドが広くなった。って、次の一歩が遅れると転ぶぞこれ…!)
インターバル走で各動作を少しづつ確かめつつ、納得のいく感覚を探す。
(ずっとやってたらすぐに怪我をする。だけど、いざという時は使えるように、この走り方をしっかり刻み込め)
これ以上は痛めると、カナタの思考が言う。それを意図的に無視。これまで限界点としていた負荷の一歩先を行く。怪我をしてでもという、最速のための体の使い方。カナタは今、昨日の走り方を再現しようと試行錯誤していた。
(それから、これまでの走り方を改めろ!俺は常に、もっと速く走れる!)
その上で、切り札ではない通常の走りにもフィードバックする。
これまでの思考が間違っていたとは思わない。だが、無意識に怪我をしないことの比重が大きくなっていた可能性はある。あるいは、カナタの肉体が成長し、より大きな負荷に十分耐えられるようになったのかもしれない。
(怪我をするわけにはいかない…!だけど、その意識にとらわれて、振り絞れる力を出し切らずに捕まるなんて、それこそ許されない!)
思考を伴わない昨日の走り方でも、まだ筋肉痛で済んでいるのだ。なら、普段からもう少し速く走っても問題は無い筈だ。
(絶対に捕まるわけにはいかないんだ!速さと負荷の限界を見極めろ!)
長年かけて染み付かせた走り方を一から書き換える。そんな作業を平然とこなせるのも、感覚ではなく思考で体を動かしていたカナタだからこそだ。
(これまで通り怪我をせず、これまで以上に力を振り絞れる妥協点を調整し直せ!今回筋肉痛で済んだのは運が良かっただけだ!無意識で行うな!理性に落とし込め!)
カナタにとって、昨日の走りは恥だった。速く走るという意識のみが先行し、どこをどう動かすという理屈がすっぽりと抜けていたからだ。
それでもなお、これまでより遥かに速く走れたことは確実。恥であると同時に、それは希望でもあった。
無意識ではなく意識して行えるよう思考と試行を繰り返し、“可能性”を“確実”にまで引きずり下ろす。
その擦り合わせ作業は、2時間にも及んだのだった。




