032 敗北の味
オミの目の前で展開されていた罵り合いは、どう見ても互いが互いを思い合ってのそれだ。傍から見ているだけで、むず痒くなるような喧嘩だった。とはいえ、オミの本心としては、二人の気が済むまで好きにさせてあげたかった。ずっとこの喧嘩を見ていたいくらいだ。
しかし、体力オバケのカナタはともかく、サナがそろそろ限界だ。よくよく見れば、彼女は肩で息をしている。
ついでに自分の内心も限界だ。これ以上見ていると盛大に泣く自信がある。自分と姉の目的のためには、それは悪手だ。場が余計に混乱してしまう。
収集がつかなくなる前に引き継ごうと、オミは一つ息を吐き、歓喜に暴れる感情を落ち着かせた。どうにか表情を取り繕うと。真剣な目でカナタを射抜く。
「…どんなに卑屈になったって、カナタがそんな利己的な人間じゃないって、僕たちはもう知ってるんだよ」
「…買いかぶるにも程があんだろ。俺は、自分の都合でお前の大事な姉ちゃんを危険に晒したんだぞ。得体の知れない他人なんか放り出せ。それがお前らのためだろ」
相手が変わって落ち着いたのだろうか。カナタの声色は随分と大人しくなった。しかし、それでも苦々しい顔は崩さない。一方的に、カナタが思うオミの都合を押し付けてくる。
「お前は、将来姉ちゃんを養うことだけ考えてればいいんだよ」
「僕もそうしたいし、それでいいとも思ってたよ」
「じゃあ貫けよ。お前にとってそれ以上に大事な事なんてないだろうが」
「そうなんだけどね」
カナタの言を肯定しつつ、オミは視線をサナへとずらす。眉根を寄せて目に涙を浮かべる姉を見て、オミは笑った。
「怒るんだよ、姉ちゃん。カナタといると」
「…は?」
カナタは、オミが何を言いたいのか分からなかった。険しくも呆けた顔で硬直する。
「感情的に怒って、罵って、逃げるカナタを追いかけて触れに行って」
そこまで言って一呼吸溜めたオミは、改めてカナタを見た。
「それでね。笑うんだよ」
そう言ったオミの笑顔は、少し悔しそうだった。
「見たことないんだよ。そんな姉ちゃん」
目を瞑って、オミは昔のサナを思う。
ため息混じりの無表情で、感情を殺しながら学校へと向かう姉。
目の前の母に恨み言一つ言えず、眉根を寄せて黙り込む姉。
精一杯の勇気を振り絞って、手を震わせたまま仕事へと向かう姉。
虚ろな目で死を望む、伽藍堂の姉。
どれ程思い返しても、今目の前にいるような感情豊かな姉は、ただの一つも出てこなかった。
「僕はね。姉ちゃんが幸せなら何でもいいんだ」
つい先日まで、仕事に行く時も、料理をする時も、姉が朗らかに笑ったことなんか一度も無かった。それがカナタを前にするとどうだ。彼と一緒に外出する姉の顔は自然と緩み、キッチンに立つ時も鼻歌交じりだ。
「苦労させてるから、その分将来楽させたいとも思う。でもさ…」
目を開けたオミは、立脚点を忘れたわけではないと、自分の夢を繰り返す。けれどその夢は、ようやく花開いた彼女の感情を、再び枯れさせてまで優先すべきものではない。
その意が、目の前の少年に届いてほしいと、オミはまっすぐカナタを見た。
「今の姉ちゃん、楽しそうなんだよ。ただ、カナタがいるだけで」
姉にそんな感情をくれたその人が、今苦しんでいる。後悔と自責に苛まれている。そんな様でもなお、珍妙な喧嘩で姉をこんなに感情豊かにしてくれるのだ。感謝しないはずが無かった。
しかし、カナタはそれでも揺らがない。剣呑な目を崩さないまま、オミを睨みつけていた。
その理由は、身に焼き付いてしまった恐怖だ。カナタは直接銃を向けられ、その引き金を引かれたのだ。刻まれてしまった現実の暴力が、カナタに折れることを許さなかった。この二人にそれを味あわせるかもしれない。それがどうしても許容できなかったのだ。
故に、カナタはそれを諭そうと、震えたまま口を開く。
「ふざけるなよオミ。状況分かって言ってるのか?それは、銃口を向けられるリスクを負ってまで固執するべきものなのかよっ…!」
「そうだよ」
しかし、間髪入れずに返ってきた肯定の声に、カナタはついに絶句した。ぽかんと口を開けたその顔に、自分の常識がずれている自覚があるオミは、さもあらんと内心苦笑する。
それでも、その常識をカナタに寄せてやる気は毛頭ない。
あの日死んだ姉の心が再び彩られて行く様を、もっと見せて欲しい。
オミは心の内だけで、そう叫んだ。その熱情をおくびにも出さず、ただ淡々と口を回す。
「それが姉ちゃんにとってどれだけ大きい事か、カナタには分からない。カナタが来る前の姉ちゃんを知らないカナタには、絶対に分からない」
そう言ったオミの眼は、信じられないくらい力強かった。カナタをまっすぐ見据えて離さない。
半年ほど前から、サナはただの抜け殻だった。社会復帰して表面上は大分回復したように見える。だが、それも姉としての義務だけで取り繕っているようなものだ。弟が独り立ちしたらそのまま消えてしまうかもしれないと、オミはそんな懸念をずっと抱いていた。
そんな気配が、カナタが来た途端に霧散したのだ。年相応の感情を取り戻した姉の姿が、オミは堪らなく嬉しかった。
そこまで考えたオミは、ふと表情から力を抜く。
「それに、カナタのせいじゃないじゃん。カナタが例え毒だとしても、好んで食べたのは僕達だよ。毒を食らわば皿までってね」
カナタが頑なな理由は分かっている。無断で見た動画から、カナタが極限の恐怖に惑っているのを知っていたからだ。自分たちが何を言ったところで、カナタの内に巣食うそれが和らぐことなどないだろう。
しかし、それならそれで解せないことがあると、オミは切り口を変えた。
「推測だけどさ。カナタは、昨日初めて銃を撃たれたんじゃない?もっと前からあんな物を向けられてたなら、そもそも何があってもここには居付かなかった筈でしょ」
「…だったら何だってんだよ?」
「どうしてその状況で昨日ここに戻ってきたの?」
「っ!!」
その一言は劇的だった。カナタの眼が見開かれ、肩を震わせ、言葉を無くす。
それも必然だ。何せそれこそが、今カナタが最も危惧していることなのだから。
そんなカナタの様子に、オミは確信を得る。狼狽えるカナタに向け、改めて表情を引き締めてその推測を紡いだ。
「戻るはずないよね。僕たちを巻き込むことを危惧して、ここまで後悔に苛まれるような人なんだから。銃まで向けられることを知って、僕達を巻き込みたくなくて、それでもここに戻ってきたのはどうして?」
その問いかけに、カナタは俯いて歯を食いしばった。答えられないという合図だ。
しかし、そもそもオミはカナタの答えを必要としていない。
何せ、その理由には、既に思い至っているのだから。
「僕が、動画を上げたせいなんでしょ?」
その一言に、弾かれたようにカナタは顔を上げた。
「違う!!お前は悪くない!!!」
「論点はそこじゃないよ」
焦るカナタに対し、オミはどこまでも穏やかだった。
「カナタは、僕たちの身の安全に疑義があるから、無責任に去っていけなかったんだ」
図星を付かれたカナタは、オミの聡明さに、もう何も言えなかった。
すべてオミの言うとおりだ。顔がバレていないことを知って、警察の規模が大きくないことを察して、気を抜いて寄り掛かった。と思った矢先に銃を撃たれ、現状の危険度を改めて思い知ったのだ。
巻き込みたくない。しかしすでに巻き込んでいないかどうかの判断がつかない。要因はネットに晒されてしまった動画だ。この懸念が無ければ、カナタはここに戻っては来なかった。
「僕のファインプレーだ。褒めてよ姉ちゃん」
勝手にアップするのはマナー違反だったけどさ、と。オミは姉に向けて歯を見せて笑う。その様に、一瞬キョトンとしたサナは、微かにほほ笑んで頷いた。
直後、二人は表情を引き締め、その視線でカナタを射抜く。
「教えてよ、カナタ」
真っ直ぐなオミの眼に、カナタは身を竦めた。その顔が、徐々に下を向く。
「カナタが今、何を抱えているのか」
正面からかけられるオミの淡白な問いに、殻がひび割れる。
横から感じるサナの強い視線に、心が揺らぐ。
そんな内心の変化に抗うように、カナタは完全に俯いて肩を震わせた。
「それだけ後悔して、それでもなおここを離れられない理由」
弩級の危機を持ち込んだ罪悪感から、カナタは己を責めた。しかし、肝心要の二人がカナタを責めず、知らないうちに受け入れ態勢が整っている。
なんだこの状況、と。カナタはあまりにも想定外すぎる二人の態度に混乱していた。
そもそも、必死に取り繕ってはいたが、サナの熱を帯びた言葉だけで既に限界だったのだ。いつ決意を無視して彼女に泣きついてしまうか、カナタは気が気ではなかった。
その様を無視して、オミが続ける。
「僕言ったよね。動画の投稿元は、ヤクザじゃ調べようがないって」
どの道、カナタ一人では判断がつかなかった話だ。分からないことは調べるか聞くしかない。
「それでもなお、カナタが不安に思う理由」
その上、既に手遅れだとしたらこの二人を巻き込まない未来などない。全てを話すしか道は無いのだ。
「僕たちを巻き込んだって考えてしまう、その理由を」
つまるところ、カナタには既に選択肢がない。ならば何を言ったところでただの悪足掻きだ。必然、答えの分かり切った、意味のない幼稚な反論しか浮かんでこなかった。
「…聞いて、どうすんだよ…?」
「考えよう」
カナタは、それをそのまま口にする。そしてオミもまた、当たり前の答えを返した。
今カナタの身に何が起きているのか、サナとオミは何も知らない。具体的な話など、出来るはずもないのだ。
「僕も姉ちゃんも、そしてカナタも。全員の安全が確保できる方法を、一緒に考えよう」
故に、知った上でどうするかを決めるしかない。即ち、オミは"何があっても受け入れる"と、暗に宣言しているのだ。
情に絆されないよう、カナタは努めて己を律していた。しかし、情が絡まずとも、この二人は最早避けて通れるものではない。
「一蓮托生って奴だね。いい加減、腹を括りなよ」
僕たちは済ませたよ、と。
そう続いたオミの言葉に、カナタの視界に映る畳がぼやけた。肩の震えが、一層大きくなる。
それを見たサナが表情を緩めた。
「カナタが私たちを守りたいと思ってくれてるの、分かるよ」
先ほど振り払われた手をもう一度、サナは握った。
「だからお願い。私たちにも、カナタを守らせて」
サナの声は、ひどく穏やかだった。
カナタの本心を、優しく掘り起こすサナ。
カナタの言い訳を、理路整然と断つオミ。
二人の連撃に、カナタはついに屈した。
「…サナ」
「うん」
「…オミ」
「なに?」
二人の名を呼んだカナタは、背中を丸め、自分の拳を包むサナの手に、額を寄せる。
そのまま、彼女の指元に数滴の雫を落とすと、敗者の礼儀を全うした。
「…たすけて…」
歯を見せて笑うオミ。
目を細めて微笑むサナ。
唇を噛んで嗚咽を堪えるカナタ。
ようやく聞けた本音と、躊躇いなく応える姉弟の暖かな声が、和室に響く。
それは力強い熱となり、理不尽に凍えるカナタの心へと、深く、深く染み渡った。




